第31話
たまかの叫びとともに、近づいていた刃が、回転はそのままに一瞬その場に止まった。たまかは隙をつくように、そのまま続けて捲し立てた。
「その方にお会いして、伝えなくてはいけないことがあるんです!」
「『サクラウ』? ……誰?」
「あ、あれ?」
『サクラウ』は林檎がたまかに言付けを頼んだ相手だ。林檎が潜入まで命じて指名した以上、相手は『ラビット』の一員のはずである。しかしナナは本当に心当たりがないようで、不思議そうな顔をした。
「あー、なるほど? たまかちゃんなりの時間稼ぎ、ってこと? 適当な名前を言って——」
ナナの続く言葉は、扉が勢い良く開け放たれた音にかき消された。チェーンソーの音にも負けずに響いた音の出所へと、部屋の二人は同時に振り向いた。
限界まで開いた扉を勢いよく押した格好のまま、斜めに切られたチョコレート色の髪が優雅に内巻きを揺らしている。ボンネットをあげて現れたその顔には、得意気な笑みが滲んでいた。
「……ノア」
後ろを振り返りながら、ナナは突然現れた少女の名前を呟いた。その声色は先程までの覇気を失っているように感じた。たまかからはその表情は見えず、レモン色の髪がチェーンソーの刃に巻き込まれそうになりながら目の前で揺れていた。
(あれ、先程までの勢いが和らいだような気がします。ナナさん、もしかしてノアさんを警戒しているのでしょうか……?)
ノアは靴音を響かせ、ナナと縛られたたまかのもとへと悠然とやってきた。パニエによって膨らんだレースとフリル塗れのスカートが、ゆさゆさと合わせて揺れた。
「ナナちゃん、何してるの?」
ノアはにこやかに話しかけた。両手を後ろに組み、ナナを下から覗き窺う。ナナは笑みを消し、言い訳するように口を開いた。
「たまかちゃんと遊んでた」
「えー、ナナちゃんばっかりずるーい」
ノアは駄々をこねる子供のように身動ぎをした。ナナが何事か言おうと口を開きかけたのを制するように、ノアはナナからチェーンソーを引っ手繰った。再び刃を回転させ、色素の薄い瞳をたまかへと持っていく。口元には笑みが浮かんでいた。
「え~い」
ノアはたまかの背後にまわると、躊躇なくその刃をたまかの腕に近づけた。たまかが肝を冷やすのとは裏腹に、痛みはいつまでもやってこなかった。代わりに、ぱさ、と床から間の抜けた音がした。圧迫感の消えた手首の先、下を見下ろすと、水浸しの床へと切られた縄が落ちていた。
「ボクもたまかちゃんと遊ぶ」
ノアはチェーンソーを床に置くと、たまかの腕を掴んだ。人間のものとは思えないような、ひんやりとした冷たさが支配した。そのまま走り出すノアに釣られ、慌ててたまかも椅子から立ち上がり、引っ張られるまま足を動かした。ナナの横をすり抜け、開け放たれた出入口へと歩みを進める。
「ノア! たまかちゃんを一目キャプテンに見せるまでは、形を保っておくんだよ!」
ナナの大声が後ろから追いかけてきた。形を保っておくという人間におよそ使うことのない表現に、たまかは乾いた笑いを浮かべた。
「はーい」
ノアはボンネットが落ちないように手で支えながら、けらけらと笑った。厚底は軽やかに地面を蹴って、拷問器具だらけだった部屋を後にした。たまかは出入口から出たあと、そっと遠くなる後ろを窺った。部屋に椅子と一人残されたナナは、何やらポンと手を打っていた。
「ああ~、『サクラウ』!」
ナナは何かに思い当たったらしく、納得したように声をあげていた。その姿が、足を動かす度に段々と小さくなる。顔を前に戻すと、ボンネットから伸びたチョコレート色の斜めの髪が、艶めいて揺れていた。ノアは鼻歌を歌っていた。楽し気に口ずさまれているメロディーはナナの歌っていたものとは異なっていたが、やっぱりたまかの知らないものだった。
「ようこそ~ボクの部屋へ!」
ノアはご機嫌そうにそう言った。連れてこられた部屋は、個人の部屋だと分かる程狭かった。その小さな空間に、家具や小物、ぬいぐるみが置かれていた。水玉模様の壁紙、照明、カーテン、机、天蓋つきのベッド、収納棚に至るまでごてごてとフリルやレースで彩られていて、『ラビット』の制服を想起させた。ベッドの上は巨大なくまのぬいぐるみやうさぎのぬいぐるみが陣取っていて、その周りを数多の小さなぬいぐるみが囲んでいた。部屋を眺めていると、ノアはたまかからそっと手を離した。ナナの時のように、縛ろうともしなかった。逃げられる、という発想がないのだろう。
「お邪魔します……」
たまかは今更ながらの挨拶を小声でし、少女の憧れを体現するような空間をそわそわと見渡した。ナナの時のように、拷問器具などはないようだった。
「キミ、たまかちゃんって言うんだよね? よろしくね。ボクは方舟(ノア)。方舟、って書いて、『ノア』」
ノアはカーペットへぺたんと膝をつき、床に指で字を書いてみせた。もっさりと広がる白いスカートが汚れるのを意にも介していないようだった。たまかも倣って、その横へ膝を立てて座った。
「……珍しいお名前ですね」
「そうだよね? ママは天才だと思う。だーれも読めないもん」
ノアはけらけらと笑って、楽しそうにそう言った。含みのない、心からの素直な言葉のようだった。
「ナナちゃんは嫌がってたけどね。虹って書いてナナちゃんって読むんだけど、わかるわけない、親の自己満足だーって」
確かに、ナナの言いそうな言葉だ。拷問器具だらけの部屋に置いてきたナナを脳裏に思い浮かべる。
「なんで嫌なんだろ? 世界に一つの素晴らしい名前なのにね」
「ノアさんは、ご自分のお名前が大好きなんですね」
「もちろん! 可愛くて格好良くて、世界でも滅多にない名前。すごく気に入ってるんだ」
ノアは朗らかな笑みを見せた。たまかもつられて口角をあげた。
「……あっ、せっかくお客様に来て貰ったのに、何も出してなかったね。ちょっと待っててね」
ノアは慌てたようにそう言って、立ち上がった。そのままぱたぱたと慌ただしく扉を開けて出て行った。扉のすぐ外にあった、キッチンに向かったのだろう。フリルとレースに彩られたその背を見送りながら、たまかはなんだか穏やかな気持ちになっていた。赤い線の入った自身の両足を抱く。
(平気で傷を付けるナナさんの後ですから、警戒していましたが……ノアさんはそういう気はないようですね。安心しました)
一人になった部屋で、たまかの視線は天蓋つきのベッドへと吸い寄せられた。四隅に縛られているレース、フリルの囲うベッド。ふわふわのきらきら。
(う……可愛いですね。ここで寝られたら、いい夢が見られそうです)
普段治療にばかり専念している自分にだって、こういうものに憧れる気持ちはある。流れるようなラメ入りのレース、肌触りの良さそうな波打つフリルをじっと眺めていると、扉が再度開かれた。『ラビット』の制服、天蓋つきベッドに負けないフリルとレースとリボンを揺らした白黒が、戻ってきた。ノアはお盆を持っていて、「おまたせ!」と笑みを作った。
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