第30話

 ナナは口元の笑みを消した。怒らせたかもしれない、とたまかは思った。先程の薬指の痛みと、水を浴びた苦しさが蘇った。思わず目が、壁にかけてある器具達へと吸い寄せられた。

 ……恐怖。いつ、どんな苦痛に苛まれるかわからない恐怖。目の前の少女が何を考え、どこに怒りを覚えているのかがわからない恐怖。ナナが次に言う言葉を、息を潜めて待つことしか出来ない。

「じゃあ次の質問」

 たまかの警戒とは裏腹に、ナナは質問を変えただけだった。たまかは思わず安堵した。

「失うとしたら右足と左足、どっちがいい?」

 安堵した直後に再び底なし沼に突き落とされた気分だった。

「……どっちも嫌です」

「また質問に答えられないの? さっきは特別に許したんだよ?」

 きょとんと首を傾げられ、たまかは苦い顔をした。

「じゃあ……」

 先程薬指を指定して爪を剥がされそうになったことを思い出す。たまかは右利きのため、どちらかと言えば右足を失う方が困る。つまり、左足を指定するべきだろう。……もちろん、どちらの足も失っては困るのだが。

(いや、このまま指定すればナナさんの思う壺であって、普通に考えれば切り落とされる可能性があります。ここは……)

「……ナナさんの失いたい足と同じです」

「うん?」

「ナナさんと同じです。これなら質問に答えたことになるでしょう」

 ナナはぱちぱちと長い睫毛を動かした。やがて、その瞼を半円に落とした。

「……変な奴だね」

 ナナはフリルとレース、リボンの塊に手を突っ込み、ナイフを取り出した。『ブルー』や『レッド』で見たものより若干大きく、しっかりした造りの折り畳みナイフだった。

「ナナはねー、失うとしたら両足がいいなって思うんだ。どっちか片方だけじゃ、歪でバランスが取れないでしょう? だから両足」

「……どっちも、ときましたか」

「ナナと同じって言ったんだもん、文句はないよね?」

 その瞬間、たまかのひざ下に赤い一筋の線が入った。ナナが大きな動きを以ってナイフで切りつけたものだった。一瞬の出来事であり、たまかは赤い傷を見て初めて自分が切りつけられたのだと認識した。切り落とすという程深くはなく、切り傷程度のものだった。

(痛……)

「大丈夫だよ? たまかちゃんの両足がなくなっても、ナナが車椅子を引いていろんなところへ連れて行ってあげるから。たまかちゃんの見たい景色は、全部見せてあげる」

 それから「そうだ!」と嬉しそうに声をあげた。

「次の質問。たまかちゃんの行ってみたいところはどこ? 食べてみたい食べ物は?」

 ナナは手に持っていたナイフを床に捨てた。カラン、と無機質な音が響いた。ナナは部屋の隅へ行くと、置いてあったものに手を伸ばし、何やら操作をし始めた。黒が光る厚底をその取っ手部分へ乱雑に置き、踏みつける。たまかが遠目に顔の位置を変えて覗き見ると、他に置いてある器具達に混じって、ボディが少し見えた。小型の四角い機体。その先に延びる、ギザギザの巨大な刃。『レッド』のアジト内で見たものとは別の、チェーンソーだった。

(本気で足を切り落とすつもりですか……?)

 血が一線走っている、自身の両足を見下ろす。そして、何ともわからない染みの付着している床へと目線が下がる。たまかは顔付きを変えた。

「あの」

 スターターロープを引っ張ろうとしていたナナは、急に呼びかけられて動きを止めた。

「何かな?」

「ナナさんは、いつもこんなことを?」

「うん? そーだよ」

 ナナは踏んづけているハンドルを、踵を揺らしてグリグリと揺らした。まるでたまかが踏みつけられているような感覚を覚え、たまかはチェーンソーから目線をあげた。

「どうしてですか?」

「『どうして』? 面白いことをきくね」

 ナナはレースに包まれた指を顎下に置き、うーんと天井を仰いだ。

「……人はさー、苦痛の下では真の平等だと思うんだよね」

「はい?」

「子供を所有物としてしか思っていない保護者面する親も、蔑んだ目で馬鹿にするような視線を送ってくる子達も、金持ちや権力のある踏ん反り返っている奴らも、皆足を切り落とされたり爪を剥がされたりしたら、やることは一緒。泣いて喚いて『止めて』って媚びるの」

 ……それはそうだろう。たまかは眉を寄せた。

「ナナをゴミみたいに扱ってたくせに、足を切り落としたり腕を切り落としたりしたらそんな余裕は残ってない。その姿と接することで、余計な感情を抜きにして、初めてちゃんと人として相対している気がするっていうか……。えっと、そうだな。簡単に言うと」

 ナナは無垢な笑みを見せた。

「楽しいんだ。苦痛で素をさらけ出している人達と接することで、初めて友達になれる気がする」

「……」

(理解出来ません……)

 でも、気持ちは少しわかる気もした。三組織に所属していないというだけで、迫害する気持ちを持っている人間も多い。『不可侵の医師団』はどの組織にとっても利のある団体であるため、大っぴらに仲間外れにされることはないが、たまに浴びる視線から読み取れるものもある。そういう差別に出会う度、治療を頑張る顔の下で嫌な思いを隠す。それが積み重なって限界が来たら、きっとナナのような思考になるのだろう。

「たまかちゃんには、きっと一生わからないかもね」

 まるでたまかの考えていることを読み取ったように、ナナは寂しげにそう言った。

「たまかちゃんみたいな、ご両親に愛されて育った『普通の人』にはさ」

 スターターロープが引っ張られた。エンジンはかからなかった。

「両足を失って、両腕を失って、目を突かれて、爪を剥がされて、水責めされて、その時やっと、一ミリくらいはナナの気持ちがわかるんじゃないかな」

 再びスターターロープが引っ張られた。今度はエンジンがかかり、チェーンソーが大きな音で唸った。たまかはチェーンソーの音に負けじと声を張った。

「ナナさんは、普通の人ではないと?」

「『ラビット』に普通の人なんていないんじゃない?」

 大きく振動するチェーンソーを抱えながら、ナナは等閑にそう言った。

「『ラビット』はナナみたいな人達の受け皿であり、居場所なんだから」

 自嘲気味に放たれた言葉は、的を射ているのかもしれなかった。しかしそれには触れず、たまかは話を戻した。

「相手に苦痛を与えれば、ナナさんは普通の人になれるってことですか?」

「違う。苦痛を与えた相手の方が、普通からナナのところまで落っこちてきてくれるの」

 厚底が一歩、たまかへと距離を縮めた。チェーンソーの刃も、同じ分近くなる。たまかは臆することなく、目を細めただけだった。

「……貴方達は、その『苦痛を与えて対等になった状態で接した人間』をそのまま殺して終わりにせず、蘇生させて再び交流したい、ということですね? 私を使って」

 ナナは眉を跳ね上げた。それから、口元に弧を描き、「そうそう」と肯定した。

「ナナ達には、蘇生の力が必要なの。何度だって足を切り落としても、その度に生き返ってくれるなんて最高じゃない?」

「蘇生の力を求めている理由はわかりました。ただ、それは無理な話です」

「なんで?」

「だって、蘇生を使える私の足を切り落とそうとしているじゃないですか。ナナさんが私を殺したら、他の人を蘇生することが出来なくなっちゃいますよ」

 ナナは唸るチェーンソーを抱えながら、ぽかんと口を半開きにした。緩慢に瞬きを挟んだあと、振動する刃を見下ろす。まるでお菓子を買って貰えなかったスーパーの子供のような顔だった。

「でも……ナナ、たまかちゃんと友達になりたい」

「それは足を切り落とさなくてもなれると思いますが」

「なれない。なれないよ。……困ったな」

 ナナは難しい顔をした。真剣に悩んでいる様子だった。

「……たまかちゃんって、自分に蘇生の力を使うことは出来ないの?」

「……無理ですね」

「えー、拡張性がない能力って言われない?」

「そんなソフトウェアみたいな人間じゃないので……」

 第一、蘇生の力なんて使えないのだ。不貞腐れたような顔をするナナの前で、たまかは目を逸らした。

「……決めた」

「え?」

 ぽつりと漏らされた言葉に、たまかは顔を戻した。ナナは頬を膨らませながらも、チェーンソーを抱えなおした。

「『ラビット』は蘇生の力を喉から手が出る程欲しているけど……ナナだって同じくらいたまかちゃんとお友達になりたいもの。蘇生の力は諦めて、たまかちゃんの両足を切り落とすことにする」

 揺るぎない決意のもと、黒い厚底が二、三歩たまかへと近づいた。足取りはしっかりとしていた。

「え、いや、待ってください。そもそも、足を切り落とさなくても友達には……」

(ま、まずいです。彼女の目は本気です)

 ナナはたまかの宥めるような言葉をきいてなどいなかった。迫るチェーンソーの刃に、たまかは思い切り身体の体重を後ろへと預けた。椅子が嫌な音を立てて少し後ろへと下がったが、せいぜい二歩程度の距離しか稼ぐことは出来なかった。

 たまかの白いナース服から伸びた、健康的な両足。ニーハイソックスの上、今は血の滲む線が一本引かれている白い素足に、チェーンソーの回転する刃が近づいた。猛スピードで回る刃は、この世のすべてが切れそうな勢いだった。

 たまかはなんとか迫る刃を止めようと、他の話題を探した。あと八センチ。何か、気を逸らすことが出来る話題。あと五センチ。必死に頭を回転させる。あと三センチ。そして、思いついたことを勢いよく口にした。

「『サクラウ』さんをご存じないですか!?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る