第32話
座ったままのたまかの前に、ノアは頭上からお盆を置いた。そこには、一つのお皿と二つのコップが置かれていた。コップは空だった。白いお皿の上には、ビー玉が三個と、おはじきが四つ置かれていた。予想外のものの登場で、たまかは目を点にした。
「……ビー玉やおはじき、懐かしいですね。久々に見ました」
部屋にあるシャンデリアの光を映し、中の模様越しにキラキラと輝いている。透き通ったガラス製の玉は澄んだ色合いを皿にも投影していた。とても綺麗だった。
「何言ってるの? これはクッキーとチョコレートだよ」
「え?」
きょとんとして首を傾げるノアに、たまかも思わず彼女の顔をまじまじと見返してしまった。ノアは心底不思議そうな顔をしていた。
(ああ、そういう……おままごと、ってことですか)
『たまかちゃんと遊ぶ』とノアが言っていたことを思い出した。たまかは内心察して、笑みを作った。あまり上手く出来ていなかった。おままごとは小さい頃にしたきりだ。あの頃を必死に思い出し、なんとか話を合わせようと努める。
「そ、そうでしたね。ごめんなさい」
「えへへ、綺麗でしょう? 青色、赤色、橙色……キラキラのジャムつきクッキー!」
ノアはにっこりと笑みを浮かべて両手を叩いた。
(ああ、模様をジャムと見立てているんですね)
「ボク、これ美味しくて大好きなんだ! 見た目も綺麗だし」
繊細なレースに包まれた指が、皿の上のおはじきを一つ掴んだ。それを天へと掲げ、シャンデリアの光に透かせる。ノアの頭上でキラキラと映える平べったいガラスの玉を、たまかも一緒になって見入ってしまった。
「キラキラだね」
ノアはうっとりと呟いた。おはじきの角度を変えて楽しんでいた指は、やがて口元へと持っていかれた。
「じゃあ、頂きまーす!」
待ちきれないように言って、ノアは桃色の唇を開けた。乙女が好きな人へのキスを恋焦がれるように、その桃色はガラス玉に近づき——そして、おはじきはその口の中へと消えていった。
「えっ?」
たまかは目の前で起きたことについていけず、素っ頓狂な声をあげた。
ノアは咀嚼することなく、その『ジャムつきクッキー』を丸呑みした。嚥下し、喉が上下する様を見て、たまかはぽかんと口を開けた。それからはっとし、黒レースに包まれた手首をぐいっと引き寄せた。その指は、もう何も掴んでいなかった。
「ちょっ……ノアさん! 吐き出してください。今すぐ!」
「え? なんで?」
たまかの慌てた様子を前にして、理解出来ないというようにノアは首を傾げた。たまかはその反応に困惑したが、手首を放すことはしなかった。
「な、なんでって……異物誤飲です! 吐き気は? 呼吸は? 苦しくなったり、ないですか?」
おはじきを呑んだ当人よりパニックになっているたまかを他所に、ノアはのんびりと間をとってから平然と答えた。
「何言ってるの? クッキーは異物じゃないよ? お菓子だよ」
たまかは呆然とした。開いた口が塞がらなかった。
「……もしかして、本気で言ってます?」
「何が?」
まるでおかしなことを言っているのがたまかであるかのように、ノアはきょとんと瞬いた。
たまかは漸く悟った。……ノアは、最初から本気だった。
彼女の目には、お皿の上のおはじきやビー玉は、色とりどりのジャムつきクッキーに見えていたのだ。
言葉を失うたまかを置いて、ノアはそのレース越しに再び皿の上のおはじきを掴んだ。口の高さに持ってくると、無邪気に微笑んだ。
「たまかちゃんも、さあ、食べて? 美味しいよ?」
その指には、模様の映える透明なガラス製の玉が収まっている。先程までは綺麗に見えていたそれが、今はとても歪で不気味なものに思えた。
ゆっくりと、たまかの唇へと近づけられる。たまかは後ろに反り、距離を取った。
「……私は遠慮しておきます」
「なんで? 美味しいよ?」
「今はお腹がすいていないので」
止まることのないフリフリから伸びた手。たまかは仰け反るだけでなく、床につけたお尻を後ろへとずらした。その分、ノアが黒いレースの手をカーペットについて、身を乗り出した。彼女のパニエによって膨らんだスカートと、斜めに切られたチョコレート色の髪が揺れた。
「せっかくキミのために用意したんだから、遠慮せずに、ね」
「美味しいものですから、ノアさんを差し置いて食べたりなんてしませんよ」
「お客様のたまかちゃんのために出したんだから! 独り占めなんてしないもん」
再び後ろへと後ずさる。四つん這いになったノアがその膝をもう一歩分進めて、たまかへと近づく。距離は開かないままだった。
「……ボク、キミと出会えて本当に嬉しいんだ。嘘じゃない、本当だよ? 蘇生が使えるって、本当に魔法みたいでしょ。まるでおとぎ話の中から出てきたみたいで、すごく素敵だなって思ってたけど……キミと話せてわかったよ。重要なのは、蘇生の能力じゃない。ボク、本当にキミと友達になりたいって思ったんだ」
ノアは潤んだ瞳で熱い視線を送った。どうやら、本心からそう言っているようだった。その真剣な熱意に、たまかは辟易とした。彼女に悪意は一切ない。それがわかるからこそ、質が悪い。今ここで断ったら、間違いなく悪者は自分の方である。
(『普通じゃない』と言っていたナナさんの方が、自覚がある分まだ救いがあったのかもしれません……)
今にも泣きそうな顔で、ノアはたまかを上目遣いで覗き込んだ。
「ねえ、本当なんだよ。だから、友達の印として食べてよ。ね?」
彼女は精一杯はにかんでみせた。恐怖、勇気、いろいろな感情を隠し、彼女なりに努力して言葉を紡いでいるようだった。ノアはノアで、たまかに嫌われないよう、必死なのかもしれなかった。
たまかは目の前に掲げられたおはじきに視線を移す。そこにあるのは、やはりノアの言うようなジャムつきクッキーではなかった。ガラス製の、無機質なおはじきだ。見間違いか何かで、実際にここにあるのが甘く香ばしいクッキーだったら、どれほど良かっただろう。しかしどれだけ睨んでも、そこにあるのはただのガラスの玉だった。
たまかの背が、部屋の隅に置かれた収納棚へとぶつかった。白い木製の猫脚のもので、取っ手部分に精巧な飾りが施してあるものだった。もう後には退けなかった。
「と、友達の印として、それはノアさんにあげますから、取って置いてください。……ところで、本当に吐き気はありませんか? 何か異常は?」
ノアの身体を労わるが、当人は訝し気に眉を寄せただけだった。
「……何言ってるの? なんともないってば」
たまかは彼女の顔色や呼吸などを観察した。顔色は正常、呼吸も規則的。申告通り、具合が悪そうには見えなかった。ほっと一息つこうとしたところに、すかさずガラス玉が唇へと突き付けられる。
「ほら、あーんして? チョコレートもあるんだから」
木製のひんやりとした温度を背中に感じながら、唇に当てられたガラス玉の堅い感触に顎を仰け反らせた。ノアは、微笑んで見せた。子供のような無垢な心とは真逆の、お姉さんのような華麗な見た目。斜めに切られたチョコレート色の髪が、さらりと肩から零れ落ちた。
唇の間に、おはじきが差し込まれた。もう限界だ。たまかは思わず、その口を開きかけた。
その時だった。突如、コンコンコン、という規則的な音が響いた。狭い部屋の廊下の奥、扉の外からのもののようだった。
おはじきは、たまかの唇と唇の間に差し込まれたところで止まった。ノアは驚いて、四つん這いでたまかに迫った姿勢のまま、玄関へと顔を向けた。
「はーい?」
舌足らずな声を大きく響かせ、ノアがノックへ向けて返事をする。少し間を挟んだあと、くぐもった小さな声がきこえてきた。落ち着いた声色だった。
「方舟、いる? ……虹から、九十九たまかがここにいるときいてきたんだけど」
ナナの声ではなかった。ノアはその声をきいた途端、嬉しそうに声を弾ませた。
「キツキちゃんだ!」
(キツキちゃん?)
初めてきく名前だった。彼女の様子から察するに、『ラビット』の一員なのかもしれない。
ノアは脱兎の如く飛び起き、急いで玄関へと向かっていった。一人残されたたまかは、唇に残されたおはじきをそっと取り出し、御盆の上に乗せた。そして、どっと疲れた肩を下げ、長く息を吐いたのだった。
やがて二つ分の足音を響かせ、二人の『ラビット』の制服姿の少女が現れた。狭い部屋に膨らんだパニエが二つ並ぶと、それだけで部屋を圧迫した。部屋の主のノアは、るんるんと上機嫌だった。その横にいる少女はミニハットを飾った二つ結びの髪の毛を垂らしていた。桃色と紫色のメッシュの入った白髪の先は、ウエスト部分の制服のリボンを擽っている。両目の下にはフェイスペイントでそれぞれ星と月が描かれていて、まるでその絵柄を剥がすかのように、黒いレースに包まれた指でぽりぽりとその部分を掻いていた。
「あんたが九十九たまか?」
若干舌足らずな声だったが、落ち着いた、穏やかな口調だった。少し面倒臭そうな色も透けて見えた。どうやら、彼女がノアの言う『キツキちゃん』のようだった。
「はい、そうです」
たまかは頷いた。隠すつもりもない。
(……それにしても、助かりました。まさに絶好のタイミングです)
御盆に置いたおはじきを一瞥して、苦い顔をする。彼女の登場が無ければ、今頃あのおはじきはたまかの食道に詰まっていたかもしれない。
「そう。『ラビット』へようこそ。うちに話があるそうじゃない?」
「え?」
(私に話がある、のではなく……?)
呆けるたまかに、『キツキちゃん』は桃色と紫色のメッシュの入った頭を掻いた。困惑しているたまかを横目に見て、言葉を追加する必要があると思ったらしく、再度口を開いた。
「うちは桜卯姫月(サクラウキツキ)。あんたが探しているっていう、『サクラウさん』ご本人だよ」
***
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