入学準備

 国内最高峰の『歌姫』育成機関『国立心奏学院』への入学を決意した小鳥遊たかなし真央まお

 合格自体が絶大なアドバンテージとはいえ、問題は山積みで。


「奏音。今は一月なんだよな?」

「はい。一月十日──公立中学ですので卒業はできますが、入学式まで三ヶ月もありません」

「早く準備しないとな」


 差し入れの果汁グミを噛みつつ頷く。

 口内に広がるほのかな甘味がたいへん心地良い。

 まだ一度にたくさん食べられないので、おやつでカロリー補給だ。


「その件ですが」


 奏音はにこりと笑顔を浮かべつつ口を開いて、


「退院後、直接寮に入るのが良いかと」

「そっか。ここからそんなに遠くないもんな」

「はい。必要な手続きはこちらで。……それと、ひとつ提案なのですが」

「提案?」


 妹は悪戯めいた色を瞳に浮かべて。


「お姉様、名前を変更しませんか?」

「突然だな!?」


 真央は目を丸くしたまま硬直した。







「なんでまた急に」

「手続きの都合です。それに、元男性であることは隠すべきでしょう?」

「バレるとやっぱまずいか」

「女の園に元男性がひとり。……あまり良い反応にはならないかと」


 「変態」とか蔑まれるのは普通にありえそうだ。


「クラス全員に嫌われるのはさすがに拷問だな」

「『歌姫』としても可愛らしい名前のほうがお得です」

「有名どころはアイドルっぽい名前多いもんな」


 二、三年前のトップ『歌姫』を思い出しつつ頷く真央。

 暇ができたら今のランキングもチェックしたい。

 奏音はくすりと笑って、


「お姉様のお名前も『魔王』──有名な曲由来ではあるのですけれど」

奏音canonと違って可愛くはないよな」

「たしか、お姉様が女だった場合は『アリア』が候補だったとか」

「アリアちゃんって呼ばれて反応する自信らないぞ」


 偽名は本名に近いものにするのがセオリーだったか?


「でしたら、漢字を変えるだけでも十分かと。例えば──」


 スマホに『真桜』と入力してみせてくれる。

 読みは変わらないのにぐっと女の子らしくなった。


 昨日見た自分の容姿。

 白金の髪と桃金の瞳……ホワイトとピンクなら桜のイメージにも近い。


「気持ちを切り替えるのにもちょうど良いでしょう?」

「そうだな。なら、いっそもう少し可愛くするか」


 スマホを借りて文字を修正する。

 『万桜』。

 受け取った奏音は微笑と共に頷いた。


「良いと思います。では、あらためまして万桜まおお姉様。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

「ああ、よろしく」


 双子の妹と交わした握手。

 これが真央の、万桜としての第一歩。

 それをぐっと噛み締めながら、


「ところで奏音、肩貸してくれないか? 俺、まだ一人じゃトイレにも行けないんだ」

「まったく締まりませんねお姉様?」



    ◇    ◇    ◇



『本当にお手伝いはいりませんか?』

「大丈夫だっての」


 個室には専用のトイレや洗面所がついている。

 外からの奏音の声にげんなりしつつ、万桜はパジャマに手をかけた。


 トイレには昨夜も行っている。

 その時は看護師さん(女性)につかまって歩かせてもらった。

 やり方なんてお腹に力入れるだけだろ、と思ったら変な方向に飛び散らせてしまい、恥ずかしい思いをしたのだが……。

 もちろん、同じ失敗は繰り返さない。


「……はあ」


 これからは全部座ってするのか。

 小さなリボンのついた白のショーツを下ろし、腰を落ち着けて。


 新しい身体に目立つ突起はなかった。

 白くすべすべの肌となだらかな下腹部、控えめに生えたプラチナブロンドの体毛があるだけだ。

 身体の奥から出てくる感覚、それから若干控えめな水音に妙などきどきを覚え、


『水気はしっかり拭き取ってくださいね? 衛生的に良くありませんので』

「お前、音聞いてないだろうな……!?」


 真っ赤になりつつ、妹の指示には素直に従った。






「ついでに身体のほうもすっきりしておきませんか?」


 ベッドに戻ると、奏音が身体を拭いてくれた。

 妹の前で裸になるのは微妙に恥ずかしいのだが、奏音のほうは気にしていない。

 むしろ上機嫌に濡れタオルを這わせていて、


「本当に、お姉様の体型は反則ですね。華奢なくせにここの膨らみはまったく控えめではないなんて……」

「揉むなよ?」


 先んじて釘を刺せば返答には間があり、


「お姉様も興味はあるでしょう?」

「自分の揉むとか変態っぽいだろ」

「ではわたくしの胸を」

「じゃあそれで……ってなるかっ!?」


 妹は心底残念そうに目を伏せた。


「女同士なのですから遠慮しなくて構いませんのに」

「お前は俺が男でもこういうことするだろ」

「……仮定の話に意味はありませんよね?」


 はぐらかし方が雑。

 ともあれ、それからしばしの沈黙。


 黙ると黙るで気まずいと思いつつ、万桜はこれまでの自分を思った。


 寝たきりで目を覚まさないまま二年以上。

 栄養は点滴等で補えても、風呂やトイレはできなかったはずで。

 奏音が妙に手慣れているのは初めてではないからだろう。


「その、ありがとな? 大変だっただろ、俺の世話」

「……いいえ、そんなことはありません」


 返事と一緒に、ぎゅっと腕が回された。

 着衣越しに妹の体温が伝わってくる。


「こうしてお姉様が目覚めてくれた。それだけで、わたくしの二年間は報われました」

「そう、か?」

「はい。それに、こうしてお世話するのも楽しいものでしたので」


 言いつつ、奏音は万桜の首筋に顔を寄せて。

 深呼吸しているかのような呼吸音に頬が熱くなる。


「嗅ぐな! 絶対汗臭いだろ!?」

「そんな。女の子の汗はいい匂いなのですよ、お姉様?」


 絶対、体力をつけて自分で風呂に入れるようになってやる、と、万桜は強く決意した。



    ◇    ◇    ◇



 タイムリミットは約三ヶ月。

 その間に最低限、日常生活を送れるくらいに回復しないといけない。


 欲を言うなら激しい運動ができるくらい体力が欲しい。

 奏音の置いていった心奏のパンフレットには簡単な授業内容も紹介されており──そこにはボイストレーニングやダンスレッスン、基礎体力づくりなども含まれている。


 『歌姫』は超能力者であると同時にアイドルだ。


 歌って踊りながら笑顔を作るのだから、イメージとは裏腹にかなり体育会系。

 体力はあればあるだけ良い。


 万桜の場合はさらに学力の心配もある。


 体力はすぐに戻らないのだからせめて勉強を、と思うのだが、テキストを読むのも意外に体力を使う。

 風邪で熱を出している時にマンガを読み続けられるか、的な話だ。


「うまくいかないなあ」


 ここぞとばかりに奏音にぼやくと、昔からできの良かった妹は事もなげに「焦る必要はありません」と答えた。


「養成学校なのですから、初心者が入学しても構わないのです。お姉様はお姉様のペースで進んでください」

「じゃあ、お前は事前準備とかしてないのか?」

「いえ、通いのレッスンと自主トレーニングは行っていますが」


 それじゃどんどん差が開くじゃないか。

 そもそも推薦で倍率百倍に達するような学校だ、歌やダンスの心得も審査されるに決まっている。

 本気で合格を志す生徒は下手したら小学生のうちから準備を始めるのだ。


「……はあ。ほんと、遠いな」


 昔から万桜──真央は「できるの悪い子」扱いだった。

 勉強も運動も、双子の妹のほうができた。

 母は「女の子が欲しかった」と口癖のように言っており、真央が努力しても奏音に勝てないと知ると「男の子だものね」と笑った。


 男は、女に勝てない。


 戦争も、力仕事も『歌姫』にかかればお手のもの。

 社会が『歌姫』中心になると女性の過ごしやすい世界が構築されるようになり、可能性のある側は可能性のない側より優遇されるようになった。


 奏音との関係は、万桜にとってはその縮図で。






「くそ。文句ばっかり言ってられるか」


 細くか弱くなった身体を必死に動かしてリハビリをした。

 食べ過ぎで吐かない程度に食事も摂った。

 日に日に、着実に体力は戻り、できることが増えるとそれだけリハビリも勉強も捗るようになった。


「なんか、事故の前より頭良くなった気がするんだよな」


 とりあえず中一の範囲から教科書をおさらいし始めたのだが。

 ふと気付いたことを告げてみると、妹は一切馬鹿にすることなく、


「『歌姫』の才能かもしれませんね」

「は? 『歌姫』って頭の出来まで違うのか?」

「はい。彼女たち──というか、わたくしたちは歌を介して理想の自分を現実に投影する存在です。キラキラして、華やかで、有能なイメージが肉体も知能も強化して、あの活躍を作り出すのです」


 万桜を担当している女医は研究者でもあり、治療のデータを今後に役立てようと日々励んでいるらしい。

 こんなふうに『歌姫』の活躍の場はなにも荒事だけじゃなく、


「……ずるくないか?」

「お姉様、お姉様はこれから『言われる側』なのですよ?」


 せっかくなので使えるものは使う。

 事故前に習った範囲をおさらいしたら教科書に従って先へ。

 奏音が言った理由か、単に自分のペースで進められるからか、思ったよりずっと勉強は捗って。


「国、数、理は中三の範囲まで終わらせたぞ」

「さすがはお姉様です」


 退院を間近に控えた頃にはある程度の成果が得られた。


「まあ、英語と社会はほとんど手つかずだけどな」

「足りない部分はおいおい身につければ良いかと」


 いつものように見舞いにやってきた妹は「それよりも」と微笑んで、


「外出に向けてお姉様に申し上げておきたいことがあります」

「またなにか無茶振りするつもりだろ」

「まさかそんな。ただ『人前に出る時は口調を整えたほうが良いのでは』と」

「……あー」


 病室には事情を知っている者しかこない。

 友人・知人には「家族以外面会謝絶」と伝えてあるらしく、彼らにもあれから会っていない。

 ただ、外に出れば他の人とも会う。


「この口調だと変か?」

「変ですね」


 ばっさり言われた。


「最低限取り繕った方が可愛いですし、疑われる心配もないかと」

「なるほどな。……っても、さすがに違和感がなあ」

「常に敬語を使うという手もありますよ」

「二人揃って敬語はそれはそれで目立ちそうだぞ」


 悩んだ末、万桜は「なるべく喋らない」という方向性を取ることにした。


「『……わたし、小鳥遊万桜。よろしく』。……こんな感じでどうだ?」

「はい。ミステリアスな美少女ですね。たいへんよろしいかと」

「じゃあこれでいくか。……それにしても『わたし』かぁ」


 男だったかしこまった場では「私」を使う。

 変じゃないと言えば変じゃないが、中一で記憶が止まっていた万桜にとっては「そんなんもっとずっと話だろ」という感じである。


「でしたら『わらわ』とか『僕様ちゃん』とかにいたしますか?」

「なんだそのキャラ作りまくりの喋り方」

「一部の方から蔑んでもらえるのでは?」

「逆に『罵ってください』って言われたらどうする」

「クールなミステリアス美少女も罵る側のキャラですけどね」

「……まあ。鏡に向かって『このクズ』とか囁いたらめっちゃ興奮したな」


 変な性癖に目覚めそうだった。

 回想していると、奏音から「さすがにドン引きです」とでも言いたげに見られた。

 ぞくぞくする感覚を覚えた万桜は「悪かった」と謝り、


「お前に見下されるのが癖にならないうちに止めてくれ」

「……そうですね。それはそれで楽しそうですが、お姉様は飼うよりお世話して差し上げたいです」


 そんなわけで、退院日は無事決まった。

 新入生の入寮可能日初日。

 入学式までには十日以上の間があるタイミングだ。


「学院側のご厚意によりわたくしが同室です」

「助かる。……いや、むしろ身の危険か?」

「失礼な。お姉様を傷つけるような真似はいたしません」

「ならいいんだが」

「はい。ですので一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たり、お食事を『あーん』するくらいなら構いませんよね?」


 止めても聞かない気がする。

 というか、禁止すると余計ひどいことをしそうなので、万桜は「外ではやるなよ」と釘を刺すにとどめた。

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