性転少女は憧れのヒロインに手を伸ばす

緑茶わいん

一章 入学から体育祭へ

プロローグ -目覚め-

世界は、歌で満ちている。


 数十年前に起こった大きな戦争は、たった十数名の『歌姫』によって収められた。

 後に《ディーヴァ》と呼ばれるようになる彼女たちは超能力めいた不思議な力を持っており、その力は歌うことによって大きく増幅された。


 そして、現代。


 『歌姫ディーヴァ』の数は爆発的に増加し、社会は彼女たちを前提として形作られている。


 歌が、クリーンな電力を供給し。

 歌が、天候不順を解消し。

 歌が、火災現場を最小限の被害に押さえ。

 歌が、工事を一人の少女が十分の一の期間で終わらせる。


 子どもの手から離れてしまった風船を、木から降りられなくなってしまった猫を、歌姫が助ける光景もけっして珍しくない。


 若い世代にとってもはや歌姫は当たり前の存在で。

 少年──小鳥遊たかなし真央まおもまたそんな一人で。

 男である彼は無邪気に『歌姫』たちを見上げていた。


 そう、あの日。


 『歌姫』の尻に潰されて死の淵を彷徨うまでは。



    ◇    ◇    ◇



 身体が怠い。

 寝不足の朝をはるかに超えるバッドコンディションに、真央は眉をかすかに動かして。

 触覚以外の五感が遅れて戻ってくる感覚。

 寝かされた状態らしく、背中には心地良いベッドの感触がある。

 清潔な空気にはかすかにアロマかなにかのいい香りが混じって。


 加えて、シャンプーかなにかだろうか、花を思わせる甘い香りが、


「ああ、お兄様……♡ 愛しております、お兄様♡ この手も、腕も、胸も、唇も♡ なにもかもわたくしの宝物♡ ああ、好き、今日もお兄様の香りをたっぷりとわたくしに──」

「なに、やってんだ、お前は……!?」


 瞼を開くと、頬ずりでもしようとしていたのか──顔を真央の至近まで近づけている黒髪の美少女と目が合った。

 記憶にある姿よりも随分女らしくなっているが、顔立ちには面影がしっかりと残っている。


 乾いた喉で、なんだか妙にを出して。

 二卵性の双子の妹を睨みつけてやれば、彼女はしゅんとするでも開き直るでもなく、宝玉めいた漆黒の瞳を真ん丸に変えて、


「お兄様、目が覚めたのですね……っ!?」

「ば、馬鹿、抱きつくな!」


 そろそろブラをつけるべきか、とか悩んでいたはずの妹は随分と大人になったらしい。

 柔らかなものがぐい、と押し付けられたかと思うと、真央の胸部にある脂肪がふにょん、と歪んで。


「は?」


 真央は、ようやく異変に気付いた。

 長期間寝込んでいたらしいのは把握した。

 おかげで両腕すらまともに動かないが、なんとか妹にホールドされていないほうの腕を持ち上げて。


 白い。


 何年か日に当たっていなかったから、とかそういうレベルではなく、むしろ傍にいる美少女いもうとと同レベルの白さで。

 指の太さや質感も、記憶の中にある真央のものとは異なっていて。

 なんだこれは。

 説明を求めて視線を向ければ、双子の妹はにっこりと笑みを浮かべて、言った。


「お兄様、あらため。ようやくお目覚めになられましたね。では、すぐにお医者様を呼びましょう」



    ◇    ◇    ◇



 真央が寝かされていたのは病院の個室だった。

 妹のナースコールにより、すぐに女性医師(なんでも『歌姫』でもあるという)が到着。

 診断結果は良好だった。

 体力が落ちているうえに胃も弱っている状態ではあるものの、少しずつでも食べて栄養をつけていけば元気になるだろう、とのこと。


 先生がいなくなるとすぐに再び抱きつこうとしてきた妹を「やめい」と制止して。


「……大きくなったよなあ、お前」

「もうすぐ、わたくしたちも高校一年生ですからね」


 真央が事故に遭ったのは中学一年生の時だ。

 以来、彼は意識が戻らないままだった。

 眠っていた期間は二年以上にわたる。


「なんか性格変わってるのも大人になったからか?」

「いえ、それはお兄様──お姉様が女性になられて、愚民どもに気を遣う必要を感じなくなったからです」

「愚民て。まさか全人類のことか?」

「いえ、のことですが?」


 さらりと答えて「ふふん」と笑う妹。

 真央は、深いため息をついた。


「一段といい性格になったな……奏音かのん

「奏音はお姉様とこうしてまたお話できてとても幸せです」


 瞳をきらきらさせながら両手を組む奏音。

 夢見るような表情は兄ではなく彼氏に見せて欲しいところだが。


「その理屈だと俺も愚民なんだが?」

「お姉様は女性ですから対象外でしょう?」

「それなあ……とりあえず鏡をくれるか?」

「はい、こちらに」


 通学鞄から取り出されたのは鏡ではなくスマホだった。

 ミラーモードにすれば姿も映せる。

 眼前にかざされた画面を真央はじっと見つめて、


「これが、俺……?」

「はい♡ 紛れもなくお姉様のお姿です♡」


 顔は、一卵性を疑うくらい奏音にそっくりだ。

 寝たきりだったせいか手足は痩せているものの、胸は妹と同じかそれ以上のサイズがある。


 髪は、どういうわけかプラチナブロンド。

 ピンクゴールドの瞳はまるで宝石のごとく輝いている。


 ……おおよその覚悟はしていたが、想像以上。

 真央は、ほう、と息を吐いて、


「お気に召しましたか?」

「ああ。ぜひこの目、この顔の美少女に『この豚』と罵られたい。踏まれたい」

「お姉様のその性癖、二年以上経っても変わらないのですね……」

「俺にとっては事故に遭ったのが『ついさっき』だっての」


 その割に落ち着いているのは、記憶がなくとも脳はいろいろと処理を行っていたせいか。

 それとも『二年経った』より『美少女になってしまった』ほうが重大だからか。

 ぐぬぬ、と、どこかへ消えてしまった元の姿を惜しんでいると、奏音はくすくすと上品に笑って、


「美少女の罵倒をご所望でしたら、わたくしと一緒に『歌姫』を目指してみてはいかがでしょう?」


 さらにとんでもない情報をぶち込んできた。



    ◇    ◇    ◇



「お姉様を押し潰したお尻の感触は覚えていらっしゃいますか?」

「骨が折れるような衝撃だったんだぞ。……まあ、柔らかかったような気はするが」

「実際、車の直撃よりひどい状態だったそうです。歌による治療がなければ間違いなく死んでいたと」

「ってことは、治るには治ったのか」


 脳だけ別の身体に移植した、とかではなく。


「ええ。簡単に申し上げますと、お兄様がお姉様になったのは治療の副作用なのです」


 奏音は病院内の自販機でドリンクを買ってきてくれた。

 風邪引いた時とかに飲むアレ。

 味の濃いもの、固形物はまだきついが、これなら多少の栄養も取れる。

 「口移しいたしましょうか?」という申し出を辞退し、ちょっとずつ飲ませてもらって。


 上半身を起こすと、真央は奏音から診断書のようなものを受け取った。


「歌によるヒーリングは即効性があり、四肢の欠損程度なら癒やすことができます。

 しかし、お姉様の場合にはそれでは足りません。

 そこで、『歌姫』の力、そのものが生命力に変えて流し込まれました」


 話がなんとなく見えてきた。

 歌とは、要するに超能力だ。飛ぶことも戦うことも傷を癒やすこともできる。

 その源となるのが歌姫の力。


「直接流し込まれたおかげで『歌姫』に、女の子になったってことか」

「世界初の事例だそうです。推測では偶然が重なった結果ということですが……」


 『歌姫』の力を持てるのは女だけだ。

 理由はわからないが、少なくとも男が『歌姫』になったという話はない。


「歴史の教科書に名前が載るかもしれませんね?」

「女になってるじゃ男の『歌姫』とは扱われないだろ?」

「ええ。検査では完全に女性化しているそうです」


 別の診断書にそちらの検査結果も書いてあった。

 目眩がしてきた。

 急に漢字をたくさん見たせいだけではないはずだ。

 奏音は声もなく笑みを浮かべて、


「……子宮もきちんと機能しているそうですよ?」

「その情報でどうしろっていうんだよ……!?」


 真央は今までの一度も「お母さんになりたい」などと思ったことはない。

 可愛い女の子と結婚して幸せな家庭を築きたい、という人並みの願望ならあったが。

 掛け布団をめくり、可愛い女の子用パジャマに隠された下半身を見て、ため息。


「まあ、俺が男子でも女子でも、可愛い女の子に椅子として使ってもらうことはできるよな……」

「お姉様の性欲は本当に歪んでいますよね」

「お前、さっき実の兄に発情してなかったか?」

「姉妹なら妊娠しないのでセーフです」

「致命的な問題が起きなくてもだめなもんはだめだろ!?」



    ◇    ◇    ◇



「……話が逸れた。で、一緒に『歌姫』を目指そうってのはなんだよ?」

「わたくしに『歌姫』の素質があるのはご存知ですよね?」

合格うかったのか?」

「国立心奏学院、推薦で合格いたしました」


 通学鞄から合格通知を取り出し「ふふん」と笑う妹。

 ちなみに中学校はとっくに始まっている時間だが「進学先が決まってしまえばこちらのものです」とのこと。


「……あそこ、倍率めちゃくちゃ高いんだろ?」


 国内最高峰の『歌姫』養成機関。

 全国にいる女子中学生の半分以上が憧れると言っても過言ではない高嶺の花。


「今年の倍率は軽く百倍を超えました」

「マジか。……やったな、おめでとう」


 こればかりは素直に褒めた。

 笑顔で右腕を持ち上げてから、「頭を撫でるのは子どもっぽいか?」と思ったが、奏音は「はやく」という目で催促してきた。

 鼻歌でも出そうな表情で真央の手のひらを堪能する姿は、記憶にある妹と変わらない。


「それでですね。こちらにもう一通、合格通知がありまして」

「は?」

「特になんの手続きもしなかった場合、お姉様はわたくしと一緒に心奏学院の歌姫養成科に入学することになっています」

「はああ!?」


 ドリンクを吹くところだった。

 なんで、ただの男子中学生だった──それどころか、二年以上も寝たきりで勉強もろくにしていない真央が、超難関に。

 驚く真央をよそに奏音はきょとんと首を傾げ、


「当然ではありませんか。今のお姉様には素質がありますし、世界唯一の症例を経過観察するのにこれ以上相応しい場所はありません」


 心奏には『歌姫』に関する研究施設も併設されている。

 歌を用いた治療にかけては国内最高峰と言われる病院もあって、


「というか、この病院が心奏学院附属病院です」

「はああああ!?」

「最寄りの病院に搬送されて可能な限りの治療を受けた後、こちらに移送されたのです。家からですとだいぶ遠いですけれど、わたくしは三日に一度はお見舞いに来ております」


 今からじゃ学校に間に合わないというか、今日は最初からサボる気満々だったらしい。



    ◇    ◇    ◇



「………はあ」


 夜。

 ひとりきりの病室で、ベッドを背に途方に暮れる。

 一人になると途端に静かである。


 奏音は帰った。

 「寝ずの番を」とゴネたものの、看護師さんから「面会時間がありますので」と説得されるとしぶしぶ納得したようだった。


『お姉様。……また倒れたりしたら一生恨みますからね?』


 100%本気と思われる文句に「ああ」と答えて見送って──。

 病院の食事は美味しかった。

 量は食べられなかったし、味付けもほとんどないシンプルなものだったが、久しぶりの食事を身体が喜んでいるのか。


「いろいろありすぎてわけわからないな」


 中一で経験が止まっているっていうのに高校進学。

 しかも、女子として通うことになるなんて。


 『歌姫』は、真央にとって見上げるだけの存在だった。

 女子しかなれないのだから、最初から目指そうなどとも思わない。

 目指す権利があるだけで女の子は特別で。

 素質を持っている奏音は、誇らしくも羨ましい存在だった。


 踏まれたい。椅子になりたい。

 妹に語った願望に嘘はない。

 それは、絶対に届かに存在に対する憧れが生み出した感情だ。


 それなのに、真央自身にもチャンスが巡ってきた。


「『歌姫』」


 手の届かなかった存在が、望めば掴める場所にある。


 きらきらしていて、華やかで、誰からも必要とされている。

 小さい頃から奏音の隣で数え切れないほど見た、数え切れないほど「自分とは違うのだ」と言い聞かせてきた存在に、なれる。


「……目指さなきゃ、嘘だよな」


 疲れているはずなのになかなか眠れないまま、いつしか心にそう決めて。






「奏音。やるよ、俺。お前と一緒に心奏に行く」


 翌日、見舞いにきた奏音にそう告げると、妹は荷物をすべて放りだして抱きついてきた。


「お姉様、愛しています! 奏音が一生、お姉様をお世話しますからね?♡」

「重い重い、一生は重い! っていうか今、物理的に重い!」


 こうして、小鳥遊真央は見上げるだけの人生を止め、憧れに手を伸ばし始めた。

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