欲しいものと足りないもの
「はぁー……」
万桜は今のところ毎日、風呂を部屋のバスルームで済ませている。
さすがに女の子の裸の群れに飛び込む気はない。
湯船に髪が浸からないように髪をまとめるのもようやく忘れなくなってきた。
お湯はりは出先からでもデバイスで操作できるので、帰る頃を見計らって湯船を満たすことも簡単だ。
面倒くさいとシャワーで済ませたくなるのでこれはありがたい。
年頃の美少女となった万桜の肌は水をよく弾く。
シャワーの水一粒一粒が敏感に受け取ってとても心地良い。
男だった頃はどうだったか。
風呂なんて大した興味がなかったので、だいたい洗えていればいい、と適当に済ませていた気がする。
変われば変わるものというか、習慣化すれば覚えられるものだ。
と。
『お姉様、ご一緒してもよろしいですか?』
「おまっ!?」
曇りガラス風のドアの向こうに妹のシルエット。
よろしいですか? と言いながら服に手をかけているあたりが奏音らしい。
逆にはっきり見えないほうがある意味エロいな──って、そうではなく。
『恥ずかしがる必要がありますか? 同性ですし、姉妹なのですから』
「それはそうだけどな……?」
不意打ちすぎてびっくりする。
「第一、衣類だって一緒に洗っているではありませんか」
「意識させるようなことを言うなよ」
あっという間に脱衣を済ませた奏音は返答も聞かずに中へと入ってきた。
見惚れるような長い黒髪に白い裸身。
『
妹がまったく隠そうとしないのでなにもかも丸見えなのだ。
確かに、彼女とは脱衣かごも共有している。
互いの下着が重なることもあるわけなのだが。
「それとも『わたくしの服とお兄様の服を一緒に洗濯しないでください』と言われたいのですか?」
「いや、うん、それは地味にきついな」
ある意味ご褒美だが。
奏音は「では、問題ありませんね」と後ろから身体を密着させてきた。
「柔らかい……。抱きしめているだけでとても心地良いです♡」
「お前なあ……」
どこの世界に、兄(姉)に身体を押し付けてくる妹がいるのか。
よく「家族相手には興奮しない」とか言うが。
ぶっちゃけ、ここまで実力行使に出られたら家族でも関係なくはないだろうか。
少なくとも「他の女の子もこんなふうに柔らかいんだろうなー」くらいは考えてしまう。
意識しないように、と、自分に言い聞かせながら息を吐き出して。
万桜は、奏音に強く抱きしめられた。
「……お姉様が『今が楽しい』と言ってくださって、とても救われました」
「……あのなあ」
今度は呆れまじりのため息をつく。
「なんでお前が気にしてるんだよ」
「だって」
拗ねたような声。
万桜は振り返って妹と向かい合うと、膨れ面をしている奏音の頭を撫でた。
「奏音はやりすぎなくらい俺に良くしてくれてるだろ?」
「ですが、わたくしはあの時、お兄様を守れませんでした」
万桜が、真昼の尻に潰された現場。
あそこには奏音もいた。
あの時の万桜は、なにか予感のようなものに衝き動かされて妹の隣から駆け出した。
そうして『歌姫』との直接衝突を受けて、重傷を負った。
「『歌姫』が人を守り、救うものだと言うのなら、わたくしはあの時、力のないお兄様の代わりに先生を受け止めるべきでした」
「あの時のお前は俺と同じでなんの力もなかっただろうが」
潜在的にすごい力があろうと、訓練していなければ咄嗟には使えない。
「お前より俺のほうが頑丈だっただろうし、あれでいいんだよ」
「……はい」
奏音は、それ以上は言わず万桜の胸に顔を埋めた。
息苦しくないかと思ったが、ここはしばらく放っておく。
「せっかくだし、一緒に風呂に浸かるか。さすがに狭いかもだけど」
「……ふふっ。寮のお風呂は広めに造られているようですから、二人くらい大丈夫かと」
奏音の言う通り、二人並ぶのは少し難しかったものの、万桜の足の間に奏音がくるような格好なら二人とも足を伸ばすことができた。
女の子の裸をばっちり見てしまった万桜はもう、男の姿に戻れたとしてもなにも知らなかったあの頃に戻れる気がしない。
まあ、自分の裸を毎日見ている時点で手遅れなのだが。
◇ ◇ ◇
真昼との再会を経て、万桜のがんばる理由がまたひとつ増えてしまった。
「頑張って一人前の『歌姫』にならないとな」
「でしたら、まずは卒業後の進路を見据えて学習計画を立てなければなりませんね」
朝の紅茶を飲みつつ奏音と相談する。
入学式、ガイダンスときて水曜日は必修授業の第一回目だ。
心奏学院のカリキュラムでは週の最初──月曜日に必修授業が詰め込まれているらしい。
科目選択の参考として、今日はいち早く実施される。
「最低限の授業内容」がわかれば対策を立てやすいだろうというわけだ。
「進路って、まだ一年生の一学期だぞ?」
「時間は有限なのですから、今から準備しなければあっという間に卒業ですよ?」
「マジか」
心奏学院生の意識レベルが半端じゃない。
「高峰先生は率先してテロ対策等に参加していたようですが、すべての『歌姫』がそうではありません。
一般企業への就職、芸能活動、自衛隊への参加、研究の道に進むなど、目的に応じて取るべき授業は変わってきます」
「そうだよな。大学行ったり就職するなら普通の勉強もやらないとだし」
「現時点で進学するつもりがなくとも、学んでおけば気が変わった際に便利かと」
面倒だからってサボるくらいならひとつでも多くの授業を取っておいたほうがいい、か。
奏音は、どこか探るように万桜を見て、
「お姉様。お姉様は、将来やりたいことはありますか?」
「やりたいことか。そうだなあ……」
しばらく考えて、万桜の出した答えは、
「一線級の『歌姫』になりたい、か。大きく出たじゃない」
授業初日だからか、美夜の金髪には一段と気合いが入っていた。
校舎に向けて並んで歩きながら今後の抱負を語ると、彼女は驚くことなく万桜に視線を向けてきた。
「なら、あたしたちはライバルってことね」
「やっぱり、美夜も?」
「当然でしょ? あたしは一番を目指す。誰にも負けない。そうじゃないと、あたしは……」
視線を戻した美夜の行く先には、陽光に照らされた学び舎がある。
が、果たして彼女が本当に見ているのは。
出会ったばかりの万桜が踏み込むには、まだ早い。
万桜たちも人に言えない事情を抱えているのだから。
「……それにしても、荷物が多い」
「確かに、初日とは思えない量ですね」
「ま、必修授業が一日に固まってるせいね」
一学期の必修授業は次の五つ。
『体力トレーニング』『発声練習』『歌唱レッスン』『ダンスレッスン』『能力訓練(2コマ)』。
時間割によると朝イチで運動して、疲れたところでめいっぱい声出しして、歌って、踊って、昼食を挟んで能力の練習。
めちゃくちゃハードである。
ついでに荷物も多い。
学院の通学靴はそのままでも踊れる実用的なデザインだが、運動靴や室内レッスン用のシューズもある。
着替えも運動用にレッスン用に能力訓練用に──さらに下着の替えや制汗・消臭スプレー、水分補給用のドリンクも必要。
正直、奏音がいなければ確実に忘れ物をしていた。
特に運動用のブラなんて存在に気付いたかどうか。
「どうせ他の授業でも使うんだし、置けるものはクラスルームに置いておけばいいじゃない」
「置いておけるものって……どれ?」
「洗濯するものは持ち帰らなければいけませんから──」
まあ靴とか、小物くらい?
「今すぐ空飛びたい。というか荷物を浮かせたい」
「あたしも。こればっかりは同感だわ」
◇ ◇ ◇
クラスルームには個人ごとに大きめのロッカーが完備。
歌姫科は男子禁制なのでそのまま更衣室にもなる。
朝、荷物を取りに来てそのまま着替える─流れは今後もお世話になりそうである。
到着するとクラスメートがすでに何人か到着していて、
「おはよー、
「おはようございます」
「……おはよう」
「ええ、おはよ」
高く柔らかな挨拶が飛び交う光景は、やはり万桜の元いたところとは別世界である。
ともあれ荷物をロッカーに置いて制服に手をかけて──。
ブラウスのボタンを外し始めたあたりで視線に気づいた。
美夜、それに他のクラスメートも。
「前々から思ってたけど、万桜って……」
「おっきいよね……?」
「べ、別にそんなこと」
これは、胸を隠すべきなのか?
正直、大きな胸に誇りはないので、じっと見られるのも褒められるのも妙に気恥ずかしいのだが。
慣れれば気にならなくなるのだろうか。
妙などきどきを覚えつつ外の運動用のウェアに着替えて。
「お姉様、ピアスは外しておいたほうが良いと思いますよ」
「あ、そっか」
「? 『歌姫』用のデバイスがそんな簡単に壊れるわけないじゃない?」
「わたし、まだピアス穴開けてないから」
「……あ、そういうこと」
本体が分離しなくとも耳から吹っ飛んでいくかもしれない。
「じゃあ、後であたしが開けてあげましょうか?」
「お姉様の初めてはわたくしがいただきます」
だから、人前でそういう言い方するなって言ってるだろ!?
……ちなみに、クラスルームとロッカーで二重のロックがかかるので盗難の心配はまずない。そこは安心である。
「はい。それじゃみなさん集合してくださーい!」
校舎の外、事前に指示のあった一角に集まると真昼がやってきて声を上げた。
「先生が担当なんですか?」
「ええ。もちろん、専門の先生も来てくれるけど」
「担任ってもしかして暇なんですかー?」
「うん、ぶっちゃけ暇なの」
生徒たちから笑いが起こる。
高峰真昼、まともに先生の威厳が保ったのはガイダンス当日だけだった。
代わりに1−A生の心はがっちり掴んだ模様。
「それじゃ、まずは体力トレーニングの授業です」
歌もダンスも荒事も体力がなければ始まらない。
華やかに見える『歌姫』だけれど、笑顔で跳んだり跳ねたり飛んだりと非常にハード。
なので、
「この授業では最低限みんなの体力づくりをします。二人組になって柔軟したら第二グラウンドまでダッシュね」
「え、第二グラウンドって……」
「うん、500m以上はあるかな。着いたらそのままグラウンド五周!」
「鬼ー!」
ちなみにグラウンドは一般的な中学校のそれ=一周400mよりも広く、一周500m以上あった。
病み上がりで運動不足の万桜はひーひー言いながら走った。
「はーい、ほら、頑張ってー♪」
真昼は最後尾の万桜に笑顔で声かけしてくれた上、余分に五周くらいして息ひとつ切さなかった。
愕然としつつもなんとか走りきって。
地面にへたりこむと、とっくに到着していた美夜が「だらしないわね」と肩をすくめた。
「そんなことでトップになれると思ってるの?」
「ぐぬぬ」
ここで早くもドリンクが活躍。
生き返る心地で身体を休めていると、呼吸が完全に落ち着くよりも早く次の指示が。
「じゃ、準備運動も終わったし、授業終了五分前までグラウンド走ろっか」
「え、何周ですか?」
「終わるまで無制限ー!」
「はああ!?」
『歌姫』ってのは候補生も含めて化け物か。
終わる頃には、万桜は本気で「もう一歩も動けない」というレベルまで疲労困憊していた。
「まったくもう。いくら入院続きだったからって、そんなんじゃこの先苦労するわよ?」
「……身にしみて痛感してる」
「美夜さん、お姉様も一生懸命なのです。お説教はそのくらいにしていただけませんか?」
「……まあ、奏音がそう言うなら仕方ないけど」
空を飛びたい。
本日二度目の感想を抱きつつ、校舎への道をよろよろと歩く。
五分の休憩時間、および、やや長めに取られている休み時間のおかげで遅刻はしないが、ギリギリまで休んでいたので他のクラスメートはもう先に行ってしまった。
小言を口にしつつも付き合ってくれている美夜は、なんだかんだ言って面倒見がいいのだ。
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