第9話 桃琥珀色の蜻蛉出でしこと
白んでいく視界。音の
痛い、熱い、冷たい、――苦しい。
もはや今、目覚めているのかいないのかすら分からない状態になったとき、はるか遠くに自分を呼ぶ声を聞いた気がした。
「
空気の詰まったようになった耳……高低が判ぜられなくなった耳がとらえた声は、懐かしさを含んでいた。
知っている。この抑揚。切実さのなかに
――わた、しの、なまえ。メイ、ユー。
――わたし、は、とんぼつきの、メイユー。
――あのこは、りゅうの、おとこの、こ。
血管を透かして真っ赤に染まる
瞬間、美玉の全身の皮膚という皮膚が
「チィッ!」
彼女の首を掴んでいた手が、舌打ちと共に離される。
鈍い音をたてて床に落ちるのと同時に、全身から大量の
無数の蜻蛉により、部屋はまるで
蜻蛉は今までに見たことのない色をしていた。
「なん、だよ、これ」
震える声をあげたのは
うねりのように押し寄せる羽音の向こう、彼の
「げほっ、っくは……かはぁ!」
解放された首を押さえて咳き込む美玉。彼女自身にも、何が起こっているのか分からない。
助かったという気持ちはあれど、まだ先は分からない。
混乱の中にいて、床に倒れたまま桃琥珀色の蜻蛉を眺めるほか無かった。
「君、これは
蜻蛉たちがばちばちと飛び合う中、
対しようにも、体力が尽きていて逃げることも蜻蛉を出すことも叶わない。
さらに、蜻蛉に命令を下そうとしても、蜻蛉たちに従うそぶりはない。
操ろうとすればするほど、彼らをどうやって操っていたのか分からなくなる。
「
無数の
動けずにいる美玉の脚に彼の右手が伸ばされる。
「や、いや」
「君は俺に『
捕まる、と美玉が目を閉じたときだ。
「
聞き覚えのある声が部屋に響いた。次の瞬間、骨の
顔を上げると、空燕の右手を踏みつけにする長身の男――
「ユーハ……ン、おうじ……」
「何があった⁉ 貴様、美玉に何をした⁉」
宇航皇子は、空燕に馬乗りになり
最近は小康状態であった宇航だったが、怒りのためか、また龍に飲まれつつあった。
喉の奥で獣のごとき唸り声をあげる宇航は、空燕に向かい右の拳を振り上げる。
その手の甲は既に硬い鱗に覆われていた。
――いけない!
美玉は、血の味がする喉から声を出そうとした。
東の対――
証言を行うのは全て東の対の――空燕皇子側の者なのだから。
止めねばならない。しかし、声が、出ない。
美玉の目の前で拳が振り下ろされる。彼の横顔もすでに緑の鱗に覆われている。
唇からは鋭い牙までもが覗いていた。
――
自然と心に浮かんだ言葉を念じて、空に手を伸ばした。
そのとき、部屋に満ちていた桃琥珀の蜻蛉が一斉に宇航皇子の元へ集う。
瞬間、彼は強い光に包まれた。
逆光のなかに、目を覆う空燕皇子の後ろ姿と、拳を上げた姿勢のまま固まる宇航皇子の影が見える。
光は瞬く間に消え、桃琥珀色の蜻蛉たちもすべて消えていた。
代わりに生まれていたのは、たくさんの
桃琥珀色の蜻蛉と、青琥珀色の蜻蛉が、一対ずつ輪を作って飛んでいた。
部屋中に満ちていた怒ったような羽音が消え、のんびりとした羽の音がじいじいと鳴る。
部屋に居た三人は、ただ黙ってそれを見上げることしか出来なかった。
沈黙を破ったのは、
馬乗りになったまま呆けている宇航を蹴り飛ばし、立ち上がったのだ。
「ぐ、う。空燕、貴様……」
「手を踏みつぶされたお返しです」
しれっと答えた空燕は、腹を押さえる宇航を見下ろし言葉を続ける。
「俺は、
「……意味が分からないな。貴様が美玉に乱暴を働こうとした、ということだけが確実だが」
ゆらりと立ち上がる宇航の顔は怒りに満ちているが、鱗の気配は無かった。
癇は、あの不思議な桃琥珀の蜻蛉によって収まったらしい。安堵して、膝を立てて体を起こそうとする。
が、上手く行かない。腰に力が入らず、立てないのだ。
空燕はそれを
「分からないまま生きていられるのが、義兄上の特権ということです。さあ、今日のところはお引き取り下さい。虫の女はなびきそうもない。今のところは」
「っ! それで済むと思っているのか?」
「それで済ませて差し上げようというのです。ここは東の対ですよ?」
その言葉に宇航はいかにも不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
手の届くところまでたどり着くと、彼女の体に腕を回し、抱き上げた。
抱き上げられた美玉が見たのは、部屋の外から中をうかがう多くの人の姿だ。
誰も声を上げず、ただ成り行きを見守っている。その中には
見たことのない、不安げな目の色をしていた。
「フン……。美玉、行くぞ。ここは空気が悪い」
そう言って宇航が部屋から去ろうとしたとき、彼の体越しに空燕と目が合った。
口の動きだけで、「
それからは、部屋を出るまで恐ろしさに顔を上げられなかった。
「……ッ! 美玉! 私、心配で……!」
部屋を出てすぐに、青い顔をした
入れ違いに東の対の者たちが部屋に駆け込んでいく。
「明明……。あなたは何もされていない?」
「ええ、ただ外で見ていることしか出来なくて。ごめんなさい」
今にも泣きそうに顔をゆがめる彼女の肩を、
美玉を抱いているため片手だ。
「とにかく、西の対に戻ろう」
その言葉を合図に、三人は早足に東の対の廊下を行く。
女官たちは、顔をしかめて無言のまま彼らを見送っている。余計なことを言うなと、その目が訴えている。嫌な雰囲気だった。
その中を抜けてようやっと東の対を出たところで、三人は自然と安堵の溜息を漏らした。
* * *
「本当は処分したかったんだけど、ちょっと気が変わりました。あの娘、欲しいな」
手当を受け、部屋を片付けさせた後のこと。
「フン、蜻蛉を見たか?」
茶を飲みながらつまらなさそうに問うのは、空燕の母、
「見ましたよ、
そう言って右手で瓢箪を取ろうとするが、指が動かずに倒してしまった。瓢箪の口から零れた酒が、独特の薬の匂いをさせている。
小さく舌打ちをして、左手でそれを拾う。皇子によって踏まれた方の右手には、包帯が巻かれている。見て分かるほどに腫れていて、瓢箪を掴み損ねたのもむべなるかな、というところだ。
そんな様子を冷めた目で眺めていた華貴人だが、ふと笑みを漏らした。
「それで、祭礼で弓をひけるのか?」
「まあ、どうとでも」
空燕はおどけた様子で、右手の指を不器用に動かしてみせる。
痛みに一瞬顔をしかめるが、華貴人はそんな息子の様子を一切気に留める様子がない。
「包帯は祭礼の当日まで取るな。事情を訊ねられても、はぐらかすようにせよ」
「なぜそのような……ああ。あなたは本当に蛇のような方ですね」
口を歪めて笑うと、空燕は瓢箪の酒を一気に呷った。
「どうとでも言うがいい。母はお前の欲しいものを与えてやりたいだけ。のう、
ほほほ、と艶っぽい声で
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます