第2話 美玉、司虫女官となりし日のこと
それ以前は家に隠されるようにして過ごしていた。
歩くのが嫌いですぐに脚が怠くなるのは、長く家の外に出なかったからである。
後宮に務めることを決意したきっかけは、ある晩春の日の
美玉は父である
幼い頃に
その日の
曰く、蜻蛉憑きを治す気はないと譲らなかったときからずっと家の恥だ。とか。
曰く、蜻蛉憑きなど
曰く、皇帝の気鬱を癒やすための子供の
曰く、蜻蛉に
「お待ち下さい、お父様。今のお話、本当ですの」
前の二つは
「何のことだ」
「子供の奴婢が皇帝の
説教に口を挟まれた彼が不機嫌を隠さず問うが、美玉は何も気にせずに詳細を訪ねようとする。
楊氏は、「なんだ、つまらぬことを気にしておかしな娘だ」と言って無視しようとしたが、彼女は譲らない。
結局、娘の粘りに折れて楊氏は説明してやることになった。
皇族は身の内に龍を宿す。皇帝陛下や皇子、皇女の龍が暴れると、
そしてその奴婢たちは、
最近は龍が暴れることが増え、奴婢を足しても足してもどんどんと死んでいくので足りないほどだとも、彼は語った。
「それでは、あんまりではないですか!」
「何がだ?」
奴婢の死など気にする者は居ないのだ。
それでも、と彼女は思う。
魂を食われて死ぬのはあまりに哀れだと。
蜻蛉憑きとは
初期の症状は、気が
さらに症状が進めば、蜻蛉の
喜びは
だがそのまま蜻蛉憑きの症状が進めば、憑かれた子供は魂を蜻蛉に食われて死んでしまう。
魂を食われて死ねば、来世に生まれ変わることも叶わないのだ。
美玉自身は、何の幸運か蜻蛉憑きのまま十七の歳まで生きることが出来た。
しかし、蜻蛉と共存するに至るまでに
それでも
――そして、蜻蛉憑きの力で、あの男の子を助けた日の喜びが忘れられなかったから。
一瞬、彼女の心に幼い日の
しかし今はそんな思い出に浸っている場合ではない。
立ち上がると、父の足元に寄り、ひざまずいて願った。
「お父様、一生のお願いでございます。私を後宮に入れて下さいませ。蜻蛉憑きの女として、皇帝陛下に仕えたく存じます」
「何を言うか。お前を皇帝陛下の御前に
「しかし、蜻蛉憑きが足りぬのですよね? 龍が暴れて陛下は苦しんでおいでになるのですよね?」
――そして、蜻蛉憑きの子供たちが使い捨てられているのよね。そんな残酷なことはないわ。
美玉が必死に願うが、
そこで美玉は、大胆な交渉に出た。脅迫と言ってもよい。
「それでは、私は今すぐ家を飛び出して往来で力でも使いましょう。そうすれば人の噂にのぼるでしょう。いつか
「ふざけるな! どこまで恥を重ねるつもりだ!」
勢いよく立ち上がる
しかし彼女は平然としたもの。眉を動かすことすらしなかった。
「私は、やると言ったらやりますよ。頑固で愚かな娘であることは、お父様が一番ご存知でしょう。縛ろうが閉じ込めようが棒で打とうが、絶対にやるでしょう」
しばし
最後に、ざわりと彼女の服の袖が揺れるのを見て、楊氏は深くため息をついた。
「どこまでも親不孝な娘だ。お前など知らぬ。二度と顔も見たくない
その言葉に、ジィジィと耳障りな音を立てて揺れ続けていた袖がぴたりと止まった。
「ありがとうございます、お父様」
「二度と父などと呼ぶな、
そう言って席を立ち、去って行く。
美玉はその後もずっと、頭を下げ続けていた。
部屋の入り口のところで、じっと母が見つめていることは気づいていたが、予想通り一言も発さぬままやがて顔を引っ込めてしまった。
どう扱えば良いのか分からないまま、今日まで来てしまったという様子の母とは、最後まで距離が縮まらなかった。
そんなことがあった。
――はあ、脚が
後宮の
初めて司虫局に入った美玉がまず目にしたのは、虹色に輝く薄羽だった。
そして、床を這う
子供たちは男女合わせて十二名。
――隠れて
残酷な光景だが、子供たちも必死であることは分かる。
複雑な思いに一瞬顔を
「こら! 何をしている!」
遠慮のない怒声が放たれると、子供たちは翅を
「申し訳ありません!」
「お許しください!」
板敷きの床に額を押し付けたまま口々に謝罪をする幼い奴婢。
散らばる蜻蛉の死骸と翅。
「勝手に
暁明の冷ややかな声に、一人の女児が「ヒッ」と小さな悲鳴をあげた。
――いけない!
美玉が止めようとするが、遅かった。
恐れの感情の
蜻蛉が
計三匹の蜻蛉たちは、女児の身体に停まったまま、濡れて丸まった翅をゆっくりと伸ばしていく。
「勝手に蜻蛉を出したな」
暁明が神経質そうな声で責め立てると、蜻蛉を生んだ女児を筆頭に、
そのとき、美玉が一歩前へと出た。
「
両手を差し出し、凜とした声で告げる。
すると美玉の元に、三匹の黒琥珀色の蜻蛉がまずやってくる。美玉の手に停まると吸い込まれるようにその皮膚の内に入っていった。
続けて部屋を飛び交っていた白琥珀色の蜻蛉たちが集まり、同様に美玉の手に停まる。
手のひらの
が、
額づいていた子供たちは思わず顔を上げ、あんぐりと口を開けてその様を見ていた。
暁明は、一筋の汗を垂らしながら凝視していた。
手のひらを
「本日からは、この子たちの監督は私が務めると聞いております」
「何が言いたいのですかな」
「この子たちを罰するというのであれば、まず私を」
「そのような道理が通るわけがありません。大体、あいつらは人目を盗んで蜻蛉憑きを治そうとする。役目が分かっておらぬのです。
非難するような言いぐさに、美玉は顔をしかめる。
この宦官は、子供らは蜻蛉に魂を食われるまで蜻蛉憑きのままでいろ、ということを言っているのだ。
いや、後宮中がそう考えているのだ。それがたまらず
「なに、腕の一本ほど失っても体中のどこからでも蜻蛉は出ます」
美玉の表情に気づかぬ暁明は、さらに残忍な言葉を続ける。
それを受け、彼女はすうっと目を細めた。
「聞き入れて頂けないのならば、聞き入れたくなる心になって頂きましょうか」
そう告げると、彼女は暁明に向けて片手を差し出す。
手のひらの皮膚が持ち上がり、虫の形をとる。濡れた翅の先と、
その頭は
「悲しみの心を宿す白琥珀の蜻蛉です。あなたの怒りを鎮めてくださるでしょう」
「わ、私を操ろうというのですか? その力は陛下を癒やすための……」
言いながら、彼は一歩二歩と後退っていく。
「私とて、あなたになど可愛い蜻蛉を使いたくないわ」
はあ、と溜息を漏らす彼女の手のひらから生まれつつある白琥珀色の蜻蛉は、あとは脚を抜くのみとなっている。
「なにを……私に……」
音を立て、暁明が尻もちをつく。そのまま尻を擦って
「言ったでしょう、怒りを鎮めてさしあげようというだけ。ただ、龍の怒りを鎮めるための劇薬……只人には少しばかり強いやもしれません」
唇を釣り上げて美玉が言うと、ついに蜻蛉が全身を現した。手のひらの上で、濡れた翅をゆっくりと伸ばし、乾かしていく。
「ひぃ!」
今にも飛び立つように翅を震わせるのを見た彼は、手脚をめちゃくちゃに動かすと四つん這いになり逃げていった。
振り向くと、床にへたり込んだ子供たちが丸い目をして美玉を見つめている。口は半開きで、手を震わせている者もいた。
蜻蛉憑き同士とはいえ、美玉の強すぎる力を初めて見たのだから当然だ。それに、大人の蜻蛉憑きというのも奇異だろう。
分かってはいるが、それでも
「……これでいいわ。これからは、宦官に見つからぬように。それと、出来れば私の目の前でも、可愛い蜻蛉の翅は
「あの、
先ほど緑琥珀の蜻蛉を出した女児が、おずおずと
「さあ?
手のひらに停まる
そののち、全員で蜻蛉の身体と翅を集めると、司虫局の裏手の埋めに行くことにした。
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