第2話 美玉、司虫女官となりし日のこと

 美玉メイユー司虫しちゅう女官として後宮に来たのは、二月ふたつきほど前のことだった。

 それ以前は家に隠されるようにして過ごしていた。

 歩くのが嫌いですぐに脚が怠くなるのは、長く家の外に出なかったからである。

 

 後宮に務めることを決意したきっかけは、ある晩春の日の夕餉ゆうげでの会話だった。

 美玉は父であるヤン氏に説教を受けていた。彼は厳格な武官であり、家長として美玉を家に隠すことに決めていた。

 幼い頃に蜻蛉とんぼ憑きとなった彼女が、蜻蛉憑きを治すための儀式――計千枚の蜻蛉のはねぐ『翅捥はねもぎの儀式』を拒否してからというもの、毎日のように説教を聞かされる羽目になっていたのだ。

 

 その日の夕餉ゆうげの席での説教も長かった。

 

 曰く、蜻蛉憑きを治す気はないと譲らなかったときからずっと家の恥だ。とか。

 曰く、蜻蛉憑きなど春蕾しゅんらいの祖が奴隷であった時代の恥の名残りであり、お前はいやしい先祖返りの娘だ。とか。

 曰く、皇帝の気鬱を癒やすための子供の奴婢ぬひらは蜻蛉は一匹二匹、よくて三匹しか出せぬのに、お前はいくらでも出すから不気味だ。とか。

 曰く、蜻蛉にこんを食われて死ぬ子供の奴婢ぬひの話を聞くたび、生き延びているお前のこんは奴婢どもよりも卑しいこんだからだと恥じるばかりだ。とか。


「お待ち下さい、お父様。今のお話、本当ですの」 


 前の二つはヤン氏の口癖のようなものなので聞き流していたが、後の二つは聞き捨てならなかった。


「何のことだ」


「子供の奴婢が皇帝の気鬱きうつ治療のために蜻蛉の術を使い、しかも蜻蛉に魂を食われて死んでいる、と」


 説教に口を挟まれた彼が不機嫌を隠さず問うが、美玉は何も気にせずに詳細を訪ねようとする。

 楊氏は、「なんだ、つまらぬことを気にしておかしな娘だ」と言って無視しようとしたが、彼女は譲らない。

 結局、娘の粘りに折れて楊氏は説明してやることになった。


 皇族は身の内に龍を宿す。皇帝陛下や皇子、皇女の龍が暴れると、気鬱きうつかんそうなどの症状がでる。それを抑えるための助けとして、幼い奴婢ぬひの蜻蛉憑きを使い、症状に対応する蜻蛉を出させて治療しているのだという。

 そしてその奴婢たちは、蜻蛉とんぼに魂を食われて死んでいくのだと。

 最近は龍が暴れることが増え、奴婢を足しても足してもどんどんと死んでいくので足りないほどだとも、彼は語った。


「それでは、あんまりではないですか!」

 

「何がだ?」


 美玉メイユーが声を上げてもヤン氏には全く伝わらず、かえって苛立たせるだけだった。

 奴婢の死など気にする者は居ないのだ。

 それでも、と彼女は思う。

 魂を食われて死ぬのはあまりに哀れだと。

 

 蜻蛉憑きとは春蕾しゅんらい国の風土病のようなもので、子供のうちにわずらう病だ。

 初期の症状は、気がたかぶると腕や脚などから蜻蛉が出るというもの。やがて憑く蜻蛉と憑かれる子供のこんが交じっていくと、子供の意思で蜻蛉を出せるようになる。

 さらに症状が進めば、蜻蛉のを選んで出せるようになる。

 喜びは赤琥珀あかこはく色、怒りは青琥珀あおこはく色、悲しみは白琥珀しろこはく色、嫉妬は黃琥珀きこはく色、恐れは黒琥珀くろこはく色、……というように。

 だがそのまま蜻蛉憑きの症状が進めば、憑かれた子供は魂を蜻蛉に食われて死んでしまう。

 魂を食われて死ねば、来世に生まれ変わることも叶わないのだ。

 

 美玉自身は、何の幸運か蜻蛉憑きのまま十七の歳まで生きることが出来た。

 しかし、蜻蛉と共存するに至るまでに幾度いくたびこんを食われそうになり、崩壊の予感に苦しんだ。

 それでも翅捥はねもぎの儀式を行わなかったのは、自分の内から初めて生まれた蜻蛉を見た日にどうしようもない愛しさを覚えてしまったから。

 

 ――そして、蜻蛉憑きの力で、あの男の子を助けた日の喜びが忘れられなかったから。


 一瞬、彼女の心に幼い日のおぼろげな思い出がよみがえる。顔も声も忘れてしまったけれど、その時に覚えた甘い感情の断片を。

 しかし今はそんな思い出に浸っている場合ではない。

 立ち上がると、父の足元に寄り、ひざまずいて願った。


「お父様、一生のお願いでございます。私を後宮に入れて下さいませ。蜻蛉憑きの女として、皇帝陛下に仕えたく存じます」


「何を言うか。お前を皇帝陛下の御前にはべらせるなどありえぬ。家の恥だという自覚は無いのか?」

 

「しかし、蜻蛉憑きが足りぬのですよね? 龍が暴れて陛下は苦しんでおいでになるのですよね?」

 

 ――そして、蜻蛉憑きの子供たちが使い捨てられているのよね。そんな残酷なことはないわ。

  

 美玉が必死に願うが、ヤン氏はがんとして受け入れなかった。

 そこで美玉は、大胆な交渉に出た。脅迫と言ってもよい。

 

「それでは、私は今すぐ家を飛び出して往来で力でも使いましょう。そうすれば人の噂にのぼるでしょう。いつか司虫局しちゅうきょくに入る機会も得られましょう。私の力の強さ、お父様はご存知でしょう」


「ふざけるな! どこまで恥を重ねるつもりだ!」


 勢いよく立ち上がるヤン氏の椅子が倒れ、派手な音を立てる。

 しかし彼女は平然としたもの。眉を動かすことすらしなかった。


「私は、やると言ったらやりますよ。頑固で愚かな娘であることは、お父様が一番ご存知でしょう。縛ろうが閉じ込めようが棒で打とうが、絶対にやるでしょう」


 しばしにらみ合いが続いた。

 最後に、ざわりと彼女の服の袖が揺れるのを見て、楊氏は深くため息をついた。


「どこまでも親不孝な娘だ。お前など知らぬ。二度と顔も見たくないゆえ、後宮に入れてやる。だからその蜻蛉を収めろ」


 その言葉に、ジィジィと耳障りな音を立てて揺れ続けていた袖がぴたりと止まった。


「ありがとうございます、お父様」


「二度と父などと呼ぶな、わしの娘は死んだ」


 そう言って席を立ち、去って行く。

 美玉はその後もずっと、頭を下げ続けていた。


 部屋の入り口のところで、じっと母が見つめていることは気づいていたが、予想通り一言も発さぬままやがて顔を引っ込めてしまった。

 どう扱えば良いのか分からないまま、今日まで来てしまったという様子の母とは、最後まで距離が縮まらなかった。


 そんなことがあった。



 


 

 ――はあ、脚がだるいこと。後宮って広すぎると思うわ。


 後宮の司虫女官しちゅうにょかんとなった初日。暁明シァミンという宦官かんがん司虫局しちゅうきょくへと案内される途上、そんな暢気のんきなことを思っていた美玉メイユーだったが……。


 初めて司虫局に入った美玉がまず目にしたのは、虹色に輝く薄羽だった。

 そして、床を這う白琥珀しろこはく色の蜻蛉とんぼ

 

 翅脈しみゃくを透かせたはねが、はらりはらりと舞い落ちる中、子供たちが必死に蜻蛉の翅をいでいる。

 子供たちは男女合わせて十二名。

 司虫しちゅうで働かされている奴婢ぬひであり、司虫しちゅう女官である美玉がこれから監督する子供たちだ。


 ――隠れて翅捥はねもぎをしているのね。

 

 残酷な光景だが、子供たちも必死であることは分かる。

 複雑な思いに一瞬顔をしかめた美玉だが、すぐにハッと隣の暁明シァミンを見る。


 「こら! 何をしている!」

 

 遠慮のない怒声が放たれると、子供たちは翅をぐのを止めてすぐさまぬかづいた。


「申し訳ありません!」

「お許しください!」

 

 板敷きの床に額を押し付けたまま口々に謝罪をする幼い奴婢。

 散らばる蜻蛉の死骸と翅。

 翅捥はねもぎを逃れた蜻蛉が天井近くを暢気のんきに飛ぶさまが、生と死の落差を感じさせておぞましい。

 

「勝手に翅捥はねもぎの儀式を行うことは禁じられていると知っているな」


 暁明の冷ややかな声に、一人の女児が「ヒッ」と小さな悲鳴をあげた。


 ――いけない!


 美玉が止めようとするが、遅かった。

 恐れの感情のたかぶりと同時に、黒琥珀くろこはく色の蜻蛉が女児の丸めた背から一匹、床についた両手の甲から一匹ずつ、皮膚を衣服を突き抜けるようにして生まれていく。

 蜻蛉がでし跡には何の穴も傷もない。

 計三匹の蜻蛉たちは、女児の身体に停まったまま、濡れて丸まった翅をゆっくりと伸ばしていく。


「勝手に蜻蛉を出したな」


 暁明が神経質そうな声で責め立てると、蜻蛉を生んだ女児を筆頭に、ぬかづく子供たちが震える。

 そのとき、美玉が一歩前へと出た。

 

こんより生まれし琥珀蜻蛉こはくとんぼたちよ、私のなかへおいでなさい」


 両手を差し出し、凜とした声で告げる。

 すると美玉の元に、三匹の黒琥珀色の蜻蛉がまずやってくる。美玉の手に停まると吸い込まれるようにその皮膚の内に入っていった。

 続けて部屋を飛び交っていた白琥珀色の蜻蛉たちが集まり、同様に美玉の手に停まる。


 手のひらのおもてが溶けたようにくずれ、蜻蛉たちを取り込むと一時的に虫の形に盛り上がる。

 が、ぐにたいらかになった。


 額づいていた子供たちは思わず顔を上げ、あんぐりと口を開けてその様を見ていた。

 暁明は、一筋の汗を垂らしながら凝視していた。

 手のひらを一寸すこし見つめてから、美玉は暁明に向きなおる。暁明はぎくりと体をこわばらせた。

 

「本日からは、この子たちの監督は私が務めると聞いております」


「何が言いたいのですかな」


「この子たちを罰するというのであれば、まず私を」

 

「そのような道理が通るわけがありません。大体、あいつらは人目を盗んで蜻蛉憑きを治そうとする。役目が分かっておらぬのです。しつけが必要でしょう」


 非難するような言いぐさに、美玉は顔をしかめる。

 この宦官は、子供らは蜻蛉に魂を食われるまで蜻蛉憑きのままでいろ、ということを言っているのだ。

 いや、後宮中がそう考えているのだ。それがたまらずいびつに感じられた。

 

「なに、腕の一本ほど失っても体中のどこからでも蜻蛉は出ます」


 美玉の表情に気づかぬ暁明は、さらに残忍な言葉を続ける。

 それを受け、彼女はすうっと目を細めた。

 

「聞き入れて頂けないのならば、聞き入れたくなる心になって頂きましょうか」


 そう告げると、彼女は暁明に向けて片手を差し出す。

 手のひらの皮膚が持ち上がり、虫の形をとる。濡れた翅の先と、かぶとのような頭がずぬりと生え出てきた。

 その頭はまくおおわれ濁ってうつるが、白琥珀色であることは分かる。


「悲しみの心を宿す白琥珀の蜻蛉です。あなたの怒りを鎮めてくださるでしょう」


「わ、私を操ろうというのですか? その力は陛下を癒やすための……」


 言いながら、彼は一歩二歩と後退っていく。


「私とて、あなたになど可愛い蜻蛉を使いたくないわ」


 はあ、と溜息を漏らす彼女の手のひらから生まれつつある白琥珀色の蜻蛉は、あとは脚を抜くのみとなっている。

 

「なにを……私に……」


 音を立て、暁明が尻もちをつく。そのまま尻を擦って後退あとずさろうとするが、手足が震えて力が入らぬようだ。


「言ったでしょう、怒りを鎮めてさしあげようというだけ。ただ、龍の怒りを鎮めるための劇薬……只人には少しばかり強いやもしれません」


 唇を釣り上げて美玉が言うと、ついに蜻蛉が全身を現した。手のひらの上で、濡れた翅をゆっくりと伸ばし、乾かしていく。


「ひぃ!」

 

 今にも飛び立つように翅を震わせるのを見た彼は、手脚をめちゃくちゃに動かすと四つん這いになり逃げていった。


 振り向くと、床にへたり込んだ子供たちが丸い目をして美玉を見つめている。口は半開きで、手を震わせている者もいた。

 蜻蛉憑き同士とはいえ、美玉の強すぎる力を初めて見たのだから当然だ。それに、大人の蜻蛉憑きというのも奇異だろう。

 分かってはいるが、それでもむなしさはある。理解されることなどないのだという虚しさが、冬の風のように冷たく乾いた虚しさが、心の深いところにずっと吹いている。

 

「……これでいいわ。これからは、宦官に見つからぬように。それと、出来れば私の目の前でも、可愛い蜻蛉の翅はがぬようにね」


「あの、ヤン女官さま、どうして蜻蛉憑きのまま大人になって、蜻蛉にこんを食われないのですか?」


 先ほど緑琥珀の蜻蛉を出した女児が、おずおずとたずねた。


「さあ? 蜻蛉とんぼが好きだから、じゃないかしら」


 手のひらに停まる白琥珀しろこはくの蜻蛉を撫でながら、眉を下げて美玉が言った。

 

 そののち、全員で蜻蛉の身体と翅を集めると、司虫局の裏手の埋めに行くことにした。

 翅捥はねもぎにされた蜻蛉のための塚を一緒に作ること。それが、奴婢の子供たちに初めて下した命令であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る