蜻蛉憑きの娘と龍を宿す皇子~桃琥珀の蜻蛉飛ぶとき、運命の番は現れる~

髙 文緒

第1話 司虫女官、皇子の癇(かん)を治療すること

 蜻蛉とんぼの死骸に土をかけていく。

 

 まばらに載った土の隙間から薄羽うすばがのぞき、夏のを反射してきらめいていた。

 千切られてなお美しいそのはね見惚みとれれつつも、司虫しちゅう女官楊 美玉ヤン メイユーは心を痛める。

 

 儀や礼を司る尚儀局しょうぎきょく。そこに属する司虫では蜻蛉を使った儀式を担当する。司虫局の裏手には蜻蛉のための塚がひっそりと作られていた。


 美玉の周りには彼女の監督する幼い奴婢ぬひ――奴隷たちが、美玉と一緒に手をよごしている。

 翅をがれた蜻蛉を埋めるために。


 他の者がこの光景を見たとしたら、土で手をよごす仕事など奴婢ぬひの子供らだけに任せればいいと不思議に思うことだろう。

 だが美玉は、己の手指でも土をつかんで蜻蛉たちを埋葬せねば気が済まなかった。

 どうしても。 


 そのとき、庭の方から騒ぎが聞こえてきた。

  美玉は大義たいぎそうに顔を上げる。

 

 男の奇声。それをなだめる宦官かんがんたちの緊迫した声。そして女たちの悲鳴。

 加えて、こちらに向かって逃げてくる女官と宮女が見える。

 唐突に始まったやぶをつついたような騒ぎが迫るなか、美玉メイユーはやれやれと立ち上がった。

 襦裙きものの汚れを払うついでに、しゃがんでいた間に曲げていた膝をさりげなく揉む。

 まったく脚が弱くてかなわない、と思いながら。


「さて、どうやら宇航ユーハン皇子がいらしたみたいね。あなたたちは司虫局しちゅうきょくに戻って、床掃除でもしていなさい」


 美玉が言うと、子供たちから「え」と遠慮がちな声が漏れる。

 彼女はこのあと司虫女官しちゅうにょかんとして宇航ユーハン皇子に対応するのである。

 女官である彼女の命だ。即座に動くべき奴婢の子供たちが逡巡しゅんじゅんするのはなぜか。

 子供たちは本来は彼女の前に立って暴れる患者に対応する役目を与えられているからだ。

 去れという命令に従うべきか、しかし美玉の仕事を手伝わずに後から怒られないだろうか、と子供たちは迷っていたのだった。

 

 その心情を察した美玉は、わざと怒った顔を作って言った。


「なにをぐずぐずしているの。お前達、今日は蜻蛉とんぼをたくさん出したのだからもう蜻蛉憑きとしての働きは無理よ。それに皇子が宿す木龍もくりゅうは、かんの龍。嵐のような怒りに対応できるの?」

 

 腰に手をあてて見下ろす姿勢を作りながら、こっそりと固まった腰を伸ばす美玉だ。

 なおも子供たちが迷う様子を見せるので、美玉は追い立てるようにして子供たちを司虫局の中に入れた。

 戸を閉めたちょうどその時、ずるり、という粘っこい足音を背後に聞く。


ヤン女官! 宇航ユーハン皇子がかんにございまして、お連れ致しました! 治療を願います」


「これは、お連れした、と言っていいものなのかしら」


 年若そうな宦官の声にゆったりと振り向いて答える美玉。

 そこに居たのは、三人の宦官に取りつかれたまま、それを引きずるようにしてこちらへ歩いてくる長身の男。

 ここ春蕾しゅんらい国の皇子の一人。李 宇航リー ユーハンだった。


 普段は柳のごとき繊細な美しさをたたえる宇航皇子だが、今は幽鬼のごとき雰囲気をまとっている。

 青灰色せいかいしょくの長い髪は乱れて垂れるままにされ、金色の瞳には爬虫類のような縦長の瞳孔どうこうが浮かんでいる。

 息は荒く切れ、色白の肌は汗に濡れていた。

 

 何より異様なのは、顔の右半分に浮かぶ緑色の鱗である。それは顎にも首にもおよび、袍衣ふく襟元えりもとから下にも続いているように見える。袖からのぞく拳は震え、右手はうろこおおわれている。裳裾すそからのぞく右足も靴が脱げており、裸足の甲にも鱗が浮かび変形している。


 もしかしたら、右半身すべてを鱗におおわれているのだろうか。 

 先ほどのずるりという音は、鱗によって変形した右足と普段と変わらぬ左足で、不器用に歩く宇航皇子の足音だったらしい。

 そんなことを美玉が考えているうちに、皇子が宦官かんがんたちを引きずりながら近寄ってくる。


美玉メイユー、おレを、楽にシろ。怒りであたマが、割レ、そうだ」


 ぜろぜろとした息を吐きながら、そう言った。


 ――幾度いくたびも宇航皇子を診てきたけれど、これほどひどい状態は初めてだわ。


 ひりつく心持ちになった美玉の腕の皮膚が、ざわりとうごめく。

 うわぎの袖が揺れるが、彼女の術を知らぬ者が見れば、恐れに震えているようにしか思えないであろう。

 しかし、これは術の前触れ。


「はや、ク」


 という声が皇子から二重に響く。唇と喉、それぞれから声が出ているようだった。

 と、唐突に宇航の体が沈み込み、次の瞬間には高く高く跳ねていた。鱗に覆われた右脚が力強く伸ばされているのが見える。右脚一本で跳んだのだろうか。


 取りついていた三人の宦官が、振り払われて地に転がる。

 

「宇航皇子、楽になさってくださいませ。


 その美玉の言葉を合図に、彼女の袖から無数の白琥珀しろこはく色の蜻蛉とんぼが飛び立った。

 渦のように飛ぶ蜻蛉たちは、今にも美玉の喉に届こうという宇航の右手にまず群がった。

 鱗に覆われた手の甲にとりつき、一枚一枚に溶けるようにして入り込んでいく蜻蛉たち。

 続けて別の群れが放たれる。それらは羽音をたてて宇航の袖に停まると、衣の中に吸い込まれるように入っていく。衣の表面には穴もほつれも残らない。


 次々と放たれる蜻蛉たちは、宇航の顔にも裸足の右足にも、そして胸の中心にも停まり、見る間に同化していく。


の心よりでし蜻蛉よ、相克そうこくことわりしたがい龍を鎮めよ」


 彼女が術を紡ぐと、宇航の体が白光はっこうに包まれる。次第、光の消えるとともにその場に倒れ伏した。

 美玉は宇航の体を起こそうとし、すぐに自分では無理だと気づく。

 こんな重い体を一人で動かそうとすれば、明日には腰が伸ばせないほどの腰痛に見舞われそうだ。


「あのう、皇子を仰向けにしてほしいわ」


 地面に尻をついたまま呆然としている宦官たちに声を掛けると、彼らは急いで立ち上がり、宇航の体を起こしてくれた。

 


 


「……で、なんでこうなるのかしら」


 司虫局しちゅうきょくにて、長椅子に腰掛けた美玉メイユーはむすっとした顔でひとりごつ。

 その膝には宇航ユーハンの頭が乗せられていた。

 長椅子は部屋に似合わぬ豪華なもので、長身の宇航が横になってもまだ余裕があった。

 

 今は奴婢ぬひの子供たちは外に出ており、二人きりだ。


 宇航の頭は、重くて仕方がない。

 美玉の肉の薄い太ももでは、彼の頭の骨の形がそのまま腿の骨に伝わるような心地になる。

 これは長時間続けていれば確実に脚がしびれる。と眉をしかめていると、唐突に宇航が目を開いた。


「ここは……ああ虫の女のところか」


 そう言って美玉の顔をみとめると、彼は長い手脚を伸ばして欠伸あくびをした。図々しくも膝に頭を乗せたまま会話を続けるつもりのようだ。


「お目覚めになりましたなら、どうぞ虫の女めのいやしい膝なぞ捨ててお帰りくださいませ」


「しかし俺は疲れている。この長椅子だって俺が贈ったものだし、休んでいてもいいだろう」


「無理に置いた、の言い間違いではありませんか。西の皇子殿下」


「俺に正面からその名を言って命あるのはお前くらいだぞ」


 美玉メイユーが呼ぶ『西の皇子』とは宇航ユーハン皇子の不名誉なあだ名である。

 尊い東の皇子に対してその下に置かれた西の皇子。ある種の蔑称であり、公にそう呼ぶ者はまず居ない。本人に呼びかけるなどもってのほかだし、他の者に聞かれるのもよろしくない。

 だが二人きりのときにそう呼ばれることを、宇航皇子は楽しんでいるらしい。ということを美玉は知っている。

 

「私を虫の女と呼んで呪われないのも殿下くらいらしいですわよ」


 美玉がツンと言うと、皇子は口の端を引き上げて嫌味に笑った。


「お前の術はのろいではないのだろう? 春蕾しゅんらいの民の祖から伝わる術であり、体質であり、病だ。……まあお前自身は蜻蛉にのろわれているかもしれぬが」


「私は蜻蛉に愛されているのですわ」


 つまらなそうに返す美玉に、宇航は今度はしんから楽しそうに笑った。


「確かにそうかもしれないな。蜻蛉憑きを治さぬまま十七まで生き永らえるなど聞いたことが無い。よほど蜻蛉がお前を離したがらないらしい」


「…………そう、ですね」

 

 遠くを眺めて呟く彼女に、宇航が手を伸ばす。


「不思議な娘だ。帝や俺の龍がひどく暴れるようになってから、突然後宮ここにやってきた。圧倒的な術をもって……今ではお前なしでは居られなくなっている」


「龍を、根本から抑えることが出来たら良かったのですけれど」


「俺はお前っがそばにいるだけで、十分だがな」


「木龍の皇子がそのように仰ってはいけませんわ」


 フ、と笑みを漏らした宇航は、彼女から垂れる白銀の髪を梳く。その指は、ぶっきらぼうな物言いに反して優しかった。

 思わず彼を見下ろすと、金の瞳と目が合う。

 今まで目を逸らされる経験ばかりだった彼女は、目を合わせることが得意ではない。慌てて横を向きまぶたを伏せると、くつくつという笑い声が宇航から聞こえてきた。

 

 ――髪を撫でられたのは、いつが最後だったかしら。目を見つめられるのは、いつぶりかしら。


 生まれたときは濃茶の髪に赤茶の瞳であったが、幼い頃に蜻蛉憑きを発症し、またそれを治すための『翅捥はねもぎの儀式』を拒否してから、髪も瞳もどんどんと色を薄くしていった。

 今では白銀の髪に、薄灰色の瞳。瞳は光のあたりようで赤にも青にも見えるようで、この世ならざる者を想像させるとして忌避されてきた。

 

 そんな美玉の目を真っ直ぐに見つめる彼の視線に、時折くすぐったさを感じることがある。

 

「お前も休むといい。朝も皇帝の気鬱きうつを蜻蛉で払ってきたのだろう。龍を飼う皇族たちのうち、一番の問題児である俺が落ち着いたのだ。あと半日はだらりとしていられるぞ」


 そう仰るなら、もう少し木龍のかんを抑えてください。とは思うものの、口に出すことはしない。

 司虫しちゅうに務めて二月ふたつき。彼の苦しみと複雑な立場を知ってしまったから。

 

 ――情が芽生える、とまではいかないけれど。


 なんとなく、そんなことを考えさせられたことに悔しくなって、殊更ことさらに冷ややかな顔を作ってみる。

 そして彼を見下ろして言い放った。

 

「私にも休めと仰るなら、私をどかしてお一人で寝てくださいませ。先程から脚がしびれてしびれて」

 

「お前は脚が弱すぎるから鍛えてやっているんだ。人目を忍んでいるつもりかもしれぬが、老人のように座り込んだり脚を揉んだりしているところを見たと皆言っているぞ」


 美玉の訴えにも、宇航は飄々ひょうひょうとしたものだ。


「古来より人の言う皆がほんとうの『皆』だったことなどありませんわ。それに、脚が弱いのは仕方ありません。私、ずっと家から出ない生活をしていたのですもの。ここに来るまでは」


 美玉が言うと、宇航はもう一度彼女の髪を撫で、無言のうちに目を閉じる。

 本格的に寝直す算段らしいと察すると、馬鹿らしくなって姿勢を崩した。

 脚を伸ばし上体を背もたれに預ける美玉と、その膝で眠る宇航。

 

 束の間、静かな時間が流れていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る