第1話 司虫女官、皇子の癇(かん)を治療すること
まばらに載った土の隙間から
千切られてなお美しいその
儀や礼を司る
美玉の周りには彼女の監督する幼い
翅を
他の者がこの光景を見たとしたら、土で手を
だが美玉は、己の手指でも土を
どうしても。
そのとき、庭の方から騒ぎが聞こえてきた。
美玉は
男の奇声。それを
加えて、こちらに向かって逃げてくる女官と宮女が見える。
唐突に始まった
まったく脚が弱くてかなわない、と思いながら。
「さて、どうやら
美玉が言うと、子供たちから「え」と遠慮がちな声が漏れる。
彼女はこのあと
女官である彼女の命だ。即座に動くべき奴婢の子供たちが
子供たちは本来は彼女の前に立って暴れる患者に対応する役目を与えられているからだ。
去れという命令に従うべきか、しかし美玉の仕事を手伝わずに後から怒られないだろうか、と子供たちは迷っていたのだった。
その心情を察した美玉は、わざと怒った顔を作って言った。
「なにをぐずぐずしているの。お前達、今日は
腰に手をあてて見下ろす姿勢を作りながら、こっそりと固まった腰を伸ばす美玉だ。
なおも子供たちが迷う様子を見せるので、美玉は追い立てるようにして子供たちを司虫局の中に入れた。
戸を閉めたちょうどその時、ずるり、という粘っこい足音を背後に聞く。
「
「これは、お連れした、と言っていいものなのかしら」
年若そうな宦官の声にゆったりと振り向いて答える美玉。
そこに居たのは、三人の宦官に取りつかれたまま、それを引きずるようにしてこちらへ歩いてくる長身の男。
ここ
普段は柳のごとき繊細な美しさをたたえる宇航皇子だが、今は幽鬼のごとき雰囲気をまとっている。
息は荒く切れ、色白の肌は汗に濡れていた。
何より異様なのは、顔の右半分に浮かぶ緑色の鱗である。それは顎にも首にもおよび、
もしかしたら、右半身すべてを鱗に
先ほどのずるりという音は、鱗によって変形した右足と普段と変わらぬ左足で、不器用に歩く宇航皇子の足音だったらしい。
そんなことを美玉が考えているうちに、皇子が
「
ぜろぜろとした息を吐きながら、そう言った。
――
ひりつく心持ちになった美玉の腕の皮膚が、ざわりと
しかし、これは術の前触れ。
「はや、ク」
という声が皇子から二重に響く。唇と喉、それぞれから声が出ているようだった。
と、唐突に宇航の体が沈み込み、次の瞬間には高く高く跳ねていた。鱗に覆われた右脚が力強く伸ばされているのが見える。右脚一本で跳んだのだろうか。
取りついていた三人の宦官が、振り払われて地に転がる。
「宇航皇子、楽になさってくださいませ。施術を開始いたします」
その美玉の言葉を合図に、彼女の袖から無数の
渦のように飛ぶ蜻蛉たちは、今にも美玉の喉に届こうという宇航の右手にまず群がった。
鱗に覆われた手の甲にとりつき、一枚一枚に溶けるようにして入り込んでいく蜻蛉たち。
続けて別の群れが放たれる。それらは羽音をたてて宇航の袖に停まると、衣の中に吸い込まれるように入っていく。衣の表面には穴もほつれも残らない。
次々と放たれる蜻蛉たちは、宇航の顔にも裸足の右足にも、そして胸の中心にも停まり、見る間に同化していく。
「
彼女が術を紡ぐと、宇航の体が
美玉は宇航の体を起こそうとし、すぐに自分では無理だと気づく。
こんな重い体を一人で動かそうとすれば、明日には腰が伸ばせないほどの腰痛に見舞われそうだ。
「あのう、皇子を仰向けにしてほしいわ」
地面に尻をついたまま呆然としている宦官たちに声を掛けると、彼らは急いで立ち上がり、宇航の体を起こしてくれた。
「……で、なんでこうなるのかしら」
その膝には
長椅子は部屋に似合わぬ豪華なもので、長身の宇航が横になってもまだ余裕があった。
今は
宇航の頭は、重くて仕方がない。
美玉の肉の薄い太ももでは、彼の頭の骨の形がそのまま腿の骨に伝わるような心地になる。
これは長時間続けていれば確実に脚がしびれる。と眉をしかめていると、唐突に宇航が目を開いた。
「ここは……ああ虫の女のところか」
そう言って美玉の顔をみとめると、彼は長い手脚を伸ばして
「お目覚めになりましたなら、どうぞ虫の女めの
「しかし俺は疲れている。この長椅子だって俺が贈ったものだし、休んでいてもいいだろう」
「無理に置いた、の言い間違いではありませんか。西の皇子殿下」
「俺に正面からその名を言って命あるのはお前くらいだぞ」
尊い東の皇子に対してその下に置かれた西の皇子。ある種の蔑称であり、公にそう呼ぶ者はまず居ない。本人に呼びかけるなどもってのほかだし、他の者に聞かれるのもよろしくない。
だが二人きりのときにそう呼ばれることを、宇航皇子は楽しんでいるらしい。ということを美玉は知っている。
「私を虫の女と呼んで呪われないのも殿下くらいらしいですわよ」
美玉がツンと言うと、皇子は口の端を引き上げて嫌味に笑った。
「お前の術は
「私は蜻蛉に愛されているのですわ」
つまらなそうに返す美玉に、宇航は今度は
「確かにそうかもしれないな。蜻蛉憑きを治さぬまま十七まで生き永らえるなど聞いたことが無い。よほど蜻蛉がお前を離したがらないらしい」
「…………そう、ですね」
遠くを眺めて呟く彼女に、宇航が手を伸ばす。
「不思議な娘だ。帝や俺の龍がひどく暴れるようになってから、突然
「龍を、根本から抑えることが出来たら良かったのですけれど」
「俺はお前が
「木龍の皇子がそのように仰ってはいけませんわ」
フ、と笑みを漏らした宇航は、彼女から垂れる白銀の髪を梳く。その指は、ぶっきらぼうな物言いに反して優しかった。
思わず彼を見下ろすと、金の瞳と目が合う。
今まで目を逸らされる経験ばかりだった彼女は、目を合わせることが得意ではない。慌てて横を向き
――髪を撫でられたのは、いつが最後だったかしら。目を見つめられるのは、いつぶりかしら。
生まれたときは濃茶の髪に赤茶の瞳であったが、幼い頃に蜻蛉憑きを発症し、またそれを治すための『
今では白銀の髪に、薄灰色の瞳。瞳は光のあたりようで赤にも青にも見えるようで、この世ならざる者を想像させるとして忌避されてきた。
そんな美玉の目を真っ直ぐに見つめる彼の視線に、時折くすぐったさを感じることがある。
「お前も休むといい。朝も皇帝の
そう仰るなら、もう少し木龍の
――情が芽生える、とまではいかないけれど。
なんとなく、そんなことを考えさせられたことに悔しくなって、
そして彼を見下ろして言い放った。
「私にも休めと仰るなら、私をどかしてお一人で寝てくださいませ。先程から脚がしびれてしびれて」
「お前は脚が弱すぎるから鍛えてやっているんだ。人目を忍んでいるつもりかもしれぬが、老人のように座り込んだり脚を揉んだりしているところを見たと皆言っているぞ」
美玉の訴えにも、宇航は
「古来より人の言う皆がほんとうの『皆』だったことなどありませんわ。それに、脚が弱いのは仕方ありません。私、ずっと家から出ない生活をしていたのですもの。ここに来るまでは」
美玉が言うと、宇航はもう一度彼女の髪を撫で、無言のうちに目を閉じる。
本格的に寝直す算段らしいと察すると、馬鹿らしくなって姿勢を崩した。
脚を伸ばし上体を背もたれに預ける美玉と、その膝で眠る宇航。
束の間、静かな時間が流れていた。
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