蜻蛉憑きの娘と龍を宿す皇子~桃琥珀の蜻蛉飛ぶとき、運命の番は現れる~

髙 文緒

第0話 運命の輪が廻りだす――或る少年少女の邂逅

 その日のみやこは朝からものものしい雰囲気だった。

 通りには警吏けいりや兵があふれ、人々は外出を控えている。

 

「化け物が宮城から逃れた」


 そう聞けば、都に住まう者はすぐに察する。皇族が身の内に飼う龍、それが反乱し主をのだと。

 

 まだ文字も読めぬ年頃の少女がひとり、二階の窓から裏通りを眺めていた。

 警戒態勢とはいえ、まばらにたたずむ警吏たちはどこか気が抜けた顔をしている。

 

 武官である父は宮城に詰めており、気の弱い母は恐ろしさに臥せっていた。

 少女は――化け物というものを見てみたいと思っていた。

 窓の外の警吏たちがただうろついているだけに見えるので、事態の重大さを分かっていなかったのもある。


 と、眼下の兵たちが緊張の面持ちで一斉に動き出した。大通りの方に向かい、思い思いに声をあげて駆けていく。

 向こうで何かあったのだろうか。

 気になった少女は、重い窓を押し上げて、身を乗り出そうと顔を出した。


 その瞬間、鼻先をかすめて落下する緑色の塊があった。

 どさりと音をたて、屋敷の敷地に落ちたそれは……。


「龍? ……ひと……?」


 どちらともつかぬものだった。




 急いで下に降り、裏の戸から出る。落ちたものを確認したかった。

 好奇心だけで、少女は動いていた。


 うかつさを思い知るのは、落ちてきたものと対峙した瞬間だ。

 気づけば上に覆い被されていて、肩がミシミシいうほど地面に押し付けられていた。


「ト、んぼ、出せ。おレを助け、ロ」


 間近で見たそれは、人……それも、少年だった。

 肌は緑色の鱗に覆われて、額には短い角が二本生えている。さらに恐ろしいことに、瞳には縦長の人ならざる形の瞳孔が浮かんでいる。

 しかし、言葉を話し、助けを求めるさまはどう見ても人間だ。ぼろぼろになってしまっているが、衣も着ている。


 ――化け物じゃ、ない。


 肩を掴む手に尖った爪が生えていようとも、口から牙が覗いていようとも。

 

 ぽたり、と生温かいものが頬に垂れた。

 よく見ると耳の脇に深い傷がある。

 さらに見ると、裂けた衣のところどころに血の染みが滲んでいるのが分かった。

 

「たすけるって、けがを? おにいちゃんに角があるのは、びょうき?」


 訊ねるが、少年は答えない。


「助け、ロ。トんぼ」


 そう繰り返しては、時折うめき声をあげて手に力をこめられるのみ。

 とんぼ、といえば、この国では誰もが蜻蛉とんぼ憑きを想像する。

 幼い子供がかかる病のようなものだ。


 でも、少女はまだその病にはかかっていなかった。


「わかんないけど、おにいちゃんにはとんぼが要るの? どうしよう」


 少女の言葉が聞こえているのか、いないのか。少年は大きく背を丸め、顔をゆがませる。

 血と一緒に、今度を汗が落ちてきた。

 同時に、少年の爪が肩に食い込んで、熱い痛みが走る。

 

 そんな状況でも、少女は嬉しかった。

 男児が欲しかった父と、気の弱い母。期待をかけられたり、求められたり、ということがとんとなかった。

 少年を助けたい気持ちと、求められる嬉しさ。心の奥でさまざまな感情が生まれて、押し合いへし合いしているみたいだと少女は思った。


 ――あたしも、とんぼつきになれないかな。とんぼさんが、あたしから生まれてくれないかな。


 少女の願いは、この国の常識に照らせば突拍子もないことだった。

 蜻蛉憑きは恐ろしい病。自ら望んで、発症したいなどとは普通は思わない。

 

 だが、彼女は願った。


 その刹那、おしあいへし合いしていた心の中が、すうっと整理されていく感覚があった。

 少女の意識の中でぽこぽこと顔を出したのは、さまざまな色の蜻蛉たち。

 

 ――あ、かわいい。

 

 最初の印象はそれだ。

 嬉しそうに、蜻蛉が羽根をふるわせるイメージが浮かぶ。

 

 ――出てきていいよ、とんぼさん。

 

 心の中でそう唱えたときだ。

 少女の全身から、無数の蜻蛉が生まれ出た。桃色とも琥珀色とも見える、美しい色をした蜻蛉たちだ。


 蜻蛉たちは、少年の体にとまり、尾を差し入れる。

 すると少年の中からも別の蜻蛉が引き出された。


 少女の出した蜻蛉に導かれるようにして少年の体から生まれた蜻蛉。

 それらは尾を噛み合い、輪となって飛んでいく。

 

「すごいねえ」


 沢山の輪が重なり、離れ、また重なり。

 空の向こうに飛んでいくのを見上げて、少女は嘆息する。


 ふと体が軽くなる。

 圧し掛かっていたはずの少年が、彼女から離れて地面に座っていたのだ。

 その姿はすっかり人に戻っていた。

 繊細な造りの顔をした、美しい少年だった。


「おい、ちっちゃいの。僕を助けてくれたのか?」

 

「え? ちっちゃいのってあたし?」


「当たり前だ。記憶が曖昧なんだが、僕に何をした? 蜻蛉の治療か?」


 少年の言葉は難しくて、少女には分からない。

 首を傾げていると、フンと笑われる。

 たすけてあげたのに、と頬を膨らませようとしたところで、頭を撫でられた。


「礼を言う。名は?」


「え、っと。美玉メイユーだよ」


「覚えておこう。美玉」


 その微笑みがあまりに優しいので、少女はとたんに機嫌を直した。

 

 こっそりと家に通して、お菓子を一緒に食べたり、本を読んでもらったり。兄弟のいない彼女には、特別に楽しい時間だった。

 しかし、帰宅した父は少年を見てひどく慌て、彼を連れてどこかへ行ってしまった。

 

「そういえば、お兄ちゃんの名前聞けなかったな。またどこかで会えるかな」


 父と並んであるく少年の後ろ姿を見送って、少女はひとりごつのだった。



 

 これが、少女が忘れてしまったある日の出来事。

 運命の出会いのとき、彼女はあまりに幼かった。

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