第13話 人の心の複雑なりし

「凄いわ! ねえ、見た⁉」


 美玉メイユーが興奮して明明メイメイに声を掛ける。周囲が騒がしいので、自然と声が高くなった。

 すると、唇に指を押し当てられ「しっ」と返される。


「想定外よ、宇航ユーハン皇子があんな矢を放つなんて。これは良くないわ」


「なぜよ」


「……ああもう。チュ美人が皇子に話をつけたのではなくて? ……美玉メイユーが龍を抑えた途端に活躍するだなんて、皇子は何を考えておいでなの?」


「ねえ。ねえってば! 教えてよ明明」


 訊ねても爪を噛んでぶつぶつと独り言をつぶやく明明にしびれを切らして、その肩を掴んで揺する。すると彼女は、溜息とともに彼方かなたを指さした。

 その先にあるのは貴妃たちの並ぶ壇だ。揃って宇航皇子へと視線をやっている。その中でひときわ深い黒色の瞳が、硬質な光を放っているのが目に入る。

 ホア貴人が宇航皇子を冷たい目で睨みつけているのだ。

 はたと思い当って空燕皇子の方を向けば、そちらも暗い目で宇航皇子を見つめていた。

 空燕皇子の目は、普段は抜けるような青さだというのに、今は一転して炎心えんしんのようにゆらめく深い青へと変わっている。そら恐ろしくて、思わず顔ごと目を背けた。

 

「あちらだけではないわ。あなたはもっと自分の周りに注意しなくてはね」


 言われて周りを見回せば、眉をひそめて囁き合う者たちが目に入った。

 それらの視線の先のほとんどは宇航皇子へと向けられている。そして、その一部は美玉へ。

 途端に居心地が悪くなって、戸惑いのまま明明に身を寄せる。

 

「ねえ、なんでこんな……?」

 

「さ! 見物は終わりよ! 仕事に戻りましょう、ほら、行って行って」


 状況を訪ねようとしても、明明メイメイは取り合ってくれない。

 わざとらしい声をあげた彼女に背中を押され、幕の裏へと出されることになってしまった。

 祭礼が始まったときに控えていた場所にまで戻ると、近くに人が居ないことを確認してから明明が告げてくる。

 

「以前にも言ったじゃない。宇航ユーハン皇子が活躍すればホア貴人には都合が悪いの。それに、鳥の羽根の件もあるでしょう? 犯人は分からないけれど、皇子が力を示すと面白くないという者はほかにもいるのよ」


「それは覚えているけれど、皇族の龍を抑えるのが私の仕事でしょう? それに今回祭礼に出席されたのは薬が効いたからで、私は関係ないわ」


「でも直前に発作を起こした皇子を治したのはあなた。これから気を付けた方がいいわ。私も気にするようにするけれど……そう、そうね……」


 一瞬考え込むようにしたあと明明は美玉の手を強く握って続けた。


「一つだけ確認させて。あなた、宇航皇子のことどう思っているの? 恋しいと思う? 離れがたいと思う?」


「え、ちょ、っと。待って頂戴。それって関係ないでしょ?」


「あるわ。答えて」


 真剣な目でじっと見つめられる。逃れがたい圧を受け、美玉は答えを探す。

 決まっていたはずの答えを探すのは、どれほどの深さで皇子を想っているのかを測ることに躊躇ちゅうちょがあったからだ。


「……想っているわ。運命を共にしたいくらい」


 そう吐露とろしてみると、ああ自分はずっとそうだったのだ、と自覚する。

 子供のときに助けた龍の少年の姿を、心の淵から覗き見ていた。底の知れぬ深さだが、恐ろしさは無かった。


 ――好き、好き、好き。言葉では足りないほど。一緒に、想いの池に沈んでしまいたいほど。


 美玉の答えを聞き、明明はゆっくりと頷いた。


「もしも、よ。運命の番として盛り立てられても、あなた、受け入れられる?」


「え、と。何を考えているの?」


「いいから、答えて頂戴」


 問うてくる視線はあくまで真剣そのもので。


「……私は、そうね、運命だと思っているわ」


 不思議と滑るように口から出た。

 運命。

 そう認めている自分に気づく。手離してはいけない絆だとも。


 ――もうすでに運命のつがいなのかもしれないということは、多分黙っておいた方がいいのよね。皇子のお心はまだ、分からないし……。


 そう心の中でつぶやきつつ。

 


 * * *


 

 祭礼の後、宇航は朱美人の住まう初凪はつなぎ殿に呼び出されていた。


「どうして呼ばれたか分かっているわよね」


 客を通すための部屋には、よい茶の香りが漂っていた。

 卓についている朱美人は優雅に茶器の蓋を持ち上げ、香りを楽しみながら言った。

 宇航に一瞥いちべつもくれず、卓につくことを勧めもせず。


「牛を射たことでしょう」


 棒立ちのまま、ぶっきらぼうに宇航は答える。

 

「それもそうだけれど、その前に龍に飲まれそうになった件よ。何があったの?」


 言われて宇航は胸から羽根を出す。

 ふいと視線をあげたチュ美人の元へ近寄ると、卓にそっと羽根を置いた。


「俺付きの侍女にこれを渡されました。彼女は中身が何かも知らぬようで、ただ俺宛の名で置かれていたと。俺と美玉が親しいことは知っているだろうから、おおかた美玉からの伝言の類だとでも思ったのでしょう」


「不用心ね。この羽根、あなたが可愛がっていたという例の鳥のもの? 薬師見習いの小娘が贈ったとかいう」


 そう言って彼女は指の先で羽根を摘まみ上げる。

 二三度振ってみると、興味を失ったのか卓にもどしてしまった。


「ええ。俺を動揺させたかったらしい。どうせ空燕コンイェンホア貴人の差し金とは思うが、証拠がない」


「で、虫の女に動揺を収めてもらった後、牛の眉間を射たと」


 ふう、と息を吐いたあと、緩慢に脚を組み替えて朱美人は言葉を続けた。 


「あのねえ、あなた、政争には興味ないのではなかったかしら? こうなってしまっては虫の女を守るため、動かないとならないわよ。完全に目をつけられるのだから」


 朱美人の言葉に、皇子は黙ってうつむいた。


「……運命の番だと言って彼女を表に出す以外に守れないわよ」


「美玉」


「はい?」


「虫の女ではなく美玉です」


 生真面目な顔の宇航に、朱美人は目を丸くする。

 そして、次の瞬間には破顔した。


「ふ、ふふふふ! ごめんなさいね、ちょっと、面白過ぎて……! ふふふ! はあ、もう、そうなのね。あなた、すっかりとあの娘に夢中なのね。引弓いんきゅうでは良い所を見せたくなってしまったのかしら?」


「……分かりませんが、直前に美玉に施術を受けてから、体に力が満ちていて、制御出来なかったんです。普通に射ったつもりでしたが命中してしまった」


 宇航の言葉に、朱美人はぴたりと笑いを止めた。目じりに溜まった涙を拭うと、真剣な顔になって向き合う。


「その施術、あなたの中から蜻蛉を引き出すのを見たという者が居たけれど、しんかしら」


「はい。あれは、運命の番になる乙女が出すという、特別な蜻蛉に他なりません」


「まあ! じゃあもう、どちらにせよあなた達は、運命を共にするほかないということね。なら、そのつもりで私も動きますからね」


「それなのですが、我儘ではありますが、少し待っていただけないでしょうか。彼女が望んでいないのなら、運命の番などと縛っては哀れです。貴女でしたらそっと逃がすこともできましょう」


「あら、彼女は陛下の治療にあたっている女官よ。勝手に逃がすなど出来ないわ。陛下が倒れでもしたら、あの女狐と子狐が位を奪いに動くでしょうから」


「それでも、どうしてもお願いするときが来たら、対応してくださるはずです」


 宇航ユーハン皇子が、無言で膝を折ろうと動く。

 そこを、朱美人は手の動きのみで制した。


「おやめなさい、そうそう簡単に膝を折るものではないわ。……実はね、私の優秀な女官が、彼女の心はすでに確かめていてよ。あなたと運命を共にする気があるそうよ」


「え、それは」


「ふふ、心に秘めておきなさい。それにしても、先走って確認するなんてどういうことかしらね。ヤン女官にいなと言われたら、勝手に逃がすつもりでもあったのかしら」


 ちょっと気持ちを入れすぎよねえ。と困ってもいない様子でつぶやく朱美人だ。

 

「さて、これからその明明がくるわ」


「これから夜ですが」


「ええ、陛下のお渡りの際に、雑用として控えさせようと思ってね。睦言を聞かせられるのは信頼のおける者だけ。では、私はこれから支度がありますから」


 そう言って立ち上がると、後ろを向きかけてはたと立ち止まる。


「ところで宇航ユーハンヤン女官と番になったのは、祭礼のとき? もしかしてそれ以前では無いの?」


 すう、と目を細めて見つめられて宇航皇子は無言で背を伸ばす。


「龍に飲まれたあなたを連れてきた武官というのは、ヤンという姓だったわね」


「……それは……」


「初めからつがいであったなら、あの娘に言ってしまえばいいものを。余程大事にしたいと見えるわね。若い人の恋って美しいわねえ」


 ほほほ、とチュ美人が笑った。


「……私が気付く程度のこと、ホア貴人もやがて気づくでしょう。そのつもりで動きなさい」


 朱美人の言葉に、宇航ユーハン皇子は黙って礼を返した。


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