第12話 引弓(いんきゅう)の儀にて宇航皇子が矢を放つこと
混乱のなか、顔を隠すように大仰に礼をする宮女。彼女を視界に収めた明明は、より人目のない場所へと移動した。
「宮女の恰好などされているものだから、驚きました。
「緊急のお言付けと察しているでしょう? 明明」
そっと顔を上げたのは、朱美人付きの耳が悪いことにされている侍女だった。
「宇航皇子の急変を収めに虫の女が向かったとのこと。もし女が生きて帰り、皇子が無事に弓を射たとしたら。
「はい、承知いたしました」
早口に要件を伝えられ、明明も端的に返事を返す。
侍女が早足に去って行くのを見送りながら、明明は深くため息をついた。
「美玉って本当に、世話が焼けるわ。……巻き込んでしまうかもしれないとは、思っていたけれど…………」
そう呟き、浮かない表情のまましばし立ち尽くす明明だった。
* * *
戻らなければ、と立ち上がった美玉の視界の端に入るものがある。
拾ってみると、上等な布であった。例の包みに使われていた
皇子が落としていったのだろうとも。
――そういえば、何が包まれていたのかしら?
侍女から包みを受け取った後、宇航皇子の容態は豹変した。
心が乱れれば龍は暴れやすくなる。何か皇子の心を乱すきっかけとなったものが、包まれていたのかもしれない。
そもそもこれは、元は何の布だろう。大きさは半端であるし、端もほつれて裁ち方も荒い。薄いので、本来は包みに使う布でもなさそうだ。
そんなことを思いながら、布を裏表と返しながら目を凝らしてみると微かな痕跡を見つけた。
埃のようにも見えたそれは、灰色の羽毛だった。
「鳥の羽根が包まれていたのかしら? でも落ちてからついたものかもしれないし……これだけじゃ何も分からないわね」
呟きながら指の先ほどの大きさの羽毛を睨んでいると、ふと頭上近くを鳥の影がよぎった。反射的に布を手の中に握りこんで見上げる。
飛んで行ったのは、アオシギだった。宮城内に設けられた池にいるらしく、ときおり後宮にも迷い込んでくるのだ。
こんなに頭上近くを飛ぶとは、人に慣れすぎるのも考えものだ。と手元に視線を戻すと、先ほどとは別の角度から眺めることになった羽毛の色が変わっていた。
灰色から青へと。
慌てて手を動かして羽毛の角度を変えてみる。陽光のあたった羽根は青から赤、緑へと色を変えていく。見間違えようもない。
「
手が震え、その震えを抑えるために両手で絹布を握りしめる。
この中に包まれていたのは、おそらくは命のかけらだ。
――皇子はきっと、抜けた羽根を見せられたんだわ。
そこで宇航皇子が
「許せないわ。
絹布を抱きしめ、どこに向けたら良いのか分からない怒りに身を震わせる。
怒りの発作に苦しむ皇子は、この何倍もの息苦しさを抱えているのだろう。そう思うと、皇子に包みを渡した者の悪意がますます恨めしくなる。
――どうして、
つう、と涙が頬を伝った。そのときだ。
「探したわよ! 皇子と一緒に戻るかと思ったのに、何をしているの? もうじき
振り向くと明明が肩をいからせて立っていた。
探したというのは本当らしく、滅多に焦ることのない彼女が珍しく息を切らしている。
「何というわけでも無いわ。ちょっと休んでいただけよ」
襟の中に絹布を隠しながら言うと、明明は大股に近づいてきた。
「今、何か仕舞ったでしょう? 落とし物?」
「え、ええ、そのようなものよ」
「それならばきちんと届けなくてはいけないわ。高貴な方の物なら、盗んだとされて
「あ、ちょっと!」
むんずと襟を掴まれ、探られる。
絹布を掴み出した明明は、はてと首を傾げた。
「
ひらひらと振られた布から、羽毛が落ちる。
腰をかがめ、慌ててそれを受け止めると、頭上から無遠慮な視線がよこされた。
「これ、一体なあに?」
笑顔のまま圧をかけられ、美玉は説明せざるを得なかった。
包みを渡した侍女のこと、直後に皇子の龍が暴れ出したこと、皇子の鳥のこと。
聞きながら、明明は難しい顔をして考え込んでいた。
そして、少しの間のあと、「これは皇子に返すまで誰にも見られないようになさい」と布を返してくれたのだった。
「皇子に近づくということは、皇子付きの侍女かしら。顔は覚えていないのよね? 侍女が包みを手渡すのをあなたが見たと知っているのは、私だけ?」
少し着崩れていた美玉の襟元を直しながら、明明が問う。
「遠目だったから顔は見えなかったわ。私がその様子を見たとき、隣にはあなたが居ただけ」
「なら良いわ。あなたが勘付いていると知られれば、首謀者に消されるかもしれないわよ」
「そんな
「違うわよ! 大暑の祭礼は帝がとりおこなう祭礼よ。そこで騒動を起こそうとしただなんて許されないの。露見を防ぐためなら女官の一人くらい消すでしょう。侍女も、自分が何を託されているかも知らずに使われたのでしょう。可哀想だけど近いうちに口封じされるでしょうね」
とにかく布の件は口外しないことね、と、無理に聞き出した張本人である明明が言った。
分からないことは沢山あるが、あまりにもありすぎて黙るしかない。
――
自分に呆れはじめたところで、明明がここに来た理由を思い出した。
「そういえば、
「ああ! そうよ、早くいかないと! 皇子の勇ましいお姿、見たいでしょ!」
「え、ちょっと! 引弓って何よ!」
腕を取られ、引きずるように幕の表へと連れて行かれる。
「両皇子が弓を引くのよ。見逃さないようにしないと」
「ああ、牛を射るというやつね。なんだか残酷そうで嫌だわ」
「しっ! 陛下の執り行う祭礼にそんなこと言ってはダメよ」
たしなめられて口を
柵の中、には牛一頭。
綱を握る三人の宦官は、綱を長く伸ばして柵の外にいる。
そして帝の座る壇を背に、二人の皇子が弓に矢をつがえて構えていた。
濃い緑の上着と淡い緑の上着。二人が並ぶと余計に
密かに口を尖らせて、両皇子の構えを見つめる。
贔屓目かもしれないが、と自分に前置きしつつも、宇航皇子の構えは空燕皇子に比べて安定して美しく映る。
しかし、周りの女官がひそみ笑いと共に話す内容は違った。
「西の皇子が弓を射られるのを見るのは初めてだわ」
「ずっと表舞台に出るのを控えられていたものね」
「お二人が揃うと美しいわ」
「でもきっと東の皇子の方が弓が達者よ」
「それはそうよ、だって東の皇子ですもの」
「見て、空燕皇子の堂々としたこと」
あきらかに宇航皇子を軽んじている言いぐさに、美玉は密かに頬をふくらませる。
つい横目で彼女たちを睨んでいると、隣の明明に脇腹をつつかれた。
「ほら、ぼうっとしてないの。始まるわよ」
「あ、そうだったわ」
言われて皇子たちの方へと視線を戻すと、今まさに空燕皇子が一本目の矢を放ったところだった。
放物線を描いた矢は、牛の横腹に当たった。薬で大人しくなっていた牛だが、さすがに身をよじらせる。全身から汗が流れ、固い腹を伝っていく。どろりとしていた目が充血していくのが見えた。
美玉が顔をしかめていると、二本目の矢が放たれた。
今度も
苦し気に頭をふる牛は、しきりに鼻から息を漏らす。それはこちらにまで届くのではないかと思うほど激しく、ぶーふ、ぶーふという音が耳障りだ。
その間にも牛の苦しみは増すようで、目を覆いたくなった。
「おかしいわね、なんだか空燕皇子は弓の腕が落ちているみたい。手の怪我はもう治っているでしょうに。わざとらしく包帯など巻いているけど」
フン、と明明が鼻を鳴らすが、美玉としては牛が気になってそれどころではない。
「ねえ、あの牛が倒れるまで続けるの? 見ていて苦しいわ」
「別に仕留める必要はないのよ。ちゃんと介錯役がいるの。見てごらんなさい」
明明が指さす方に目をやると、柄の長い
こちらからは
命令があれば、すぐさま牛の首をかき切れるというような。
ぞっとしながら宇航皇子に目をやると、まだ弓を引き絞っている。
慎重に狙いを定めている表情が凛々しくて見惚れそうだ。
「西の皇子はまだ一本も射れないのね」
「自信がないのよ。初めてでいらっしゃるから」
「当たらないのではないかしら」
女官たちの言葉に反発したくなったときだ。
二本の矢が同時に放たれた。
一本は空燕皇子。もう一本は宇航皇子によるものだ。
空燕皇子の矢は牛の足元の地面に刺さった。
宇航皇子の矢は、眉間へと命中した。
牛がゆっくりと倒れ、束の間、あたりは静寂に包まれる。
とまどうような空気のなか、檀上から声が響いた。
「見事だ、
皇帝陛下の言葉だった。
途端にさざ波のようなざわめきが人々の間に伝わっていく。その間を縫って、宇航皇子は壇の下へと進んだ。
皇子が膝をつき、組んだ両手を前に出して
「勿体ないお言葉、
「無粋な
「全て陛下の御威光あってのことでございます」
宇航の言葉に、皇帝は「うむ」と満足気な声を返した。
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