第11話 蜻蛉が臀呫(となめ)を作るとき

ヤン女官! こちらです!」


 広場の外周を駆けてたどり着いた先。複数の宦官かんがんたちによって幕の後ろに下げられた皇子がいた。その手の甲にはすでに鱗が見えている。

 きものに土がつくのも構わず、地面の上にうずくまり全身で荒く呼吸をしていた。

 ふと、彼の手に絹布けんぷが握られているのが目に入る。


 ――あれは、先ほど手渡されていた包みに使われていた布かしら。


 遠目だったので確かではないが、色と、状況から言ってそうだろう。 

 思わず皇子のそばへと駆け寄る。

 普段走ることなどない体だ。脚をもつれさせながら近づき、崩れるようにして座ることになった。

 

「近づいては危険です。離れたところで処置を」


「結構よ! 皇子にお聞きしたいことが、あ……」


 制止の声に反論しようとしたが、その言葉は唐突に奪われた。

 宇航ユーハン皇子が跳ねるようにして起き上がったかと思うと、かたわらに座った美玉の腕を引き倒したのだ。

 そのまま腕を押さえ込まれ、おおい被さるように乗られる。


 背中に尖った石と乾いた土の感触がある。ずりり、とこすれて衣が擦れる。

 目の前には赫然かくぜんたる陽光を背にした皇子の影があった。

 表情はうかがい知れないが、爬虫類のような瞳孔どうこうを持つ金色の瞳だけが影のなかで異様な光を放っている。

 乱れた髪は美玉メイユーの頬にまで垂れ、上からかかる荒い息とともに汗の匂いが漂ってきた。

 

 喧噪けんそうはどこか遠く、己のこめかみを打つ脈動と、皇子の荒い息遣いばかりが大きく響く。


「ユーハ……」


美玉メイユー。おレから離レろ」


 離れろ、と言われても。

 いつの間にか押さえつけられた両の手首が、ミシミシと音を立てる。

 痛みに顔をよじると、落とされた絹布が目に入った。

 苦しい。が、不思議と恐怖は無い。

 あったのは悲しみだ。皇子から流れ込む感情に同調している。怒りでも憎しみでもなく、たけるほどの悲しみに。

 

「おマエをまタ、傷つけル」


 手首をつかむ手はさらに力強さを増していく。

 無遠慮に顔を寄せられたかと思うと、首筋に唇を寄せられ……。噛まれる、と本能的に察した。

 薄い皮膚にあてられた歯が、人のものとは思えぬほど尖っていた。


 横目で見ると、皇子の顔はもはや全面をうろこで覆われていた。さらに、ひたいには二つの小さな突起が生まれている。

 龍に飲まれかけているのは明白だった。


 龍に完全に飲まれると、どうなるか。

 龍になるわけではないが、人のままでも居られない。異形の化け物となってしまう、と聞いている。理性も失い、ただ苦しみのままに人を害するそうだ。

 よって完全に龍に乗っ取られてしまう前に、人によって討ち取られるのである。


 騒ぎは激しくなり、周りには警備の者たちが槍や刀をたずさえて集まり始める。

 そしてその先頭には、太刀たちを腰にさげたきらきらしい皇子――空燕コンイェンが居た。濃い緑の上着を羽織り、右手には包帯が巻かれている。

 年長である宇航と同系のうえに濃い色を羽織るのは、優位を示したいからだろうか。襲われてからというもの、東の対の往診には出向いていなかったので久しぶりに顔を合わせる。

 虫唾むしずが走る思いがして、つい睨みつけてしまった。

 

 そんな美玉を見下ろして、空燕皇子は口の端だけで笑った。


「ああなんてことでしょう義兄上あにうえ。悲しいですが、せめて弟の手で介錯かいしゃくして差し上げましょうか」


 彼は、わざとらしく言って太刀を抜く。

 陽を受けた刃がぎらりと光った。


「……! 皆さま、大丈夫です! 宇航ユーハン皇子は少し発作を起こされただけ! 私が鎮めますので!」


 宇航皇子に組み敷かれながらも、必死で声を出す。

 だが周囲の者たちは、遠巻きにしてこちらに刃を向けるのみだ。

 

「無駄だよ。君の力がいかに強かろうとも、この状態まで進んだら戻れない。俺も、他の者も、今まで何人も見てきたんだ。処分される血族をね」


 あえて焦らすような足取りで、空燕コンイェン皇子が近づいてくる。

 ふらふらと揺らめく切っ先がさかんに光を反射する。早く血をれというように。

 一方で首筋に寄せられた皇子の口からは、荒い息がたえず漏れている。

 歯は皮膚の表面に触れたままだが、噛みつかれてはいない。


 し掛かる皇子の体が震えているのが分かる。

 皇子の顎から落ちた汗が、喉元に垂れた。雫はそのまま美玉の胸元を伝い、遠慮がちにその跡を冷やしていく。

 

 ――こらえておいでだわ。

 

 身の内の龍と闘い、耐えている。その様子を見て美玉の心は決まった。

 

「おレを、つき飛ばセ。まダ間にアう」


「嫌です」


 きっぱりと言い切って、皇子の鱗だらけの横顔に頬を寄せる。

 

「……私の仕事は、蜻蛉とんぼによって龍を抑えること。苦しみを除くこと。大丈夫です。身を任せて下さい。楽に……楽になさって下さい」


「離れなよ、虫の女。それとも、一緒に串刺しにされたいのかな?」

 

 頭上から空燕の声が響くが、もはや気にならない。


「蜻蛉は、体のどこからでも出るのですよ。腕が使えなかろうとも、関係ありません」


 そう言うやいなや、宇航と美玉の体の間から大量の蜻蛉が飛び立った。

 木龍の怒の心を鎮めるための、悲の心から生まれた白琥珀しろこはく色の蜻蛉たちが宇航を包む。

 背中に、足に、腕に、手に全身に停まり、同化していく。


「ぐ、ぅ……」


 癒やしとなるはずの術だが、宇航皇子は苦しみを深くする。

 美玉の腕を解放するやいなや、頭を抱えて地面を転がる。鋭い爪を生やした指の隙間から、額の突起が伸びていく。


 これは、つのだ。

 この角を美玉は見たことがある。

 小さな頃、まだ家に閉じ込められる前。初めて蜻蛉を出したときのこと。


 体の中を景色が突き抜けていく。


 ――あの時の男の子、だわ。


 半ば人の形を失っていた男の子。

 息の絶えそうな彼を抱きしめて、彼の心に同調したときの痺れるような心地。

 そのときに初めて飛び立った蜻蛉たちの美しさ。

 つがいとなって、輪を作って飛んでいった互いの蜻蛉。

 全部、全部思い出した。


 ――宇航皇子は……私が助けた、龍の男の子……?


 這いずって、彼の元に行く。

 震える体を抱きしめようと手を伸ばすが、そこに太刀の切っ先が割り込んできた。

 

「そんなものでは足りないよ。義兄上あにうえは一度、今みたいに正気を失ったことがある。蜻蛉憑きの子供をいくら集めてももう治らなかった」


「でもそのときは無事にはずですよ」


 目のまえに刃をつきつけられても、美玉の瞳は揺らがなかった。

 

「……っ! 帰る? 何を言っているのかなあ。ねえ、虫の女、君、何を知っている……?」

 

 一瞬、空燕がひるむ。

 

「貴方がご存知のとおりのことです。思い出したんです。そして、そのとき初めてだした蜻蛉が――」


 すう、と目を細めると、手を差し出して刃を掴む。

 熱をもった鋭い痛みが手のひらに走るが、顔を歪める代わりに不適に笑ってみせる。

 動けなくなっている空燕コンイェンの、薄青色の目を正面から見据える。そして、言い放った。

 

「こちらです」


 と。


 その言葉を合図に、美玉のそでからえりからすそから、桃琥珀ももこはく色の蜻蛉たちが一斉いっせいに飛び立つ。

 無数の蜻蛉が無軌道に飛び回り、あたりは桃色のもやに包まれたようになった。


「チィ、またこの蜻蛉か」


「ええ、この蜻蛉です。私が初めて皇子に出会った日に生み出した蜻蛉。私の心から生まれた一番醜く一番愛しい蜻蛉たち。……さあ、私の愛し子たちよ、龍の苦しみとむつみなさい。臀呫となめの如く、果てもなく」

 

 言葉は自然と体の内から湧いてきた。

 詠唱を合図に、桃琥珀の蜻蛉は雪崩なだれをうって宇航皇子の背中に取りついた。


 つねであればそのまま背中に溶け込んでいく蜻蛉たちが、体を丸めて尾を差し込む。すると、桃琥珀色の蜻蛉たちの尾に釣り上げられて皇子の背から引き出される頭がある。

 木龍の司る怒の心から生まれた、青琥珀あおこはく色の蜻蛉の頭である。

 頭の次には尻尾が突き出てくる。いつもは脚を下にして生まれてくる蜻蛉が、仰向けに生まれてきている。


「な、馬鹿な! 龍を飼う皇族の魂には蜻蛉は住めないはずだろう!?」


 空燕皇子が驚きの声を上げる。周囲の者たちは、静まりかえっていた。


「いいえ、心ある限り蜻蛉は生まれます。ただ、皇族の場合は生まれてすぐに龍が食ってしまうのでしょう。桃琥珀の蜻蛉が尾を差し込めば、食われる前に蜻蛉を釣り上げることが出来るというわけです」


 淡々と告げる。

 頭のなかは冷えていて、しかし心は熱くたかぶっていた。

 目のまえで、皇子の背から蜻蛉が引きずり出されていく。


 桃琥珀色の蜻蛉は突き出てきた尾にかぶりつき、二匹の蜻蛉は輪の形を描く。

 ぬるり、と引き上げられた青琥珀色の蜻蛉は、桃琥珀色の蜻蛉と互いの尾を噛み合ったまま空へと飛び立った。


 輪となった蜻蛉たちが、あたりを埋め尽くすように飛び立つ。

 

 臀呫となめ……蜻蛉の雌雄が輪となって交尾を行う形であった。

 一面の蜻蛉の輪。

 輪。

 輪。


 初めて蜻蛉を出した日にも見た光景だ。ぼんやりと見上げながら、遠き日のことを思う。

 ……そして、龍を宿す皇子に添う乙女が出すという『特別な蜻蛉』の意味をはっきりと覚った。理屈でなく、心が囁くのだ。

 乙女の出す蜻蛉が特別だというだけではない。龍を宿すものが本来生めぬはずの蜻蛉を引き出してやる。それがきっと『特別な蜻蛉』の正体なのだと。


 ――初めて出会ったあのときから、私はずっと皇子のつがいだったのだわ。

 

 圧倒されたのか、空燕コンイェンは太刀を構えたまま固まっている。

 美玉メイユーは喉元につきつけられた刃を離すと、手を振って血をはらった。

 目の前で、宇航ユーハン皇子が膝を立てて体を起こしていく。髪は乱れているものの、顔色は戻り、息は整っている。

 瞳に浮かんだ爬虫類の瞳孔もなくなり、穏やかな色に戻っていた。


メイ……ユー……俺は」


 そっと手が伸ばされる。鱗はすっかり消えていた。

 

「っ! 正気に戻られたのですね!」


 転げるようにして皇子の胸にすがりつく。と、彼は美玉の手をとって頬に寄せた。

 血が付くのも構わず、皇子は愛しげに手のひらへと何度も頬を擦り付ける。

 眉尻を下げて、何度も何度も。


 蜻蛉の輪が二人の周りをくるくると飛び、徐々に高度を上げていく。最後には全ての蜻蛉は空へと帰って行った。

 

美玉メイユー、手から血が出ているが。……ああ、空燕コンイェンか」


 そう言って顔を上げ、横目で空燕コンイェンの太刀を睨む。

 ひりつくような緊張が走った。

 

「ならばどうするんです?」


「……お前に同じ傷を負わす」


「へえ、俺の右手を駄目にしようって言うんですね? 祭礼だというのに?」

 

 そう言うと彼は太刀を持ち替え、わざとらしく包帯を巻かれた右手をひらひらとさせる。

 

 ――怪我の件を自分の都合の良いようにかたるつもりね。


 瞬時に察した美玉は、宇航ユーハンの頬から手を離すと周囲の者へと向き直った。これ以上彼に喋らせるのは得策ではない。

 美玉は膝をつき、両手を組んで頭をさげ、礼の形をつくる。

 礼の相手は、空燕皇子だ。

 

宇航ユーハン皇子には、私の手の傷が私自身の過失によるものだとご説明をいたします。私が誤って刃に触れたばかりに、申し訳ございません」


「フン、こざかしいね」


 空燕がつまらなさそうに吐き捨てる。

 それに構わず再び礼をしてから、顔をあげて、遠巻きに様子を見守る群衆へと目を向けた。


「皆さまも、お騒がせいたしました。皇子の容態は落ち着かれております。早く祭礼に戻るのが吉かと存じます」


 きっぱりと告げ、一人一人と目を見合わせるように顔を巡らせていく。

 人々は美玉から目をそらしつつ、しばらく立ち去り難そうにしていた。が、空燕皇子が踵を返すと、それに付き従うように去って行った。




 

美玉メイユー、俺はよく覚えていないのだが、手は本当に何ともないのか? 俺は、俺はどうして助かった? 恐ろしい目には合わなかったか?」


 あらかた人が去った後、矢継ぎ早に質問をされる。

 美玉はというと、張り詰めていた気持ちが緩み全身が重い。体を起こしているのも辛いほどだが、それを表に出すことは出来なかった。これ以上、皇子を不安にさせたくない。


 皇子の頬を汚した己の血の跡を、袖で軽くぬぐう。

 

「まだ儀式が残っておりますから、後でゆっくりお話ししましょう。私からもお訊ねしたいことがいくつかあります。あの絹の布に何が包まれていたのか、とか。そして……」


「そして、なんだ?」


「いえ、それは後で。さあ、空燕皇子はもう戻っておいでです。牛を射て参りませ」


「しかし……」


「行ってください。東の皇子に弱みを見せてはなりません」

 

 彼女の言葉に、皇子は名残惜しげに立ち上がる。

 その背中を見送ると、美玉は蜻蛉の飛んで行った空を見上げた。

 

「輪になった蜻蛉を見ても驚かなかった理由。私の勘違いでなければ、皇子はずっと前から私をご存知だったのでしょう? ……初めて会ったあのとき、私たちの蜻蛉はつがったのだと、分かっていたのでしょう? 龍の男の子……宇航様」


 ひとりごちて眩しさに目を閉じる。

 瞼のうらに、対になった蜻蛉が描いた輪の残像が映った。


 ――それならば何故、私にそれを教えて下さらなかったのかしら。


 皇子の心をはかりかねて、美玉は我知らず溜息ためいきを漏らした。


 

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