第10話 大暑の祭礼にて、皇子の様子を見守ること
中庭にいくつも
ただ、
龍が暴れたときのために控えている
その下には
続いて
それぞれの椅子の前には食事を供するための卓が置かれ、その間をそれぞれの貴人付きの侍女が優雅に、しかし止まることなく歩き続けていた。
中庭の中心には円形の柵が作られていた。
柵の中では、陰気な顔をした三人の宦官が、牛の首に繋いだ綱を持って立っている。
毛艶もよく体格も大きな牛であるが、人の多い場所に興奮することもなく、ぼんやりと立ち尽くしているのが不思議だ。今にも座り込みそうなほどなのだ。
「あの牛、
庭の周囲に張られた幕の後ろに控えていた美玉は、その幕の隙間から牛の様子をのぞき見していた。
隣でだらしなく手で風を送っている
「大事な儀式のための牛よ。病のわけないでしょ」
「でも大人しすぎるようだけれど」
「鎮静のための薬でも使っているのでしょう。毎年あんなものよ。じゃないと弓を射られて大暴れしてしまうでしょう」
「ふうん」
まだ朝は早いが、日差しは肌を突き刺すほどの強さになってきている。
遠くに見る牛は
「そんなことより見て!
真っ白な
いつもは垂らしたままの長髪をまとめ、冠を被ったその下の顔は、柳を思わせる繊細な美しさだ。
「ふふ、顔が赤くてよ美玉」
ぽうっと見惚れているのをそう指摘され、慌てて首を振った。
「これは暑くて顔が火照っただけよ! 大体、あなたは毎年見ているのではなくて?」
「それがそうでも無いのよ。宇航皇子は毎年体調が優れず欠席されていたものだから、貴重なお姿よ」
なるほど、そういえばそうだった。
「御覧なさいよ、華貴人のお顔。不機嫌そうでしょう?」
言われて目をやれば、侍女に扇で扇がせながら冷たい目で皇子たちを見据える華貴人が居た。
「暑さで不機嫌というわけではなくて?」
「どうかしらねえ。ま、東の対での
そっと耳打ちされて、
思い出さないようにしていた恐ろしい出来事が記憶に蘇ってきたのだ。
震えに気づいた
「大丈夫よ、宇航皇子が守って下さるわ。あの日だってそうだったじゃない」
なだめるように、彼女は言った。
* * *
時は少し戻り、
二人は
くったりと横たわる
二人の女官を脇に、打撲痕を冷やしながら宇航は語った。
宇航皇子をしても空燕の凶行のわけは分からないが、
「暍病の際は、宇航皇子に助けてもらったのだと美玉から聞きましたけれど」
明明の問いに、皇子はゆったりと首を振った。
「美玉は東の対の近くで倒れた。その際にあいつを抱えていたのは空燕だ」
「え……そうだったのですか?」
気を失う直前のことを思い出しながら、美玉が問う。
あのとき、抱かれた腕が男性であることと、上等な絹の衣であったことから、宇航皇子だとばかり思い込んでいた。
「ああ。あいつは抱えたお前に酒を口移ししようとしていた。それを見たら頭に血が上ってな、強引に奪い返した。それが何か奴の心を煽ったのだろうか。奴は昔から俺への
「お酒を口移しで? それは暍病に適した処置とは言えないでしょうが……水に換えて同じことをなさった方はおりましたね」
「頭に血が上っていたと言っただろう。許せ。俺たちに出されているのは恐らく強い薬だ、倒れたお前に飲ませようなど信じられない」
ふいと目をそらしながら皇子が答えた。口もとを隠すように腕を持っていく仕草や、腕の向こうに見える
思わず
薬、といえば。
ふと
「……そういえば、かの皇子の薬。宇航皇子とは違います。匂いが全く違いますもの」
「そうなのか? よく気づくな。鼻がいいのか記憶力がいいのか」
「え、と、それはですね」
薬湯に嫉妬してよく記憶しておりましたので。など返せるわけがない。
言い淀む美玉に、皇子は不思議そうに問いを重ねてくる。
「どうした?」
「別にいいではないですか」
「なぜ急に隠すのだ? もしや、
ぐいぐいと迫るように問われては、告白せざる負えない。
「わ、私、皇子の薬湯の匂いを恨めしく覚えておりましたから……その……薬があれば私が不要になるのだなと考えると、何度も思い出してしまうといいますか……」
「あ、うん、そうか……」
一瞬ぽかん、とした皇子は、次第に口元をゆるませた。
「そうか、うむ。はは、そうかそうか」
かみしめるように独り言まで言い出す始末。美玉は頬を熱くして、そんな皇子を
「聞き出しておいてにやにやしないで下さいませ!」
「あー、こほん。こほん。失礼いたしました、なんだか
わざとらしく咳払いをした
「話を戻させていただきますね。とにかく、
「うむ。……なにか『虫の女』に固執する理由が出来たのかもしれない。特別な蜻蛉がどうのと
特別な蜻蛉。
その言葉で空燕皇子の恐ろしい目と声が蘇り、美玉は全身に寒気が走るのを感じた。
同時に、首を絞められながら言われたことを思い出す。思い出したくなどなかったが。
「あの、
彼女の言葉に、皇子が眉をぴくりと動かした。
腹の打撲を冷やすための手巾が強く握りしめられ、手の甲に太い血管が浮いた。
「……『運命の番』の伝承を信じているというのことか……。しかしそれならばもっと早急に美玉に近づいて良いはず。今になって焦りだした理由が分からぬ」
一時、曖昧な沈黙の間があった。
それを破ったのは、いつになく冷静な
「不敬を承知で申し上げます。美玉の日々の施術で対処はしておりますが、陛下の容態は悪くなっております。空燕皇子は次の皇帝の位を狙っているのではないかと愚考いたします」
「いや、空燕は最有力候補だ。順当にいけば、あいつが次期。焦る理由が無い」
皇子の言葉に、明明はふと目を伏せる。
演技がかった様子で口元を袖で隠し、いかにも言いにくそうに言ったのだ。
「ありますわ。いまだ生まれぬ土龍の御子の問題をお考え下さい」
「ああ、あと一人
「その土龍の御子が生まれる前に、陛下が亡くなったとしたら? 二人いる木龍も皇子のどちらかは、本当は土龍の皇子ではないかと噂がたつかもしれません。二皇子派に分かれ、泥沼の争いが生まれるのは必須でしょう。そのとき、片方の皇子が運命の番を得たらどうでしょう? 始皇帝と同様、陰陽の調和を体現する存在として担がれるのでは?」
と。
* * *
ドン、ドン、という低い太鼓の音で美玉は我に返った。
晴天の下、いつの間にか
だが牛は相変わらず濁った眼のまま立ち尽くしている。
――健康な雄牛をあれほどにさせる薬とは、どのようなものなのかしら。
酒が配られたようで、貴妃、皇子、皇女たちが盃に口をつけている。
打楽器の響きと火の熱さ、血の予感に満ちた空気にあてられてか、皆どこか浮かれた様子でいた。
常と変わらないのは
そのように観察していたときである。
一人の侍女が皇子に近づき、布で包まれた何か小さなものを手渡した。酌をしながら、あくまでさり気ない動きだったので、注視していなければ気付けないだろう。
――あれは、何?
包みを開く皇子を良く見ようと目を細める。
と、その刹那、皇子の顔色がさあっと赤く変わった。
皇子が何事かを叫んで立ち上がると、その勢いで卓が倒れ酒器が落ちる。
叫び声は怒声から獣じみた唸り声に変わり、苦しむ皇子の頭から冠が落ちる。
髪がほどけ、長髪を垂らす皇子の瞳は、遠目に見ても
途端に宇航皇子の席のまわりは大変な騒動となった。
「いけない! 私、行くわ!」
叫ぶなり、幕から飛び出そうとする
すると、その手を強く掴まれた。
「何しに行くつもり?」
「決まっているでしょう。癇の治療よ」
「こんな大勢の前であなたが皇子を助けて、もしその後に皇子が良い矢を放ったらどうなるか。話したはずよ。
「関係ないわ。空燕皇子に襲われた以上、とうに
瞬刻、二人はにらみ合う。剣呑な空気を払ったのは、美玉を探す女の声だった。
声の方を見ると、
「こんなところにいたの? 宇航皇子が発作をおこされたのよ。はやく行きなさい!」
「はい、只今!」
声を上げ、明明を振りほどく。
視線を背中に感じながらも、振り向かずに皇子の元へと駆け出した。
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