第8話 空燕皇子を訪ねしこと

「一体どうした? 急に泣き出すとは思わなかったぞ」


 司虫しちゅう局の中、美玉メイユーは長椅子に座らされていた。

 その手を握る宇航ユーハン皇子は、床に片膝をついている。


「す、すわって、くださ……ヒクッ」


「うん、うん、分かった。気にするな」


 ひざまずかれているのがやりにくく、椅子を勧めたいのに言葉が上手く紡げない。

 しゃくりあげる喉の動きが止まらないのだ。

 そんな彼女の手を、皇子は優しく撫でてくれる。それがまた切なくさせる。

 そのとき、衝立ついたての向こうから声が掛けられた。

 

「あのう、こちらにお茶をご用意しましたので……ご、ごゆっくり」

 

 明明メイメイだ。

 つくえに茶を置きにきてくれたようで、それだけ告げると素早く去っていく足音が聞こえた。

 

 奴婢ぬひの子らは、宇航皇子が美玉を支えて入ってきたときに明明によって別の部屋に移されている。

 よって、今はしいんとした部屋に二人きりだ。

 

「気を遣わせてしまったようだな」


「…………」


 皇子の言葉にも、肩を震わせて無言で居ることしかできない。口を開けば醜い気持ちが漏れてしまいそうだった。

 

「なぜ泣いている? 俺のせいなのか?」

 

 そう言って、皇子は美玉の手を持ったまま隣に座ってくれた。

 膝をつかれているのも困るが、隣に座られるのもよろしくない。肩に触れる体温で勘違いをしてしまいそうになるのだ。

 いつだって、この皇子はそうやって勘違いさせるような態度で美玉メイユーに接してきたのだった。膝枕をさせたり、口移しで水を飲ませたり……。

 途端、苛立ちの気持ちが鎌首かまくびをもたげてきた。

 

「そうですね。宇航皇子のせいかもしれません。私が醜くなったのは」

 

 突き放すように答えて、さりげなく身を離す。

 

「醜い? お前のどこが醜いんだ?」


「心です。皇子の治療が順調なことを喜べないほど、心が醜くなりました」

 

「順調? 確かにお前の術は良く効くが」

 

 彼女の答えに、皇子は首を傾げる。

 その鈍さに、心がどろりと溶け出していくのを感じた。

 いけない、と思う間もなく、口から言葉がこぼれてしまう。

 

「術ではありません! 薬が効いているではないですか! 蜻蛉とんぼなど……虫の女など不要なのです。それは皇子にとって良いことなんです。龍が暴れていないのに、司虫しちゅうを訪ねることなどありません。龍を抑えられているのだと周りに示す方が皇子のためなんです」


 言葉とともに、全身に鳥肌が立つ。自分自身の感情が気持ち悪くてたまらないのだ。

 蜻蛉をむやみに出さないように、激しい感情を持たないように、そうやって生きてきた美玉にもこの心はぎょしきれない。

 

「しかしあの薬は好きじゃない。頭がぼうっとして、俺が俺でなくなるような気がするんだ。空燕コンイェンがいつも提げている酒……あれは薬を漬け込んだ酒と聞く。俺と同じ処方なら、俺もあいつのように気がおかしくなるんじゃないか?」

 

「それはまあ、薬の副作用であるのかもしれませんけど……それでも体に毒でないなら薬に頼るべきでしょう。東の皇子がそうされているなら余計にそうです。それに、……それに、鳥も宇航様のお心を和ませているんでしょう? 鈴鈴リンリンという…………、ごめんなさい……っ」

 

 宇航に見据えられて美玉は口を袖で押さえた。

 彼の亡き母上からとったという鈴鈴リンリンという名の鳥。鳥にも、鳥に寄せる皇子の心にも全くの罪は無いのだ。鳥にまで嫉妬を向けてしまう自分が嫌で仕方がなかった。

 

「俺の言ったことを聞いていなかったのか? お前の存在全てが俺を支えているし、お前の蜻蛉とんぼが気持ちいい。俺はお前さえあればいい」


 耳に息がかかる。またこうしてこの人は、心を乱そうとする。

 もはや憎らしくさえ感じてくるような甘い振る舞いだ。

 

「期待を持たせないでください。私はどんどんと心をぎょせなくなっています。私の蜻蛉などに頼ってはいけません。そんなことを言っていては……」

 

「いつまでも西の対の皇子ですよ。か?」


 自嘲する皇子の言葉に、美玉は慌てて床に降りる。

 宇航ユーハン皇子の一番言われたくないであろうこと、東の対の空燕コンイェン皇子と比べるようなことを言おうとしてしまった。気が緩んで、口を滑らせてしまったのだ。

 

「も、申し訳ありませ」


 額づこうとする美玉メイユーの、その腕をやわらかく取り、宇航ユーハン皇子は彼女を立たせた。

 そのまま腕をひかれ、胸に抱かれる。


「お前と会えなくなるくらいなら、俺は西の対の皇子でいい。お前が居ればいい」

 

「皇子……」

 

 腕の中に閉じ込められて、自分だけを求められる。

 そんなことに満足していてはいけないと分かっているのに、どうしても腕から抜け出そうという気持ちになれなかった。


「とにかく、明日は必ず俺を診てくれ。急に薬を出されるようになったと思ったら、今度は頭がはっきりしなくなる。その上やたらと監視が厳しくて飲み残しが許されない。俺には蜻蛉でいい。薬は不要だとあの薬師の娘にも示してやってくれないか」


「わ、かりましたわ」


 皇子の言葉を断りきれず、胸に抱かれたまま頷く美玉だった。



 

 翌日のひるまえのこと。

 その日は皇子と皇女への往診にも明明メイメイが付いてくると言って聞かなかった。


「あなたが来ても何もすることは無いでしょう」


「まあまあ。日陰の多い道を選んだり、あなたが倒れたときに助けたりと、色々と便利だと思うわ。それに、最近の宇航皇子との関係も気になってよ」

 

「後半が目的じゃないの」


「あとは麗しい空燕コンイェン皇子を少しでも近くで拝みたいというのもあるわね」

 

「どこまでも俗っぽいこと」


「生きることとは俗なものよ。私、そのお陰で毎日元気なのだから」


「あなたは少し弱ったくらいがちょうど良いのではないのかしら」

 

 そんな軽口を叩き合いながら二人は後宮内を行く。

 ちなみに今日も、奴婢ぬひの子らの翅捥はねもぎは見逃すことになるだろう。明明はすっかり、奴婢の監視の役目はどうでも良くなったようだ。

 

 二人はいつものごとく皇女の住まう西花さいか宮を訪ったのち、皇子の居る萬樹まんじゅ宮へと向かった。

 空燕コンイェン皇子の住まう東の対の入り口にて、いつものごとく往診の挨拶をする。

 と、つねとは違って女官の物腰は柔らかだった。

 

「どうぞ、お通しするように言われております。こちらへ」


 今までにない対応に驚いて隣を見れば、明明メイメイもおかしな顔をしていた。

 空燕皇子の姿を拝めることを期待していたのだから、もっとはしゃぐべきではないだろうか。


「あなたまで意外そうな顔して、なんなの」


「いえ、だっていつも門前払いだって聞いていたものだから。まさか今日に限って通されるとは思わなくて。私の普段の行いが良いからかしら」


「と言うわりに、難しい顔をしているわね。柄に合わず緊張でもしているのかしら?」


「ま、美玉ってたまに意地悪だわ」


 そんな言い合いをしていたところ、案内の女官が唐突に立ち止まった。


空燕コンイェン様はこちらのお部屋にいらっしゃいます。ここからは、ヤン女官お一人でお入り下さい」


 案内の女官はからくり人形のようにぎこちなく振り向いて言った。抑揚のない声色で。

 

「美玉だけ、ですか?」


「ええ」

 

 有無を言わさぬ返答に、顔を見合わせる二人。

 しかし女官は固まった表情のまま沈黙を守っている。

 どことなく怪しい雰囲気を感じるが、仕方がない。美玉メイユーは腹を決めた。

 

「……かしこまりました」


 そう女官に告げて歩き出す彼女の袖を、くん、と明明が引いた。

 振り向くと、戸惑いの表情を浮かべた明明と目が合う。今までに見たことのない狼狽うろたえようだ。

 どうしたの、と訊ねる前に耳に口を寄せられる。


「どうか気を付けてね」と囁く明明の声はいつになく真剣だった。


 東の対の室内には初めて入る。

 失礼にならぬよう露骨に見回すことはないが、礼をする前の一瞬のうちに目に入った調度類だけでも尊い身分の者が使う部屋と分かる。

 西の対の宇航ユーハン皇子の部屋とて立派ではあるが、明らかにこちらの方が豪奢であった。

 

「来たねえ、虫の女」


 部屋の奥より、浪々と響く声がかけられる。

 見ると、寝台と見間違うほどに大きな長椅子に、空燕コンイェン皇子がくつろいでいた。

 体の左を下に、右を上にして寝そべり、肘をついた左手で頭を支えている。

 漆黒のうねる髪はまとめられぬまま肩に流れ、美玉を見つめる空色の瞳は爛々らんらんと輝いていた。

 床には、朱塗りの瓢箪ひょうたんが無造作に転がされている。

 

「お、往診にうかがいいました、司虫しちゅう女官にございます」


 得体の知れない恐ろしさを覚えつつ、手を組んで深く礼をする。

 床を見つめる美玉の前方で、みしり、と床を鳴らす音がした。


 ぺたり、ぺたり、と裸足の足音が近づいてくる。

 酒のつんとした匂いをまとった空燕コンイェンがこちらにくる。

 距離が縮まるごとに、酒の匂いにわずかに苦い香りが混じっていることに気が付く。


 ――これが、宇航ユーハン皇子と同じ薬という話の? でも……おかしいわ。


 酒に漬け込まれているにしても、匂いが違う。 恨めしく思い返していた、皇子の部屋に漂う薬湯の香りとは似ても似つかないのだ。

 皇子の薬湯はもっと、甘ったるい匂いの奥に草っぽい苦さがあった。それにもっと香りが強かったはずだ。


楊 美玉ヤン メイユー


 美玉が考え事をしているうちに、名を呼ぶ声はすぐそばにまで迫っていた。

 

「きょう、は、往診の」


 なんとか言葉を紡ごうとするが、緊張で舌が動かない。

 刹那、強すぎる力で腰を抱き寄せられた。


「……ッ!」


 息苦しさに顔をゆがめる。その顎を無理に持ち上げられた。

 まつ毛の一本一本まで見えるほど間近で、空燕コンイェン皇子と目を合わせる形になった。

 その瞳は明るい陽が宿ったようなのに、奥底はなんとも深く心が見えない。炎の芯のように暗いのだ。

 美玉はこみあげてきた悲鳴を飲み込んで、目をらした。


「楊 美玉。君、宇航ユーハンなんかやめて俺の女にならない? 特別な蜻蛉とんぼってやつ、君なら出せるんじゃないかと思うんだけど?」


「な、何か、勘違いをなさっておいででは無いですか」


 からからに乾いた喉に詰まりそうな言葉を、なんとか外に出す。


「勘違いなものか。……『運命の番』はを出す乙女。その乙女を得た皇子は、陰陽の調和を体現せし者となる。だから宇航は君に執心するんじゃないのかい?」


 運命の番の話は知っている。明明メイメイに聞いたからだ。

 けれども。

 皇太子の座がほぼ確実である身で、何を焦ることがあるのか分からない。

 宇航皇子が良くしてくれる理由を、利得のためだと断じる傲慢さが気に入らない。

 なにより、運命の番などと言って突然乱暴にされるのは納得がいかない。

 総じて、

 

「何を仰っているのか分かりませんし、分かりたくもありません」


 震える声で告げ、空燕皇子の手から逃れようとする。

 と、顎を持ち上げていた手が、つつ、と首をなぞって下に降りる。

 危険を感知するより先に、喉を押し潰さんばかりの力で首を絞められた。


「ふ、ぐぅ」


 首を掴まれたまま片手で持ち上げられる。息の出来ない美玉は、必死で皇子の腕を掻くことしか出来ない。

 はねがれる前の蜻蛉のようにただ無力だ。

 

「良くないよ、その態度」


「……ぐ、ぅう」


「媚びなよ。媚びなければ、君はここで死ぬことになる」


 空燕コンイェン皇子が手に込める力をさらに強くする。

 その口元が残忍に弧を描いているのを見て、どうしようもない嫌悪感に鳥肌を立てた。

 

「ふぅ、ッ、や。い、や」


 絞り出された言葉を聞き、皇子はニイと目を細めた。


「それなら、死になよ。俺のつがいにならないなら、君は邪魔になるからね」


 美玉メイユーの目の前で小さな光が明滅し始めた。

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