第7話 美玉、己の心を知りしこと

「ねえ、萬樹まんじゅ殿の皇子への施術無しって本当? そのまま書くわよ」

 

 その日のひる過ぎのこと。

 皇子皇女の往診にから戻った美玉メイユーの報告を聞き、明明メイメイが問いを返したのだ。

 

 彼女はいつも美玉に代わって往診の記録を付けてくれている。行った儀式は全て記録に残して報告しなければならないのだ。

 歩き疲れてつくえにうつ伏せになっていた美玉は、頭だけを明明に向けた。


「ええ、書いておいて」


 姿勢そのまま、だらしない声を出す。

 すると明明からの返答はなく、代わりにいぶかしげな視線だけをよこしてきた。

 いつもは聞いたままを書くのみなのに、今日はやけにつっかかる。

 仕方なく、彼女を納得させる説明を加えることにした。

 

「……宇航ユーハン皇子は龍を抑えておいでよ。東のつい空燕コンイェン皇子はいつも通り門前払い」

 

 あまりに疲れていたので、この程度のやりとりも鬱陶しい。

 この疲労感は、またも薬師見習い小鈴シャオリンと鉢合わせてしまったのが理由かもしれない。

 宇航皇子の顔色を診ようとしていたところに、彼女が部屋に入ってきたのだ。薬湯は残さず飲みましたか、と。

 小鈴が居るとどうにもやりにくくて、蜻蛉とんぼの一匹も出さずに帰って来てしまった。


 ――龍に心をおかされるとは、こういった気分なのかしら。いえ、こんなものでは済まないわよね。


 軽々しく思ってはいけないと自分をいましめつつ、今にもうろこが生えそうな心地でいる。

 つくえに頬を載せたまま手の甲を眺めるが、当然だが何も生えてこない。

 なぜだかそれが悔しくて、深い溜息が自然と口をついて出た。


「でも今までは日に一度の往診では足りず、急患としてこちらに運ばれていたのよ。急に落ち着くなんてことあるのかしら?」


 美玉メイユーの態度をものともせず、明明メイメイは問いを重ねてくる。


 これまではすみの香を嗅ぎながら語らうこの時間が好きだったが、今日は彼女のしつこさがわずらわしい。

 加えて、明明には底知れなさを見せられたばかりなのだ。安らいだ気持ちになどなりようがなかった。

 印象に似合わず美しい字を書く手を眺めるのも楽しかったが、今では急に得体が知れなく思えてきて落ち着かない。


「はあ……薬が出るようになったのですって。それが体に合っているのでしょう。尚薬局しょうやくきょくのお陰だわ」

 

「薬? 今まで出していなかったくせに、なんで今さら?」


「知らないわ」


 早くこの時間から解放されたくて、ぶっきらぼうな返しになってしまう。


「もう、不機嫌にならないでよ。私はあなたの湿っぽさを案じているのよ」


 そう言うと、明明メイメイ衝立ついたての向こうの長椅子を見やった。

 

 「皇子と何かあったんじゃない? 誰かに何か言われた?」


 わざとらしくひそめた声で訊ねられて、とうとう美玉の我慢は限界を迎えた。

 バン! とつくえを叩いて立ち上がり、彼女を睨みつける。

 

 「無いわ。……あるわけが無いじゃない。大体、後宮のものは皆陛下のものなのよ」


 自分でも意外なほど、低い声が出た。

 そんな美玉に対峙たいじしても、明明は一瞬目を見開いた程度。動じることも、退くつもりも無いようだ。

 

「あら、下賜かしがあるじゃない」


 などと返してくるのだからたまらない。


「そんなおそれ多いこと考えていないわよ。それにね、何を勘違いしているのか知らないけれど、皇子は龍を抑えたくてここにいらしていただけよ。蜻蛉とんぼが無くとも龍を抑えられるなら、それに越したことはないわ」


「そうかしら……?」


「そうよ、記録に必要なことは全て話したわ。これでおしまい」


 なおも首を傾げる明明を置いて、美玉は部屋を出る。

 一人に、なりたかった。

 

 

 

 と、勢いで司虫しちゅう局を出ても行き先のない美玉である。

 日陰を求めて歩いていると、自然と建物の裏手へと足が及んだ。そこには翅捥はねもぎされた蜻蛉のための塚がある。

 美玉と明明が朝の儀式のために皇帝陛下の住まう殿へと出掛けている間に、奴婢の子たちが翅捥ぎを行ったのだろう。塚の周りには水気を含んだ濃い色の土がおもてに現れていて、つい先ほど埋め直されたばかりと分かる。


 この土も、やがて乾いて他と同じ色になる。何も無かったかのように。

 塚の下にあるのは、こんから生まれた蜻蛉の死骸だ。

 奴婢ぬひの子らの命がむなしく扱われるのを嫌う美玉は、翅捥はねもぎについてあえて目こぼししている。だから塚に新たな死骸が埋められるのは、望むところでもあるのだが……。


 ――蜻蛉が……心を映す蜻蛉が殺されるのは、悲しいものね。


 柔らかな土に触れ、犠牲になった蜻蛉たちに祈りをささげる。

 

 嫉妬の色をした蜻蛉が、乾いた土の下で朽ちていくのを想像する。自分の心も、こうして埋めてしまえればいいのに。いや、埋めるしかないのだ。


 ――やっと分かったわ。私、宇航ユーハン皇子のことが……。

 

 じわり、と涙がにじむのを感じた。そのときだ。

 

「見つけたぞ。中に居ないから無駄に歩き回ってしまった」


 すっかり聞き慣れた声が耳に響いた。


「ッ! 皇子⁉」


 立ち上がり、背後を振り向く。

 そこに立っていたのは心に思い描いていた相手、宇航ユーハン皇子その人だった。

 

「最近冷たいではないか、今日もすぐに下がってしまって。中で茶でも出してくれ」

 

「お加減がよろしそうで、何よりです。薬が合うのですね」


 礼をしたまま答える。声がうわずるのが自分でも分かった。


「うーん。しかし、お前の蜻蛉が一番心地よいがなあ」

 

 言いながら、皇子は大股にこちらに向かってくる。

 礼をする美玉の横をすり抜けた皇子は、彼女の足元に盛られた土を見て小さく首をひねった。

 

「ここで何を……。ああ、蜻蛉を埋めてやっていたのか。優しいな」


「はい。その、塚のことはご内密に……」

 

 そう答えると、頭に大きな手が載せられた。

 手はそのまま輪郭をなぞり、顎へと降りる。

 顎を下から支えるようにされ、顔を上げる。間近に皇子の顔があった。


「分かっている。お前は人にも蜻蛉に優しい。昔からそうだった。だが塚は隠した方がいいぞ」


「昔?」


「昔は、昔だ。とにかくお前は目立っているからな、隙は出来るだけ見せぬようにした方がいい」


 答えにならない返事をして、皇子が美玉の目をじっと見つめる。

 自分が目立っているとしたら、こうして宇航が訪ねてくるのが理由では無いか。と思うけれど、言葉は胸に溜まるばかりだ。


「目が赤いな。蜻蛉のために泣いていたのか?」

 

「蜻蛉のため、と言いますか……」

 

 何と答えたらよいだろう。

 金色の瞳に己の顔がゆがんで映っていた。先ほど自覚したばかりの自分の気持ちに、無理やり向き合わされているような、そんな気がする。

 答えを探しているうちに、胸の奥が切なくなって、視界の端から景色が滲んでいった。

 

「どうした? なぜ泣いている?」


「泣いてなど……」


 顔をらそうにも、顎を掴まれていて動けない。

 こぼれた涙が、つう、と頬を濡らした。

 

 蜻蛉憑きの力が必要でなくなれば、奴婢ぬひの子らの命が使い捨てられることもない。

 美玉が後宮に来た目的は果たされるはずなのだ。

 それなのに。宇航皇子を想う心だけがままならなくて、涙が止まらなかった。

 

 

 * * *


 

 貴妃には位がある。

 最上位である貴人は、東のついに住まう空燕コンイェン皇子の母、華 林杏ホア リンシンが頂いている。

 木龍を宿す皇子は次期皇帝候補。その母である功績からだ。


 では貴人の次の位である美人はというと、もう一人の木龍の皇子、宇航皇子の母が就いているわけではなかった。

 三人の皇女を産み、なお寵愛のあつ朱花霞チュ ホアシャン――朱美人のものである。

 

「お招き感謝する」


 侍女を引き連れた華貴人が、初凪はつなぎ殿を訪っていた。

 

「いいえ、こちらこそ茘枝ライチを頂きましてありがとうございますっ! 宝石よりも貴重ですわ!」

 

 朗らかな声で答えたのは初凪殿のあるじチュ美人だ。

 本来ならば歳に似合わぬはずの明るい桃色を着ているが、いつまでも瑞々みずみずしさを失わない彼女はしっくりと着こなしている。

 明るい緑色の瞳に、桃色がかった薄茶の髪。

 大柄でふっくらとした体つきをしていて、肌の血色はすこぶる良い。いかにも健康そうで、抱けばどれだけ癒やされるだろうかと、陛下のちょうあつい理由も想像に難くない。

 

「まあ、実家から送られてくるからな。陛下へ進呈する分の余りだが」


 対象に長身で細身のホア貴人は、そっけない声でそう答えた。

 

「毎年陛下も楽しみにしていらっしゃいますもの。流石は華貴人ですわ」

 

「陛下と一緒に食べた話までは聞かせなくていいからな」


「ふふ、そうですわね。私、いつも余計なことばかり喋ってしまいますの。華貴人のお心の広さに感謝いたします」


 にこりと微笑む朱美人だが、華貴人は興味なさげに手元の茶に視線を移した。

 

「ふむ、良い香りの茶葉だ。……さて、挨拶は済んだな」

 

 茶器の蓋を開けて香りを楽しむ様子を見せながらも、貴人は左右に素早く目を走らせた。

 

「ふふ、そうですわね。今いる侍女は一人きり。口が堅いのですよ。なにしろ耳が悪いものですから」


「一番口の緩いやつを間諜スパイに出したと聞くが」

 

「あらあ! あの子は人懐こいから、相手を警戒させずに虫の女に近づけるのですわ。虫の女が陛下の治療に侍るなんて許せませんもの! 絶対に何か見つけて追い出してやるんだから」


 ぷう、と頬を膨らませる朱美人を一瞥いちべつして、貴人は茶を卓に戻した。

 香りを嗅ぐだけで、飲む気はないらしい。


「あら、毒見が要るならうちの侍女にさせますわ。彼女は毒見の副作用で耳を悪くしましたのよ。ま、私は貴女ほど薬に詳しくはありませんから、安心して頂きたいところですけれど」


「結構だ。それで? 何か面白いものは掴めたか?」

 

「今のところは見つかりませんの。まあ、明明メイメイをやったお陰で、陛下の元には蜻蛉を入れた篭だけを届けるやり方に変えさせることが出来ましたけど、まだ心配よ。もし虫の女がお手付きになって陛下のお渡りが減ったりしたら、嫉妬で病んでしまうもの!」


「フン、私の前でそれを言うところが貴女らしい」

 

 皮肉げに片方の唇の端を釣り上げて、華貴人が笑う。

 

「あら、だって私は男子を生んでおりませんもの。貴女はもう十分でしょうけど、もっと陛下の情けが欲しいと思うのも道理でしょう? といってもどうにも女の子ばかり生まれる腹なものですから、次に土龍の子を身ごもるとしても女子でしょうねえ……」

 

 そう言って朱美人は、自分の分の茶を一口飲んだ。

 

「呆れた、まだ言っているのか」


「だって、土の龍を宿す皇子も皇女も生まれておりませんもの。五龍は揃うまで子は生まれ続けるはずよ。……にしても、宇航皇子がなんで木龍なのかしら、空燕皇子という立派な木龍の君がいるのにねえ」


 長いまつ毛を瞬かせ、貴人に視線を送りながら朱美人は言葉を続ける。


「ところで、最近あの出来損ないの皇子に尚薬しょうやく局が薬を出すようになったとか。尚薬局に力が及ぶ者といえば後宮では貴女だけ。どうして薬をお出しに?」


 探るように変化した視線を払うように、貴人は鷹揚おうように扇を広げる。


「あの虫の女を警戒する気持ちは同じ。萬樹まんじゅ殿周りをうろつかれたくなくてな。薬で抑えてやればお役御免というわけだ。……さて、話しすぎた。そろそろ戻らねばな。利を同じくする者同士、今後も頼む」

 

「弱みを見つけて、後宮ここから出してしまいたいのですけれどねえ。蜻蛉憑きの娘についての伝承が厄介ですもの。運命のつがいなどと今時誰も信じはしませんけれど」


「……弱みは見つけてやった方がいい。駒として使えぬとなると、虫の女の命が危ういぞ」


 扇の向こうから、黒真珠の瞳を光らせて貴人が言った。

 

「あら、そうなんですの! そういえば宇航皇子は虫の女にご執心みたいですよ、よく訪ねて来ていたとか。これは使えますわよ」

 

 椅子から腰を浮かせて、朱美人が張り切って囁く。

 それを貴人は鬱陶しそうに扇でさえぎった。

 

「そんなこと、間諜スパイを使わずとも分かるではないか。私の耳にも届いておるわ」

 

「あらあ、残念」

 

「フン。また何か情報が入れば教えてくれ。私は空燕コンイェンを動かした。運命の番という御伽噺おとぎばなしも、使いようによっては人心を握る一助となる」

 

「まあ。流石はホア貴人ですわ。何手先までも見通されているみたい」

 

 あくまで朗らかな声のまま、チュ美人がこたえる。

 しかし貴人は無言で扇を閉じると、もはや用はないとばかりに立ち上がり、自分の侍女たちを呼んだのだった。


 

 

 華貴人が立ち去ったのちの部屋の中、優雅に茶を飲む朱美人である。

 そこに、手を付けられなかった茶の器を下げに、耳が悪いとされた侍女が卓に寄っていった。

 

明明メイメイに伝えよ、空燕コンイェンに気を付けるよう。東の対に行くときは必ず付いていくようにと」


 茶の香りに顔をほころばせながら、独り言のように呟く。

 その声も表情も、先ほどとは打って変わって鋭いものに変わっていた。


かしこまりました」


 侍女が深く礼をして御意を示すのを、満足げに眺めて頷く。


茘枝ライチはどういたします?」

 

「私、好きじゃないのよね。あの女の運んできたものはみんな嫌いよ。あなた達で分けなさい」


 朱美人の言葉に、侍女は再び礼をして部屋から下がって行った。


「虫の娘は危なっかしいわ。奴婢ぬひ翅捥はねもぎを許しているのも、いずれ知れるでしょう。ハア……運命の番として宇航ユーハンに添わせれば空燕コンイェンへの対抗となりそうだけれど……あの女狐も狙っているとは憎らしいこと。まあ、いずれにせよ」

 

 一人になった部屋で、美人は小声でひとりごつ。

 

「好きにさせないわよ、華貴人」

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