第7話 美玉、己の心を知りしこと
「ねえ、
その日の
皇子皇女の往診にから戻った
彼女はいつも美玉に代わって往診の記録を付けてくれている。行った儀式は全て記録に残して報告しなければならないのだ。
歩き疲れて
「ええ、書いておいて」
姿勢そのまま、だらしない声を出す。
すると明明からの返答はなく、代わりに
いつもは聞いたままを書くのみなのに、今日はやけにつっかかる。
仕方なく、彼女を納得させる説明を加えることにした。
「……
あまりに疲れていたので、この程度のやりとりも鬱陶しい。
この疲労感は、またも薬師見習い
宇航皇子の顔色を診ようとしていたところに、彼女が部屋に入ってきたのだ。薬湯は残さず飲みましたか、と。
小鈴が居るとどうにもやりにくくて、
――龍に心を
軽々しく思ってはいけないと自分を
なぜだかそれが悔しくて、深い溜息が自然と口をついて出た。
「でも今までは日に一度の往診では足りず、急患としてこちらに運ばれていたのよ。急に落ち着くなんてことあるのかしら?」
これまでは
加えて、明明には底知れなさを見せられたばかりなのだ。安らいだ気持ちになどなりようがなかった。
印象に似合わず美しい字を書く手を眺めるのも楽しかったが、今では急に得体が知れなく思えてきて落ち着かない。
「はあ……薬が出るようになったのですって。それが体に合っているのでしょう。
「薬? 今まで出していなかったくせに、なんで今さら?」
「知らないわ」
早くこの時間から解放されたくて、ぶっきらぼうな返しになってしまう。
「もう、不機嫌にならないでよ。私はあなたの湿っぽさを案じているのよ」
そう言うと、
「皇子と何かあったんじゃない? 誰かに何か言われた?」
わざとらしく
バン! と
「無いわ。……あるわけが無いじゃない。大体、後宮のものは皆陛下のものなのよ」
自分でも意外なほど、低い声が出た。
そんな美玉に
「あら、
などと返してくるのだからたまらない。
「そんな
「そうかしら……?」
「そうよ、記録に必要なことは全て話したわ。これでおしまい」
なおも首を傾げる明明を置いて、美玉は部屋を出る。
一人に、なりたかった。
と、勢いで
日陰を求めて歩いていると、自然と建物の裏手へと足が及んだ。そこには
美玉と明明が朝の儀式のために皇帝陛下の住まう殿へと出掛けている間に、奴婢の子たちが翅捥ぎを行ったのだろう。塚の周りには水気を含んだ濃い色の土がおもてに現れていて、つい先ほど埋め直されたばかりと分かる。
この土も、やがて乾いて他と同じ色になる。何も無かったかのように。
塚の下にあるのは、
――蜻蛉が……心を映す蜻蛉が殺されるのは、悲しいものね。
柔らかな土に触れ、犠牲になった蜻蛉たちに祈りをささげる。
嫉妬の色をした蜻蛉が、乾いた土の下で朽ちていくのを想像する。自分の心も、こうして埋めてしまえればいいのに。
――やっと分かったわ。私、
じわり、と涙がにじむのを感じた。そのときだ。
「見つけたぞ。中に居ないから無駄に歩き回ってしまった」
すっかり聞き慣れた声が耳に響いた。
「ッ! 皇子⁉」
立ち上がり、背後を振り向く。
そこに立っていたのは心に思い描いていた相手、
「最近冷たいではないか、今日もすぐに下がってしまって。中で茶でも出してくれ」
「お加減がよろしそうで、何よりです。薬が合うのですね」
礼をしたまま答える。声がうわずるのが自分でも分かった。
「うーん。しかし、お前の蜻蛉が一番心地よいがなあ」
言いながら、皇子は大股にこちらに向かってくる。
礼をする美玉の横をすり抜けた皇子は、彼女の足元に盛られた土を見て小さく首をひねった。
「ここで何を……。ああ、蜻蛉を埋めてやっていたのか。優しいな」
「はい。その、塚のことはご内密に……」
そう答えると、頭に大きな手が載せられた。
手はそのまま輪郭をなぞり、顎へと降りる。
顎を下から支えるようにされ、顔を上げる。間近に皇子の顔があった。
「分かっている。お前は人にも蜻蛉に優しい。昔からそうだった。だが塚は隠した方がいいぞ」
「昔?」
「昔は、昔だ。とにかくお前は目立っているからな、隙は出来るだけ見せぬようにした方がいい」
答えにならない返事をして、皇子が美玉の目をじっと見つめる。
自分が目立っているとしたら、こうして宇航が訪ねてくるのが理由では無いか。と思うけれど、言葉は胸に溜まるばかりだ。
「目が赤いな。蜻蛉のために泣いていたのか?」
「蜻蛉のため、と言いますか……」
何と答えたらよいだろう。
金色の瞳に己の顔がゆがんで映っていた。先ほど自覚したばかりの自分の気持ちに、無理やり向き合わされているような、そんな気がする。
答えを探しているうちに、胸の奥が切なくなって、視界の端から景色が滲んでいった。
「どうした? なぜ泣いている?」
「泣いてなど……」
顔を
蜻蛉憑きの力が必要でなくなれば、
美玉が後宮に来た目的は果たされるはずなのだ。
それなのに。宇航皇子を想う心だけがままならなくて、涙が止まらなかった。
* * *
貴妃には位がある。
最上位である貴人は、東の
木龍を宿す皇子は次期皇帝候補。その母である功績からだ。
では貴人の次の位である美人はというと、もう一人の木龍の皇子、宇航皇子の母が就いているわけではなかった。
三人の皇女を産み、なお寵愛の
「お招き感謝する」
侍女を引き連れた華貴人が、
「いいえ、こちらこそ
朗らかな声で答えたのは初凪殿の
本来ならば歳に似合わぬはずの明るい桃色を着ているが、いつまでも
明るい緑色の瞳に、桃色がかった薄茶の髪。
大柄でふっくらとした体つきをしていて、肌の血色はすこぶる良い。いかにも健康そうで、抱けばどれだけ癒やされるだろうかと、陛下の
「まあ、実家から送られてくるからな。陛下へ進呈する分の余りだが」
対象に長身で細身の
「毎年陛下も楽しみにしていらっしゃいますもの。流石は華貴人ですわ」
「陛下と一緒に食べた話までは聞かせなくていいからな」
「ふふ、そうですわね。私、いつも余計なことばかり喋ってしまいますの。華貴人のお心の広さに感謝いたします」
にこりと微笑む朱美人だが、華貴人は興味なさげに手元の茶に視線を移した。
「ふむ、良い香りの茶葉だ。……さて、挨拶は済んだな」
茶器の蓋を開けて香りを楽しむ様子を見せながらも、貴人は左右に素早く目を走らせた。
「ふふ、そうですわね。今いる侍女は一人きり。口が堅いのですよ。なにしろ耳が悪いものですから」
「一番口の緩いやつを
「あらあ! あの子は人懐こいから、相手を警戒させずに虫の女に近づけるのですわ。虫の女が陛下の治療に侍るなんて許せませんもの! 絶対に何か見つけて追い出してやるんだから」
ぷう、と頬を膨らませる朱美人を
香りを嗅ぐだけで、飲む気はないらしい。
「あら、毒見が要るならうちの侍女にさせますわ。彼女は毒見の副作用で耳を悪くしましたのよ。ま、私は貴女ほど薬に詳しくはありませんから、安心して頂きたいところですけれど」
「結構だ。それで? 何か面白いものは掴めたか?」
「今のところは見つかりませんの。まあ、
「フン、私の前でそれを言うところが貴女らしい」
皮肉げに片方の唇の端を釣り上げて、華貴人が笑う。
「あら、だって私は男子を生んでおりませんもの。貴女はもう十分でしょうけど、もっと陛下の情けが欲しいと思うのも道理でしょう? といってもどうにも女の子ばかり生まれる腹なものですから、次に土龍の子を身ごもるとしても女子でしょうねえ……」
そう言って朱美人は、自分の分の茶を一口飲んだ。
「呆れた、まだ言っているのか」
「だって、土の龍を宿す皇子も皇女も生まれておりませんもの。五龍は揃うまで子は生まれ続けるはずよ。……にしても、宇航皇子がなんで木龍なのかしら、空燕皇子という立派な木龍の君がいるのにねえ」
長いまつ毛を瞬かせ、貴人に視線を送りながら朱美人は言葉を続ける。
「ところで、最近あの出来損ないの皇子に
探るように変化した視線を払うように、貴人は
「あの虫の女を警戒する気持ちは同じ。
「弱みを見つけて、
「……弱みは見つけてやった方がいい。駒として使えぬとなると、虫の女の命が危ういぞ」
扇の向こうから、黒真珠の瞳を光らせて貴人が言った。
「あら、そうなんですの! そういえば宇航皇子は虫の女にご執心みたいですよ、よく訪ねて来ていたとか。これは使えますわよ」
椅子から腰を浮かせて、朱美人が張り切って囁く。
それを貴人は鬱陶しそうに扇で
「そんなこと、
「あらあ、残念」
「フン。また何か情報が入れば教えてくれ。私は
「まあ。流石は
あくまで朗らかな声のまま、
しかし貴人は無言で扇を閉じると、もはや用はないとばかりに立ち上がり、自分の侍女たちを呼んだのだった。
華貴人が立ち去ったのちの部屋の中、優雅に茶を飲む朱美人である。
そこに、手を付けられなかった茶の器を下げに、耳が悪いとされた侍女が卓に寄っていった。
「
茶の香りに顔を
その声も表情も、先ほどとは打って変わって鋭いものに変わっていた。
「
侍女が深く礼をして御意を示すのを、満足げに眺めて頷く。
「
「私、好きじゃないのよね。あの女の運んできたものはみんな嫌いよ。あなた達で分けなさい」
朱美人の言葉に、侍女は再び礼をして部屋から下がって行った。
「虫の娘は危なっかしいわ。
一人になった部屋で、美人は小声でひとりごつ。
「好きにさせないわよ、華貴人」
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