第6話 嫉妬の色の蜻蛉飛ぶ

 数日後の朝餉あさげの席でのこと。


「ここのところ様子がおかしいじゃない」


 あつものをすすりながら明明メイメイが言った。

 

「別に、いつもと変わらないわ」


「そうかしら? まあ毎日暑いもの、ひ弱なあなたには辛いかもしれないわ。薬でも貰えたらいいのだけれど」


 薬、という言葉に美玉メイユーの動きが止まる。

 小鈴と顔を合わせた日以来、宇航皇子の往診に行くのが辛い。

 鳥を目にするのも、薬の匂いを嗅ぐのも、……皇子の龍が以前より大人しくなっているのを目の当たりにするのも。


「大げさね。はあ……、私の饅頭マントウいる?」


「食欲が無いのね。可哀想に」


 そう口では言いながら、うきうきと美玉の饅頭をもらう明明だ。

 自分の分の饅頭はとうに食べ終えていて、さっそくもらった饅頭にかぶりつく。それを見ていると、小さな体のどこに収まるのだろうと不思議に思う。

 

 ――まあ、この陽気さにはいくらか救われるわね。


 救われるとは何からだろう、と考えそうになって、美玉は一人で頭を振る。

 それを不思議そうに眺めていた明明が、口を饅頭いっぱいにしながら「ふま!」と間抜けな声を上げた。

 

「どうしたの?」


「う、ふが! っん゛! ごめんなさい、喉に、詰まったわ。言わないと、いけないことが、あったのよ。忘れないうちに伝えないといけないわ」


「はいはい、お茶を飲んでから話しなさいな」


 美玉が茶を手渡すと、彼女はそれを飲み干す。ぷはあ、と景気よく息を吐いた。

 その音を聞きつけた他の女官に睨まれるのも気にせず、彼女は滔々とうとうと語りだす。


 曰く、もうじき大暑たいしょの祭礼がある。その際に皇子がつながれた牛を射る儀式があるのだという。

 大暑の祭礼で振る舞われる冬瓜湯とうがんスープは牛骨で出汁を取る。

 かつては射られた牛でスープを作っていたそうだが、今では冬瓜湯は先に作ってある。ただ牛を射る手順は残されているのだそうだ。


 普段は姿を拝む機会のない空燕皇子の晴れ姿が見られるのが楽しみだ、と明明は目を輝かせて言う。


「明明あなた、良い人が出来たって言ったばかりじゃなかった?」


「それとこれとは別よ。美しい方を拝めば寿命が延びるというもの」

 

「で、それのどこが『言わないといけないこと』なのよ」


 どれいが椀を下げにきたので、身を軽く引いて明明の脇腹をつつく。

 すると「ああそうだったわ」と悪びれない様子で肩をすくめた彼女が、耳に口を寄せてきた。


「毎年、宇航ユーハン皇子はかんを起こしてしまって弓をまともに引けないの。そういう風で収まっているということ、分かる?」


「分からないわよ、遠回しな言い方は好きじゃないわ。あと息がくすぐったいわ」


「はあ、内緒話なんだから仕方ないでしょう。私が内緒にするなんて余程よ。つまり、当日は手助けをしては駄目ってこと」


「なぜ?」


 思わず目をしばたたかせると、さらに体を寄せられる。


「馬鹿ね、空燕コンイェン皇子の母君はホア貴人よ。あなたが助けて宇航ユーハン皇子がもし空燕皇子より良い矢を放ったら、完全にホア貴人の敵になるって言ってるのよ!」


 早口にささやくと、明明はさっさと席を立ってしまった。

 これ以上誰かに見られたくないとでもいうように。


 ――まあ、宇航ユーハン皇子はいま薬がよく効いているようだし、私には関係ないわよね。


 大暑たいしょの祭礼は、自分が何もせずとも無事に終わる。

 それで良いのだ、と言い聞かせて美玉はのろのろと席を立った。

 

 今日もこれから、皇帝陛下の朝の儀式の準備をせねばならない。

 虫篭に陛下の気鬱に対応する黄琥珀きこはく色の蜻蛉を詰めるのだ。


 とにかく、虫籠に入れて運ぶうちに弱る蜻蛉を数で補うべく、大量に蜻蛉を出すのが毎朝のならいだった。




 司虫局に戻った後、皇帝の朝の儀式までの少しの間を縫って二人は篭を編む。

 相変わらず言う事を聞かぬ竹だが、自身の心よりはまだしなやかである。

 美玉はいつになく集中出来ていた。篭を編むといくらか心が静まるのだ。

 それでも、と思った瞬間に、しゅんと竹がしなり指を打つ。


「はあ」


 赤くなった指を眺めて溜息をつく。集中が切れた途端に、またモヤモヤとしたものが胸の内に広がる。

 そんなとき、きまって宇航皇子について理の通らないことを考えている。

 

 ――蜻蛉の施術に頼る限り、皇子は空燕コンイェン様と比べられて軽んじられる。私は要らないのよ。


 自身を納得させるように、ここ数日の間くり返し唱えていた言葉だ。

 何度唱えても、美玉の心は受け入れない。


 ――どうにも調子が悪いわ。


 はあ、と溜息をつく。

 編み目を見つめ続けて疲れた目を瞑れば、小鈴の顔と薬湯の香りが蘇ってくる。

 ふるふると頭を振って追い出そうとするも、上手くいかない。


「あら、調子が良くなったのね」


 隣で虫篭を編んでいた明明が声を掛けてきた。


「どこを見てそう思うのよ」


「え? 篭編みよ」


 手元を指さされ、丸い目をますます丸くして言われる。

 ああそうか、と納得した美玉もつられて間抜けな顔になったらしい。顔を見合わせたまま、ぷっと笑われた。


「変ねえ美玉は。まだえつ病の名残があるの?」


「大したことではないわ。あなたにえつ病のこと話したのは失敗だったわね。都合よく使ってくるのだから」


 前日に、往診に着いて来た明明が途中でどこかへ行ってしまうということがあったばかりだ。

 問いただすと「人に会っていた」としか言わない。宦官か女官かは知らないが、良い仲になった相手が居るらしい。

 

「あら、心配しているのに失礼ね」


 そう言って肩に手をかけてこようとする明明を、編みかけの篭を持ったままそっと避ける。

 

「心配していたら、仕事を怠けてどこかに行く理由に私を使わないでしょう」


「私だって恋の病にくれているのだもの、許して欲しいわ。あなたは往診に行けば宇航皇子にお会い出来るのだから良いでしょうけど」


「やめて頂戴。そういったものじゃ無いんだから」


「ふうん、誤魔化したわね」


 美玉の返しに、明明は唇を尖らせる。

 しかしすぐに笑顔に戻ると、べったりと肩に寄りかかってきた。

 今度は避ける暇が無かったので、そのまま肩を許すことにした。

 化粧の粉の匂いが鼻をくすぐるのでくしゃみが出そうだ。


 ――チュ貴人のもとから左遷されてきたというのに、気を落とす様子が無いのがすごいわ。


 呆れつつも、そんな所を憎からず思ってしまう。

 

「さて、そろそろ用意をしましょうか」


 すい、と肩をすかして言う。

 すかされた明明が大げさに姿勢を崩してみせるが、放っておくことにした。

 

 美玉は立ち上がり、篭に蜻蛉を収める準備をするように奴婢の子供たちに伝える。

 すると、たちまち目の前に虫篭がずらりと並べられた。

 少し離れたところでは、明明が子供たちを集めている。

 虫籠に入れるための蜻蛉を出させるためだ。

 一つの篭を囲んで蜻蛉を出す子供たちを横目に、美玉は集中力を高める。

 

 自分にも聞こえぬほどの声で、蜻蛉に語りかける。

 

しつの心より、生まれよ黄琥珀きこはくの蜻蛉たち」


 その刹那、こんがいつもよりざわめくのを感じた。

 密かに戸惑う美玉の心中で、皇子の鳥が、薬湯が、小鈴が、汚れた油のように浮かんでくる。

 心のおもてに粘っこい光の膜が出来たかと思うと、その膜を突き破るようにして大量の蜻蛉が生まれてきた。

 

 両袖から、大ぶりの黄琥珀の蜻蛉たちが一斉に飛び立つ。

 しつの心から生まれた蜻蛉たちは、多すぎた。いっとき部屋は騒ぎになったが、蜻蛉たちは何周か天井を周ると大人しく篭におさまった

 

 出来上がった虫篭は、子らの蜻蛉を入れたものを含めて計七つ。

 数えてみれば、美玉の魂から生まれた蜻蛉は六十匹ちかくもあった。

 

「これ、全ては要らないわね……」


 困った顔で篭を眺める。と、隣で明明が手のひらを打ち合わせた。


「じゃ、奴婢の子たちが出した蜻蛉は置いて行けばいいわ! 美玉の出した蜻蛉の方が立派だし、数も足りるんだから。蜻蛉は処分させましょう」


 いかにも良いことを考えたというように言う。

 

「処分? せっかく出したのに」


「まあまあ、良いじゃないよ。そろそろ陛下の治療に行くのでしょう? 私も篭を持つわよ」


 急に張り切って虫篭を抱える明明に、美玉は胡乱な目を向けた。


「着いて来るなんて珍しいじゃない。また良い人に会おうというの? 篭は奴婢の子らに頼むからいいわよ」


「ちゃんと手伝うわ。饅頭マントウの分は働くわよ」


 宣言するやいなや、明明は奴婢の子らを振り向いた。


「いいこと? 私たちが戻るまで篭を編んで待っておきなさい。翅捥はねもぎを見つけたら叱るからね」


 その言葉には、いかにも含みがある。

 

「明明? あなたどういうつもり?」


「なんのこと? さ、行きましょう。いいこと、決してなんか見せないでよ」


 念押しすると彼女はさっさと出ていこうとする。

 慌てて虫篭を抱えてその背中を追った。頭の整理がいまいちつかない。

 左遷とはいえ、監視役として配置されたはずだ。美玉が奴婢ぬひ翅捥はねもぎをさせないようにと。それなのに、なぜ暗に翅捥はねもぎを勧めるようなことを言うのか。

 

 ――私、何か考え違いをしているのかしら?

 

 親しく話す知人など居なかった美玉に、この問題は複雑すぎる。

 悶々と考えながら司虫局を出ると、両手に虫篭を下げた明明が退屈そうに待っていた。

 分からないことはくしかない。人の心に疎い美玉に出来ることはそれしかなかった。

 

「ねえ、あなた奴婢の監督に来たのよね?」


「ええ、そう言われているわ」

 

 近づきながら美玉が問うと、明明も言葉を返しながら大股で寄ってきた。

 

「ならどうして……?」

 

饅頭マントウの御礼よ。奴婢の蜻蛉憑きを治してやりたいんでしょう?」


 ぎくりと身を固くすると、脇腹を肘でつつかれた。


「その方が皇子に沢山会えるものね、応援しているのよ。ふふ、大丈夫……私はあなたの味方だから! さ、行きましょう」

 

 そう言って、明明は歩きだしてしまう。

 違うわ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。宇航皇子に会いたいためではないのだが、へたに否定して追及されたくはない。

 明明は何を考えているのか、はたまた何も考えていないのか。

 

 ――分からないわ、後宮って。

 

 見慣れたはずの小さな背中が、急に得体の知れぬものに見えるのだった。

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