第5話 皇子の鳥と薬師見習い小鈴に会いしこと

「う、ううん」


 うっすらと意識を取り戻した美玉メイユーの目の前に、焦点があわぬほどの近さで宇航ユーハン皇子の顔があった。

 唇に柔らかな感触があり、口内は冷たい水が満ちている。

 無意識に飲み込むと、喉がこくりと鳴って、体が冷えて気持ちが良い。


「……目覚めたか、美玉」


 いつもよりも甘やかな声で皇子が囁くその吐息が、唇にかかる。

 ほうけた頭のまま緩慢かんまんに頷いた美玉であったが、宇航皇子の唇が水に濡れているのを見てハッと我に返った。


「ユ、宇航ユーハン皇子! いま、な、何を……ッ痛ぁ!」


 慌てて上体を起こそうとした美玉は、当然の流れで宇航皇子の額に思い切り頭をぶつけた。

 その衝撃で、濡れた手巾ハンカチがべちゃりと床に落ちる。額に載せられていたもののようだ。


「痛いな、虫の女は石頭の女でもあったか」


「み、水を、水をどうなさったのです?」


「飲ませた」


「どうやって⁉」

 

 互いに額を抑えながら、言い合う二人だ。

 さらに文句を言ってやろう、と口を開きかけた美玉の目に、脇にある小卓に置かれた口の細い水差しが目に入る。


 ――ああ、水差しで水を飲ませてくれたのよね。うん、そうに決まっているわ。


「あ、理解しましたわ。説明は結構です」

 

「気付いたか。その通り、口移しでだ」

 

 自分を納得させようとしたのに……。

 美玉メイユーは額を打った痛みとは別の意味で頭を抱えた。


「どうした? えつ病で倒れたのだ、まだ横になっていた方がいい」


「……分かりました」


 もう何も考えまい、と再び横になろうとしたところで、先程まで宇航の膝を枕にして寝かされていたらしいことに気づいた。

 流石に意識を取り戻した後にその姿勢を受け入れるわけにはいかない。

 

「殿下のお膝をお借りしたまま休めるほど肝が太い女ではございません。どうぞ一人で寝かせてくださいませ」


「そうか。たまには立場が逆になったようで愉快だったのだがな」


 軽口で返しつつも、宇航皇子は静かに立ち上がり彼女の頼みを叶えてくれた。

 皇子はそのまま部屋を歩き、鳥籠の前に立つ。籠のなかには、灰色から青、赤、緑へと角度によって色を変える美しい鳥が入っていた。尾羽は白く、籠から垂れて床に付きそうなほど長い。

 

「振られてしまったぞ、俺を慰めてくれるか鈴鈴リンリン


 鳥籠の隙間から指を入れると、鈴鈴と呼ばれた鳥はピチチチと鳴いてその指をついばんだ。

 鳥は皇子の心を慰めるべく、最近になって薬師によって贈られたものだ。

 薬師は小鈴シャオリンという。まだ娘と言って良い歳で尚薬局しょうやくきょくの薬師見習いであったと美玉は記憶している。


「その鳥は尚薬局の意思で送られたものなのでしょうか?」


 これまで皇子にろくに薬を出さなかったくせに、突然しゃしゃり出るようになった。

 そんなところから、心の慰めになどと鳥が贈られるものだろうか、とふと思ったのだった。


「まさか、あの頭の固いじじいどもがそんなことを考えるものか。小鈴シャオリンが薬を運ぶついでに連れてきたのだ」


「あら、見習い薬師が買えるほどの鳥にはとても見えませんけれど」


 長椅子に横たわっていると、どうにも気が緩んでしまうらしい。

 思った通りの事をそのまま口にしてから、失礼だったかしら、と美玉は袖で口を隠した。

 しかし皇子の反応は予想外のものだった。


「なんだ? 小鈴から贈られた鳥を愛でることに妬いているのか? 口づけまでしてやったというのに」


 からかうように言って笑うその口元につい目が行ってしまい、頬がさあっと熱くなるのを感じた。


「あ、あれは、介抱のためでしょう! それに私は妬いてなどおりません!」


「まあまあ、そうツンケンとするな」


 宇航が鳥籠から指を抜き、一人掛けの椅子に優雅に座る。

 ピチチチ……と名残惜しげに鳥が鳴いた。


「あの鳥はお前の次に俺の慰めになっている。あの鳥の名の由来を知っているか?」


鈴鈴リンリンの? 知りませんわ」


 ――小鈴シャオリンから取ったような名だこと。


 なぜか面白くない気持ちになった美玉メイユーは、体を起こして長椅子に座り直すと、宇航ユーハン皇子をじとりと見つめた。


「わかりやすい女だな、お前は。鈴鈴リンリン李 秀鈴リー シュウリン……死んだ俺の母の名からとったものだ。母もあの鳥のように、愛らしい人だった。体は弱く、俺の記憶のなかでは常に臥せっていたが」


「あ」


 己の勘違いに気づいた美玉は、そっと立ち上がると宇航の前に両の膝をついた。


「申し訳ありません。御母上のことをお聞きしたようになってしまいました」


 両手を組み、深く頭を下げる。

 そんな彼女の頭に、そっと手が載せられた。


「構わない。あの鳥は俺を慰めてくれるが、一番は美玉メイユー、お前だ。お前の術のみならず、存在全てが俺を支えている」


「勿体ないお言葉にございます。その言葉を頂く理由がありません。それに、それ以上言われては、私は醜く増長してしまいます」


「しかし、事実だ。ずっと以前から、お前が俺の助けになっていた」


 ずっと以前。という言葉に引っかかりを覚える美玉だが、頭に載せられた大きな手に意識が行って考えがまとまらない。

 いま口を開けば、さらにおかしな事を口走ってしまいそうだった。


「さて、調子が戻ったのなら、俺を診察してくれないか? お前の蜻蛉は気持ちが良いからな」


「あ、はい。ただ、今日は幾分か落ち着かれているご様子……」


 顔を上げて、改めて宇航の顔を見つめて言う。

 椅子に座ったままではあるが、身をかがめて彼女の頭を撫でていた皇子の顔が間近にあった。

 またも頬が熱を持つ気配を感じ、袖でそっと顔を隠したときだ。


宇航ユーハン殿下! 今日の薬がまだでございます! ……っとと、お邪魔でありました!」


 大きな声が部屋に響いた。

 美玉は慌てて立ち上がり、一歩下がって皇子と距離を取る。

 皇子は椅子に座ったまま、入り口を横目で見やった。


 そこに立っていたのは、小柄な娘だ。

 焦げ茶の髪に濃い緑の瞳をした娘が、手に盆を持ってあたふたとしている。

 話題に上がっていた薬師見習い、小鈴シャオリンであった。

 

「ああ、良い。今日は気分が良いし、もう美玉が往診に来ている」


 しっしと手を払う宇航だが、小鈴は見た目に反して気が強いらしい。

 部屋に入ると、宇航の目の前の卓に湯気のたった椀を置いた。


「そう申されましても、薬は毎日続けて飲まねば意味がございません。朝にご用意した薬湯やくとうを飲まれておりませんでしたので、作り直したのですよ。これは尚薬局しょうやくきょくの意向ですので、それを宇航殿下に守っていただくのが私の仕事でございます」


 両手を組んでぴょこんと礼をする小鈴はまるで栗鼠りすか何かのようだ。

 

「いや、美玉の蜻蛉の方がいい。薬など、今までろくに出さなかったくせに何故いまさら飲ませようとする」


「そ、それは私も存じませんが……でも、薬で抑えられるならばその方がよろしゅうございます。司虫女官様もそう思われませんか?」


 突然に水を向けられて返答に迷う美玉だが、確かに、と思う面もある。

 同様に木龍を宿す東の皇子である空燕コンイェン皇子が、宇航ユーハン皇子より年若いのに皇太子の座に一番近いと言われているのは、司虫しちゅうを頼らずとも龍を抑えているからだという。

 皇子の立場を思えば、ここは引くべきなのかもしれない。


「司虫女官様はお体もあまりお強くないと聞きますし、この萬樹まんじゅ殿への往診が要らなくなれば、より陛下の治療に心血を注げるのではありませんか? 近頃は陛下の気鬱が激しくなっている、と聞きますけれど、虫は足りておりますのでしょうか……っと、これは失礼いたしました。口が過ぎましたこと、お許しくださいませ」


 気遣わしげな顔を作ってみたり、無邪気に変じてみたり、かと思うと過剰に恐縮したりところころ表情を変える小鈴シャオリンだ。

 その言葉に隠された棘に気づかぬほど鈍くはないが、道理にかなっていないとも言いにくい。

 

 ――私など不要である方が、宇航皇子には良いのだわ。


「分かりました。では、私はここで失礼させて頂きます。皇子の龍が落ち着いておられるのも確かでございます」


「おい、美玉。待て」


「宇航皇子殿下。この度は介抱して頂きありがとうございます。往診に来たのにかえってご迷惑をおかけいたしました」


「待てと言っているだろう。俺はお前が来なくなるなら、薬湯など」

 

 立ち去ろうとする美玉の腕を、宇航皇子が力強く掴む。

 みしり、と骨が鳴るほどの力に思わず眉をひそめた。

 

「お離しください。虫の女など無しに龍を抑えられるならばその方が良いのです。鳥と薬、どちらも大事になさいませ」


 美玉が挑戦的な目で見つめると、宇航皇子は以外そうな顔で見つめ返す。

 しばし無言のまま睨み合う形になった二人だが、諦めたのは皇子の方だった。


「分かった。今日はその通りにする。だが明日は必ず俺に蜻蛉とんぼを見せろよ」


「薬と鳥の効き目を見に、往診には参ります」


 ふいと顔をそらしながら返した声は、自身でも意外に思うほど冷たかった。

 その声に虚をつかれたように緩んだ皇子の手をすり抜けると、美玉はそのまま部屋を立ち去った。

 背中に、薬を勧める小鈴と、鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 一刻も早く立ち去りたい気持ちになって、いつもよりも早足に萬樹まんじゅ殿を後にしたのだった。

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