第4話 司虫女官、皇子皇女の往診をすること
「さて、
「休む暇もないわね」
「あなたは随分と休んでいたように思うけれど?」
美玉の前には作り始めの形の
とはいえ美玉はずっと作業を怠けていたわけではない。
指には、篭を編むのに使った竹によってできた擦り傷が複数出来ている。手の甲にはしなった竹に打たれて出来たみみず腫れの跡までもがある。
限界を迎えた手を休めていただけのこと。
「働き者の手でしょう?」
手を見せつけるも、しらけた顔で無視をされた。
そのうえ、両脇に手を入れられて、子供にするように立ち上がらされる始末。
「猫ではないのだけれど?」
「確かに猫より重いわね。そんなことより、さっさと行きなさい。
そう言うと
「いえ、結構よ。あの子たち全員でも
「流石ねえ。じゃ、あなたが出ている間はここで篭を編ませながら監視しておくわ。勝手に
左遷されてきた女官
――奴婢の子らの蜻蛉憑きを、少しでも早く治してやりたいのに。
明明は悪くないが、彼女が来てから子供たちが
「あなたは少し寝ておいたら? 篭作りで疲れたでしょう。丁度よい長椅子もあるし」
と長椅子を指すと、
「そんなに暇ではないわよ。第一あれは皇子の椅子でしょうが! ほら、下らないこと言ってないでさっさと
ぷりぷりと怒る彼女に背中を押されるようにして、司虫局の外に出た。
と、すぐに尚儀局の嫌味な宦官、
向こうとて彼女に良い気持ちなど持っていようはずもない。互いに目を細めて行き会った。
司虫局に行くのであろう。明明と奴婢の子供らは気の毒なことだ。そう思いながら、美玉は往診へと急いだ。
「暑すぎるし広すぎるわ。ほんとうにこんなに広い必要があるのかしら」
口の中で愚痴を転がしながら、まずは皇女の住まう
皇帝には三人の皇女がおり、年齢順に
とはいえ皇族の男子ほど龍の力は強くないらしく、簡単な治療で済んでいる。女子に宿る龍の力が比較的弱いのは、帝位に関わらぬからだろうというのが最も指示されている見解だが、人には龍の考えなど分からない。
ただ事実としてその傾向がある。
「
手を組んで深く礼をすると、檀上に座る皇女たちは
「ああ来たか! 私は今日も調子がいいぞ! 心配性のお前はまた蜻蛉を出すだろうがな!」
燃えるような赤い髪をした押し出しの強い美女がまず声を掛けた。
本人はいつも調子がいいと言って聞かないが、声は上ずり目は
――火龍の喜の心が強いようね。
美玉はそう判断した。
続いて口を開いたのは
彼女は三人の皇女の中で最も線が細く、色が白い。薄茶色の髪を不安げにいじり、目は伏せたままどこも見ていない。
「どうにも……気が晴れぬ……」
ぼそりとそう呟いたきり黙り込んだ。
――金龍の悲の心ね。
美玉の診断は続く。
最後の
侍女が雪彗に変わり声を出す。
「早くご自分の部屋に帰りたい、と仰っておいでです」
――水龍による恐の心ね。陛下よりは軽いけれど、
そこで美玉は両腕を前に出し、自らの体から蜻蛉を生み出すための術を展開した。
「恐の心より
すると美玉の袖がぶわりと広がり、黒琥珀、赤琥珀、黄琥珀の蜻蛉が一斉に飛び立つ。
黒琥珀の蜻蛉は水の属性。火龍を宿す
赤琥珀の蜻蛉は火の属性。金龍を宿す
黄琥珀の蜻蛉は土の属性。水龍を宿す
水は火に
「軽い症状ですので、五匹程度が適量かと思われます」
美玉は頭を下げて伝える。蜻蛉の停まる様子をまじまじと見ては失礼かと考え、いつも蜻蛉を放った後は見ぬようにしているのだ。
そのまま淡い光が檀上から発されるのを目の端で確認し、退出の許可を待った。
これで、皇女の往診は
次は皇子の住まう
いよいよ天辺近くまで昇りつつある陽に焼かれ、蒸し物にでもなった気分でようやっと辿り着いた
その西の
だが美玉はまず東の
ここには木龍を宿す二人の皇子が住んでいる。五行の順に位を
だが異例なことに今は木龍を宿す皇子が二人居る。
と、なるとどうなるか。
龍を宿しながらも症状の落ち着いている
歳は
――東の対を先に
そう考えながら、西の対の入り口で挨拶を行う。すると予想のとおりに女官にすぐに退けられた。
「
鼻で笑う女官が、「ああ虫臭い虫臭い」と袖で払うので、美玉は無表情のまま礼を深くして、その場を退出した。
萬樹殿の中庭には日よけのための木が繁り、回廊も日陰になっていくらか涼しい。それでもどうにも体が怠いので、東の対で宇航皇子を治療した後は少し休ませて頂けないだろうか。と歩きながら考えていたときだ。
くらり、と突然視界が揺れたと思うと、透き通っていくように景色が白く変ずる。
――いけない……
暍病、つまり熱中症である。
長らく家に隠されていた美玉は、夏の盛りに歩き回るなど経験がなかった。日々の務めの疲れもあり、無自覚のうちに熱中症の症状を表していたのだ。
床に打ち倒れそうになったその時、男の片腕が美玉を支えた。絹の
「
そうとだけ呟いて美玉は意識を手放した。
* * *
「抱かれて
口の端を上げて呟いたのは、東の皇子
空燕は、美玉を支えていない方の手で朱塗りの
そして、そのまま唇を美玉の口に寄せた。
「ふふっ」
空燕が吐息の形をとった笑いをこぼす。
今にも触れ合おうかというその瞬間。
空燕の肩を乱暴に掴む手があった。
「何をしようとしている?
無言のままに手の主を振り向いた空燕は、含んでいた酒をごくりと飲み干した。
「あぁ、
口を拭い朗らかな笑顔を作る空燕を、宇航が金の瞳で睨みつける。
「おかしな酒を口移しして、何が介抱だ。第一、ただの女官にお前自ら介抱など、普段ならばしないだろう」
「ただの女官? 義兄上がご執心の
その言葉に、空燕の肩を
手の甲にうっすらと鱗が浮かぶのを見て、空燕は笑みを濃くした。
「おや、いけませんよ。虫の女が気をやっているというのに、ここで
体を
その背中を睨んでいた宇航だったが、空燕が見えなくなるとすぐに腕の中の美玉に目をやった。
「大丈夫か? 美玉」
くったりとした美玉の体を横抱きにすると、宇航は彼女の額にそっと口づける。
汗で額にはりつく髪を整える指先は優しく、見つめる瞳は穏やかだ。
手の甲に浮かびかけた鱗は消えていった。
愛しげに美玉を抱え直して立ち上がると、彼は西の対へと彼女を運んで行った。
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