第27話 審議の場にて・3
堂々とした中に緊張の滲む宇航皇子と、膝をついてうつむく空燕皇子。二人を順に見つめたのち、美玉は細く息を吐く。
ざわざわ、ざわざわ。
肌が
周囲に近づく者はいない。
自分は
そんな風に思うなど、蜻蛉への裏切りなのに。
「ごめんなさい」
その言葉を合図に、黄琥珀の蜻蛉が衣を貫いて生まれ出た。
美玉の心を知るはずの蜻蛉たちは、なお素直で愛らしい。
――これから私は、蜻蛉で人を傷つける。愛しい人と、以前にも傷つけた人の二人を。
「
詠唱を始めたときだった。
「
浪々とした声が響いた。声の主は、宇航皇子。
いままで美玉に集まっていた宮殿中の視線が、すべて皇子へと差し向けられる。
「な、なんのつもりだ。術を受けるのが、こ、怖くなったか?」
「もう言っても良いころだろう。苦しい、と。お前の薬酒は随分強いものだそうだな。
宇航の言葉に、空燕はびくりと体を震わせる。
腰の瓢箪が床に当たって空しく鳴り、彼の指はぎこちなくその音を掴もうとする。
「な、何を言いたいのか、わ、わからぬな。む、虫の女。俺に、じゅ、術をかければいいだろう」
「そうですわ、こうするしか、宇航皇子への疑いを晴らす術がありません」
「それでも……」
じいわじいわ、と黄琥珀色の蜻蛉が渦になる。それを突き抜けて、宇航皇子の視線と声は真っ直ぐに美玉に届いた。
「それでも、蜻蛉をこんなことに使いたくないのだろう? お前の心の痛み、俺にも伝わってきた」
指摘の通りだった。
修羅に落ちる覚悟を決めていたつもりだったが、それでも、蜻蛉を恐ろしい力と見られたくはなかった。やりたくなど無かった。
宇航皇子を苦しめたくもないし、空燕皇子を再び害することもしたくない。
こくり、と無言のまま頷くと、美玉は空燕へと顔を向けた。
「空燕皇子。牛を射れなかったのは、本当に手のせいですか? 冷宮でお会いしたとき、随分と具合が悪いようでしたが。あれはただの悪酔いでしょうか?」
「い、意味が、わ、からないな」
空燕の手がとうとう瓢箪を腰から外す。御前であるという最後の理性が、瓢箪を提げる紐とともにほどけた瞬間だ。
小鈴が声を上げた。
「お、おまちください! それ以上召されますと、神経痛で体が動かなくなります! い、今までも節が痛んではおりませんでしたか?」
「何を言うか小娘! 見習い風情がしゃしゃるでない!」
華貴人の喝に一瞬身を縮こませるが、小鈴は退かなかった。
「み、見習いとはいえ、薬師にございます。恐ろしい濃度の薬を前に、薬師として警告しないわけにはいきません。長期間の常飲で、筋肉はこわばり、神経に障り、生活もままならなく……」
「黙れ! 鳥殺しの娘の話など聞く必要はない!」
華貴人の声が激しくなる。
もはや多くの者たちは、どちらがどちらを弾劾しているのか分からないといった顔で立ち尽くすのみとなっていた。
そんな中で美玉は冷静に頭を巡らせる。
もう蜻蛉たちを、人を傷つける武器にしないために。
「いかがです空燕皇子。このままでは、皇太子となってもお体は不自由になるばかり。動かなくなった体で、どうやって
からん、という音と共に、空燕の手から瓢箪が滑り落ちた。
「は、母上。俺は」
脂汗が、彼の前髪をべたりと額にはり付けている。
何かを求めるように、腕が持ち上げられる。
しかし彼の腕は、すげない言葉によって払われた。
「何を言おうというのだ。お前は木龍だ。虫の女、はやく二人の皇子に蜻蛉を飛ばせ」
華貴人が言い放った。次の瞬間。
空燕が天を仰いだ。両手を広げた。息を肺いっぱいに吸い込むのが見えた。
人の崩れる瞬間というものを、美玉は初めて目の当たりにしたのだった。
「あっははははは! やりなよ! たくさん、蜻蛉を出してさ。そうしたら、あ、あの女を地獄に送れる!」
空燕の言葉に、華貴人は満足げに頷いた。華貴人だけが。
「そうだ、やっと役目が分かったようだな。天をだました大罪人の宇航を地獄へ……」
「地獄に落ちるのは、母上、あんただよ! ははっ! あんたは木龍の皇子など生んでいない! 蜻蛉の術をくらって、お、俺になお、木龍のふりをしろって? は、無理に、きき、決まってる」
「何を言う! 悪酔いでもしたか! 愚か者が!」
憤怒の表情で仁王立ちする華貴人だが、その姿はもう空燕の目には映っていない。
「あ、
もはや何も映していない目で、空燕は立ち上がる。よろよろと、幽鬼のような足取りの向けられた先は美玉だった。床を掻き過ぎて血のにじんだ指が、美玉に向けて伸ばされる。
皆固まっていた。動いたのはただ一人、宇航皇子だ。
「やめろ! 俺の
駆け、追いつき、掴み、ひき倒す。
そうして美玉を背に守った宇航を、空燕は歪んだ笑みを浮かべて見上げた。
「憎いなあ、義兄上。結局、ぜ、全部あんたのものか。そのうえ俺の、最後の願いまで邪魔をする」
「最後?」
「お。俺は、母上が裁かれるところを、しょ、正気で見たくなどない。地獄に、お、落ちればいいと思うが、それでも見たくない。やりなよ、虫の女。なあ、た、頼むよ。俺の魂を施術で、
ずっと行き場を失っている蜻蛉たちは、天井ちかくを旋回している。
先に出した、番の蜻蛉たちと一緒に、三色の蜻蛉が天井を埋めていた。
――もうこの子たちをとどまらせる理由はないわ。でも番の蜻蛉は、私の内に戻せないし……。
「戸を……戸を開けて下さい。蜻蛉たちはもう無用です。自由に飛ばせてあげましょう」
「そんなこと言わずにさァ! お、俺を、」
美玉の宣言を受けてなお、空燕は
視界の端、華貴人がそっと後ろに下がるのが見えた。
止めなくては。と体が動きかける。その瞬間に檀上から声が響いた。
「もうよい、華と空燕を捕えよ」
それはまさに鶴の一声だった。
「
皇帝の言葉に、美玉はその場で深く膝を折った。
「はい。怒の心より生まれる青琥珀色の蜻蛉にございます」
「あとでそれを空燕にくれてやれ。それが終わったら儂の治療にこい。疲れた。皇太子が決まり、やっと休めるというものだ」
「御意にございます」
慈悲か、それとも正気を失うことを許さぬ罰か。
再びはじけたように笑う空燕と、抗議の声を上げる華貴人の騒ぎは、やがて遠くなっていく。
放たれた戸から、三色の蜻蛉が飛び立つなか、美玉は深く頭を下げ続けた。
傍らには、運命の番、宇航皇子が共に礼をしていた。
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