第26話 審議の場にて・2

「施術を開始いたします」


 浪々ろうろうと美玉が詠唱を始める。

 

しつの心より出でし蜻蛉よ、相克そうこくことわりに従い龍を鎮めよ」

 

 詠唱の終わりと共に、黄琥珀の蜻蛉が檀上に向かい羽ばたいていく。

 矢のように一直線に放たれた蜻蛉たちは、御簾みすを抜け、そのまま皇帝へと捧げられる。

 その瞬間、ただ羽音だけが響き、消え、檀上から満足気な溜息が返された。

 

「突然陛下の施術など……何のつもりだ?」

 

 華貴人の言葉に、美玉は薄い笑みを向けた。

 

「そうですね。ただ施術によって、この蜻蛉の性質は確かめられました」


 一匹だけ残しておいた黄琥珀の蜻蛉を手の甲に停め、それが皮膚に沈んでいくさまを見せつける。

 

「帝に差し上げた蜻蛉は嫉妬の心より生まれし黄琥珀色の蜻蛉。皆さんもたったいま、見たことでしょう。属性は土。土は水につ、ということで土の属性の蜻蛉を差し上げています」

 

 言いながら、ゆっくりと前に進み出る。もはや美玉を止められる者はいなかった。

 

「さて私は、運命の番となった相手から蜻蛉を引き出すことが出来ます。それこそが運命の番が出す、特別な蜻蛉。宇航ユーハン皇子から生まれる蜻蛉が黄琥珀の蜻蛉であれば、土の属性の心が強いということ。土龍を宿しているということにならないでしょうか?」

 

「特別な蜻蛉だと?」

「龍を宿して入れば、蜻蛉は生まれぬだろう」

「伝承でも始皇帝の蜻蛉は龍が食いつくしたとあるではないか」


 もはや統率を失いつつある紫龍しりゅう殿内。官吏たちが口々に声を上げ、喧騒が広がりつつある。

 声のなかを一人の貴妃が進み出、そして。

 パン! という乾いた音が響いた。


「陛下の御前で情けないですわよ? ヤン女官が宇航皇子から蜻蛉を引き出すところ、見た者はいるはずですわ。大暑の祭礼の日に、かんの発作を治めたときですもの! そうそう、空燕コンイェン皇子は宇航ユーハン皇子を討伐すると勇んで行かれたのではなかったかしら?」


 声の主は、これまで状況を静観していた朱美人である。

 彼女は堂々たる足取りで進み出ると、空燕皇子を真っ直ぐと見据えたのだった。

 それに対し目を逸らし、無言を答えとした空燕。その指は震え、顔色は蒼く、唇まで血色を失っている。

 

「朱美人、貴様何を……」


「空燕皇子には答えてもらえませんのね。いいでしょう。ここでやってみせれば良いだけのこと。ねえ、華貴人? よろしいわよねえ?」


 貴人の言葉をさえぎって言うと、朱美人は唇の両端を均等につり上げて福福しい笑みを作って見せた。あくまで人懐こい、母性を感じさせる笑みを。

 

「女狐めが」


「自己紹介ですの?」


 ギリ、と音が聞こえてきそうなほど、華貴人が歯を食いしばり睨みつけるが、朱美人はまるで意に介さない。美玉に向けて、無言のまま頷いた。やりなさい、というように。

 

 それをうけて頷きを返すと、美玉は息を吸い込んだ。

 一瞬の溜めの後、フッ、と息を吐く。と、ぞぞぞぞという音とともに美玉の衣は内側から押し広げられるように膨らみ、膨らみ、膨らみ、……やがて弾けるようにはためいた。

 桃琥珀の蜻蛉を全身にまとわりつかせながら。


「この子たちは、私の命令では動きません。私の……心の奥底の欲求にのみしたがって動くのです」


 そう呟くやいなや、蜻蛉たちは一斉に宇航皇子のもとへとうねりながら飛んでいく。

 

 ゆるく両手を広げる形で、宇航皇子がそれを待ち受ける。


「お前の蜻蛉は、いつでも愛しい」

 

 その言葉ののち、皇子は桃色の靄につつまれた。

 じじじという羽音が一気に大きくなったかと思うと、喉から胸から背中から、皇子の体に尾を差し込んでいく。

 息を吐いた王子が軽く身を折り、それから天を仰ぐ。


 彼の喉仏に差し込まれた桃琥珀の蜻蛉の尾が、引き上げられる。尾には皇子の蜻蛉が食らいつき、その兜のような頭には強い顎が。顎が尾をひしと噛みしめて、決して離さないというように。

 喉仏から引き上げられたのは、青琥珀の蜻蛉だ。

 輪になった形で生まれた桃琥珀の蜻蛉と青琥珀の蜻蛉。それは明確に番の形を示していた。

 

 気づけば全身から引き出された蜻蛉たちが、輪となって皇子の周りに飛んでいた。一部は天井近くにまで。

 美玉が手を差し出すと、一つの輪がとまる。

 桃琥珀色の蜻蛉と尾を嚙み合っているのは。


「青琥珀色の蜻蛉でございますね。陛下に差し上げた蜻蛉は、土の属性の黄琥珀の蜻蛉。こちらの青琥珀の蜻蛉は、木の属性より生まれし蜻蛉でございます」

 

 指先で輪をなぞりながら告げると、宮殿内はしいんと静まり返った。

 

「龍を宿す皇族には蜻蛉が生まれないのではなく、蜻蛉は生まれたそばから食べられるのだけにございます。食べられる前にその蜻蛉を釣り上げるのが、桃琥珀の蜻蛉。これは番の相手にしか使えません」


「そ、それでも証拠になどならぬ!」


 たまらずといった風に声があがった。空燕コンイェンによるものだ。

 

「む、虫の女、お前の術が化け物なみだということは、わ、分かる。が、青琥珀が木の属性とは、か、限らない! お前たちが番であっても、も、木龍でなければ、意味がない」


「それもそうですわね。それでは、一つ実験をやってみましょう。木龍の皇子に負担を与えることとなりますので、これは最終手段なのですが……」


 溜息とともに言葉を吐き出すと、美玉は宇航皇子と空燕皇子を順に見やる。

 宇航皇子は、小さく眉を顰めつつも頷きを返した。

 空燕皇子は、背を丸めて視線をうろつかせた。

 

「最終手段だと?」

 

「両皇子殿下に蜻蛉の施術を試してみるのです? 黄琥珀の蜻蛉は土の属性、というのは皇帝陛下の治療で分かったはず。木龍であるはずの両殿下に黄琥珀の蜻蛉を向ければ、気をおかしくするでしょう。ただ、片方が土龍の皇子であれば、属性が強化されて『おう』の症状が重く出るでしょう。気をおかしくする者と、元の気質を強くする者。反応の違いについて、この場の皆さまに判断していただけるはずです」


 静まり返った場に、冷たい緊張が走る。


「いいのか、美玉。お前は蜻蛉を、人を傷つけるために使いたくないと言っていたのではなかったか」

 

 沈黙を真っ直ぐに突き抜けて、皇子の言葉が届く。

 それに深く、きっぱりと頷きを返した。


「覚悟を決めてました。私は今一度、蜻蛉とともに修羅の道に落ちます。宇航皇子には、……木龍を宿される宇航皇子には、心苦しい限りなのですが……」


「俺のことは構わない。だが、お前とお前の蜻蛉がただ心配だ」


 ゆるりと立つ皇子からは、恐れも緊張も感じられない。

 それが嬉しい。これからしようとしていることが、どれだけの苦痛を与えるものであっても、それを受け入れようとしてくれる。美玉と、彼女の蜻蛉ごと。


「お、おれは、嫌だぞ……!」


 突然声が上がった。

 空燕皇子が、脚をもつれさせながら向かってくる。

 不細工に手を伸ばし、ぜえぜえと息を切らし。

 手が届こうかとしたときだった。

 

「止めよ」


 華貴人の抑えた、しかしよく通る声が響き、美玉の傍らにいた衛尉えいいが動く。

 二人がかりで押し倒されるようにして制圧された空燕は、指でむなしく床を掻いた。

 そこに、ゆったりとした足取りで華貴人が寄ってくる。

 一歩、一歩と近づくくつの音を聞きながら、空燕は床を掻き続け……。


 正面に立たれた途端に脱力した。


「出来るな、空燕」

 

 その言葉によって押し潰されたように、彼は床へと張り付く。

 汗によって束になった前髪が、額に波を描いている。

 

「土龍の子など私は生んでおらぬ。お前こそが木龍だ。そうだな?」

 

「…………」


 下へ下へと押し潰すような言葉に、ぎり、と歯を軋ませる音が返ってくる。


「良いようですわね。さて、見せて頂きましょう。楊女官、存分におやりなさいな」


 朱美人の宣言に、美玉は諾々として頷きを返した。

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