第24話 美玉、己を取り戻すこと
薄絹の
夢の世界かと思いかけて、痛みに体を思い出す。
そういえば右腕が折れているのだった。
頭を動かす。頭が重い。肩も腰も。
どうやら長椅子に寝かされているようだった。傍らには
「ああ、良かった。
何やら怯えた様子で声を掛けられた。
と。帳の向こうで声がする。明明の声だ、と思った。宇航皇子の名を呼んでいる、とも。
「ここ、は?」
声が上手く出なかった。
冷宮から出る際に美玉の体を動かしていた、何か凶暴なものは去っていた。しかしなお、体の動かし方が分からない。
気を抜くと下りそうになる瞼を持ち上げて、考えを巡らせていると、帳がかき分けられる。
そこにいた人の顔に、ほっと心が緩む。
宇航皇子だ。
「
「朱美人様は陛下の癒やしなのよ。お渡りも減らず、本当に睦まじいの」
横から顔を出して、
微笑ましく感じた美玉の頬が自然と緩む。
少し、体の動かし方を思い出した気がする。
「……朱美人の御都合も知らず小鈴を預かってもらおうなんて、私気が回りませんでしたわね」
ふふ、と笑うと、小鈴がなぜか身を縮こませる。
宇航皇子が複雑な顔をして、美玉の額にそっと手をのせた。
「そのことだが……蜻蛉を
「蜻蛉? ああ……」
無意識に眉間に皺が寄っていたらしい。宇航皇子に指の腹で伸ばされて、自分が今どんな顔をしているのか分かった。
思い出したくないのに、思い出さなくてはいけないらしい。
あのとき己を突き動かしていた恐ろしいものについて。
「使ったのは本当ですけれど、獄吏は脅していません。でも、なんとなく私が私でないような気にはなりました。こう、万能感というか……残酷な気持ちになる私が居ました」
「力を自覚すると気が大きくなるものだ。あまり、気に病むなよ」
「そういうもの、でしょうか」
優しい言葉をもらっても、気は晴れぬままだった。
あの時の自分を思い出すと、なんとも嫌な人間になってしまった気がする。自分が自分でなくなるような。
「あのときの美玉様すごく怖かったです。今は、そうでもないけど、別人でした」
「でも凄いじゃない。空燕にくらわしてやったんでしょう。あれが木龍の皇子でないという証拠じゃない」
明明は興奮のままに褒めてくれる。
でも、美玉にはそれも辛い。
「励まされると辛いですわ。私、とんでもない化け物になってしまったんですもの」
「……厳しいことを言えば良いのか?」
「励まされるよりはいくらか」
そう言うと、額に載せられていた皇子の手が離れる。
あ、と離れがたくその手を目で追うと、左肩をそっと撫でられた。
「お前は化け物ではない。ただ、そうだな……蜻蛉で心を操ろうとするな。人を傷つけようとするな。華貴人は薬で人を操ろうとする。傷つけようとする。蜻蛉を使って同じことをするのは、お前自身の心と蜻蛉を損なうことになる」
正直な言葉だと、直感で分かった。蜻蛉のこと、美玉のこと、全てを受け止めようとしてくれる言葉だった。
ふわりと心が軽くなる。甘いだけではない、真心からの言葉。
「そうですね。もう蜻蛉を人を傷つけるために、使いたくありません」
「そうしてくれ」
優しい手に癒やされて、自分を取り戻していけそうだった。
「ところで、謹慎中なのによく出て来れましたね」
いくらか気が休まったところで、やっと事態について考える余裕が出てきた。
美玉の問いに、皇子はいたずらっぽい笑みを作る。
「門衛の宦官に茶をやった。薬湯のあまりでな。すぐに寝たぞ」
「あら、皇子も薬で人を操っていらっしゃる」
「緊急だったんだ。しかし、俺も人を操ることは今後しない」
そう言った美玉のみならず、明明からもくすくすと笑われて、皇子は子供のように膨れてみせる。
しかし小鈴ひとり、青い顔をしてうつむいていた。
「大体俺にあてがわれていた薬をやっただけだぞ。強すぎるだろう」
「す、すみません! 強すぎると疑問に思ってはいたのですが、私、言われるままに運んでおりました。罰はお受けいたします」
その場に平伏する彼女に、宇航皇子は困り顔だ。
どうすればいいのか、といった風に。
硬直しかけた空気を破ったのは、美玉の提案だった。
「
「あ、ああ。小鈴が持っていたな」
「それならば、薬酒の解析をしてもらいましょう。薬師見習いは薬師見習いとして働いて頂くのが一番でしょう」
「ふむ、空燕が飲んでいた薬か……。いいだろう、小鈴、働いてくれるか?」
そうこうしている間にさっと
「あなたまた、変に真面目な顔つきになったわね。さては関係ないことを考えているでしょう」
「いやね明明、あなたに感心していただけよ」
「あきれた、やっぱり関係がなかった」
「はは! いい相棒同士だな」
二人の間の抜けたやり取りに、たまらずといった風に皇子が笑い声をあげた。
「どこがですか」
「全部だ。安心した、お前がいつも通りに戻って」
そう言って、皇子が立ち上がる。少しの熱を、美玉の左肩に残して。
「俺は萬樹殿に戻るとしよう。何しろ謹慎中の身だ」
「……これ以上、難しいことにはなりませんよね?」
空燕皇子の焦りようを思い出し、ふと不安がよぎる。
加えて華貴人の苛烈な性格だ。さらに恐ろしい陰謀が動いていてもおかしくはない。
「なに。何があっても俺がお前を守ると誓う」
そういうや否や、彼は美玉の返答から逃げるように、足早に去ってしまった。
答えになっていませんわ。という言葉は、喉の奥にとどまったまま。
そのとき、そっと長椅子の傍らに寄り添うぬくもりが二つ。明明と小鈴だ。
大丈夫、というように、無言のまま力強く頷いてくれた。
ひとたび部屋が静かになると、折れた右腕の痛みが寄せ返してくる。腫れているのだろう、どのように体を置いても痛みは引かなかった。
――大丈夫、大丈夫。朱美人様も、助けて下さる。
言い聞かすように心のなかで繰り返すと、次第に眠気がやってくる。
長椅子に横たわったまま、やがて泥のような眠りに沈んでいった。
翌朝のこと。
いつものごとく朗らかな様子で、朱美人が美玉のいる室房へとやってきた。
「陛下から色々聞けてよ。それから夜を徹して根回し、根回し。眠いし、なによりお肌が荒れてしまいそうだわ」
そう口では言いながら、目は爛々と輝いている。
獲物を見つけた鷹のように。
「申し訳ありません、このような恰好で」
冷宮での揉みあいから、そのまま運ばれて寝ていたのだ。髪も衣も化粧も、さぞ無惨なありさまだろう。と思うのに、朱美人は全く気にならないというように、鷹揚に扇子を振った。
「陛下の朝の施術も無いから、ゆっくりしていなさい。それよりも今日は忙しくなるわよ、今のうちに寝ておくと良いわ。衣はあとで私のものを貸してあげましょう。華やかなものが良いわね。大舞台に上がるのだから」
「大……舞台、ですか?」
「ええ。生きるか死ぬかの大舞台よ。何しろ、宇航皇子への新たな審議が始まるそうなの。陛下にそれを聞いてから、四方に手を尽くしてよ。ああ昨夜のことは大体侍女から聞いているから、
「宇航皇子の……審議……!?」
美玉が深く問おうとしても、他に説明することがたくさんあると言って答えを得られない。ただ審議は審議であり、華貴人が動いてのことだろう、という事だけ。
あとは小鈴の扱いについて。鳥殺しの罪は保留となり、朱美人の預かりになると手短に伝えられるのみだった。
「あ、ありがとうございます……!」
感激をあらわにして礼をする小鈴を一瞥し、朱美人はすうっと鼻から息を吐いた。
「なに、あなたが役立つとみてそうしただけのこと。
曰く。手を回したのは、あくまで華貴人の策謀を破壊し、貴人を破滅させるためだという。
焦りから軽率に動くときをずっと待っていったのだとも。
「ただし、私はあくまで陛下を想う一人の貴妃。形勢不利となれば表立って助けられませんから。心して立ち回ることよ。楊女官。小鈴」
歳を感じさせぬ、
残酷な言葉だが、真っ直ぐと言われると不思議と嫌な気がしないものだった。彼女は美玉の想像の及ばぬほど、多くの歪みを見てきたのだろうから。
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