第23話 猛る蜻蛉に血は躍り

「チィッ! 寄るな! 寄……ッ」


 見苦しく手で払い、足をよろめかせる空燕。

 しかし数多の蜻蛉を払いきることは出来ず、その手に、顔に、肩に背に腰に脚に、蜻蛉が停まる。

 腹に停まった蜻蛉を潰そうとするその手の甲に、また蜻蛉が停まり溶け込んでいく。


「クソッ! あ゙あ゙あ゙あ゙!」


 蜻蛉を取り出したいのか、全身を掻きむしる。

 その手が腰に吊られた瓢箪にかかり、音を立てて落ちる。ひびが入り、漏れた薬酒が床に染みを作るが、それすら気づいていないようだ。

 

「なにを恐れておいでですの。木龍のかんを抑える蜻蛉ですから、無害なはずですわ」


 震える膝に活を入れて、立ち上がる。

 揉み合った後で疲れているとはいえ、やけに体がふらつく。重心がうまくとれぬまま、右、左、とぎこちなく脚を前に出す。

 空燕に何が起こるか、見定めなくてはならない。


 石の床に足を擦ってゆっくりと近寄る。蜻蛉は残り一匹となっていた。


 と、突然、空燕皇子が動きをとめた。

 棒立ちになった彼の顔が、正面から美玉に向いている。

 しかしその目は彼女の姿を映さず、焦点を失っていた。


 顔色は青く、整った鼻梁びりょうに添って大粒の水滴が一筋流れている。それは汗とも涙ともつかなかった。

 最後の一匹となった蜻蛉が、白い身体を空燕の眉間に溶け入らせた瞬間にも、眉の一つも動かさない。

 

「コ、空燕コンイェン皇子……?」


 声をかけた、そのときだ。

 

「う……ああ……。…………うわああああッッ!」

 

 彼は叫換きょうかんとともに身をひるがえし、よろめきながら走り出した。

 あっという間に出口へ繋がる階段へとたどり着くと、四足歩行のような態勢で駆け上る。

 突然のことに反応できずにいるうちに、彼は冷宮から逃げ出てしまったのだ。

 

 予想以上の反応だった。

 木龍を宿していないとしたら――そうだろうとアタリをつけていたのだが――ただ悲の心を過剰に植え付けられただけである。

 混乱を起こすのは分かっていた。が、あのように人が変わるとまでは思わなかったのだ。

 

 自分のしたことの醜さを思い知る。

 今まで威嚇として蜻蛉を見せたことはあった。

 だがとうとう、己の心を宿す蜻蛉を他者の心を壊すために使ってしまった。

 覚悟をして選んだことだ。後悔はしていないが、衝撃は受けている。同時に、気がたかぶっていることも自覚して、そんな自分に少しの嫌気をさした。

 

「……落として行って、しまわれたわね」


 誰に言うでもなく呟くと、床に落とされた瓢箪を拾おうと膝を折る。

 そのときにやっと、自分の右腕が動かなくなっていることに気が付いた。

 熱を持った痛みが波のように寄せてくるが、不思議と気にならない。柵に打ち付けた額もひどく痛むが、なんとも思わない。

 皮膚の下で蜻蛉たちが騒ぐのを感じる。

 なにか、悪い遊びを教えてしまったような。


 ――まあ、いいわ。今はそれより……。

 

小鈴シャオリン


 牢を振り向いて名を呼ぶと、少女はまだ柵の中にいた。鍵は開いているというのに、牢の隅で震えている。声は届いているはずなのに、返事はかえってこなかった。


「小鈴、出ましょう」


 もう一度呼びかける。


「あなたは無罪なのだからここに居る必要なくてよ。私は罪人だけれど、そうね、あなたを守ってくれる方のところへと送って行きましょう」


「ひっ! は、ひ、はい!」


 脅威である空燕コンイェンが去ったあとだというのに、彼女はひどく怯えていた。

 膝を震えさせながら、美玉の元へとやってくる。

 肩に手を載せると、びくりと体を固くするのが伝わってきた。

 

「? もう怖がらなくて大丈夫よ。あ、この瓢箪はあなたが持ってくれるかしら」


「ははは、はいっ!」


 やけに畏まって両手を差し出す小鈴に、瓢箪を渡す。空燕が来たという証拠になるだろう。

 

「……ああ、そうだわ。そちらの獄吏さん」


 首を回し、壁際で腰を抜かしている獄吏へと視線をやる。

 と、彼は喉の奥からヒュウという高い音を出した。


「今話したように、私は彼女を送って戻ります。ですが、上手く歩けませんので、階段を上るのに肩を貸していただけませんか?」

 

「ひ! そ、そんなこと、出来るわけが……」


 声を裏返し、壁に張り付くようにしながら獄吏が答える。

 やはり、素直には聞いてもらえないようだ。

 

「そうですよね、賄賂か何か差し上げないと駄目なのかしら。私、金銭は、持ち合わせていなくて」

 

 皮下の蜻蛉がますます騒めく。呼んでいないというのに。

 宥めるために袖をめくり、腕をさする。

 と、獄吏が息を飲む音が聞こえた。

 続けて、悲鳴のような返答がかえってくる。

 

「出っ! 出来ます! お支えします!」


「あら、ご親切に、ありがとうございます。彼女を送りましたら、ちゃんと戻りますからね」


 微笑みを向けると、なぜか獄吏は顔を蒼白にするのだった。




 

 肩を借りて冷宮を出ると、そこに駆けつけてくる長身の人影があった。

 

「美玉! 無事か? 何をしてい……る?」


 たいへんな勢いで迫ってきた宇航皇子は、初めは安堵からか顔を明るくし、次に美玉を支える獄吏に目を丸くし、最後には困惑の表情になった。

 さらに後ろに隠れている小鈴に気づいた段で、もはや呆れ含みの顔になる。

 

「なぜ出て来れた? それに、従えているのは獄吏だよな? 誰か賄賂でも送ったか?」

 

「すみません、長くなりますので説明は後程。宇航皇子こそ、謹慎では?」


 枯れた声で答えると、皇子はわずかに眉をしかめる。


「お前が冷宮送りになったと聞き気を揉んでいたのだが、つい先ほど空燕が出ていくのを見たと知らせがあってな。嫌な予感がして来てしまった。……まさか脱獄しているとは思わなかったが」


「脱獄ではありません。小鈴の無実はこの獄吏が聞いております。ですので、一旦は朱美人に預かって頂きたくて。私は彼女を送り届けたら戻るつもりで出てきたのですが、皇子がいらしたなら皇子にお願いしてもよろしいでしょうか」


「待て美玉、なにを言っている? おい獄吏! 小鈴! 説明し、」


 言いかけて、宇航は言葉を飲み込んだ。呼ばれた二人が揃ってひどく怯えている様子に戸惑ったようだ。

 さらに、美玉の額に視線をやり、顔を蒼くする。


「腫れているぞ! それにすごい汗だ! どうした!」


 獄吏を突き飛ばす勢いのまま、両肩を掴まれる。右の肩に鋭い痛みが走った。

 息が詰まり、喉の中で呻きが反響する。

 そのまま皇子の胸に倒れ込んだ。


「すみませ……右腕が恐らく、折れて」


「折れ……! 早くそれを言え!」


 言うやいなや、皇子は身をかがめて美玉を横抱きにした。

 折れた腕と痛む肩を労わってか、壊れものでも扱うかのように、背中に手が添えられる。

 その柔らかさに、ようやく張り詰めていた気持ちが緩むのを感じた。

 

 安心すると同時に、熱を持った痛みの波が強烈に寄せ返してくる。

 声にならない呻きを喉の奥でならす美玉の額に、沸騰する鍋の底のように、顔じゅうから汗がぷつぷつと生まれる。

 柵に打ち付けられた額も腫れ始めているのか、目の前が暗くなる。


 ――いけないわ、このまま冷宮を離れたら、戻れる気がしない。

 

「あの、わたしはいいので、小鈴だけ連れて行っていただけると」

 

「馬鹿を言うな。すぐにでも手当が必要だ」


「でも……」


「いいから、少し黙って目を瞑っていろ」


 怒ったように言われ、有無を言わさず運ばれる。

 小走りでついてくる小鈴を皇子の肩越しに見て、もう少し歩を緩めてあげて、と言おうとしたところで美玉の意識は途切れた。

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