第15話 想い通ずる夜のこと

「本当に、お優しいのですね」


「優しくなどない。とむらいなど自己満足でしかない。鳥は、俺に飼われたせいで死んだようなもの。…………俺を生んだせいで殺された母のように」


 皇子から絞りだされた声は低く転がり、二人の間にむなしく落ちた。

 突然の告白に、胸の芯が凍る思いがする。

 

「お母上は、殺された……のですか? 体が弱かったとは以前にお聞きしましたが」


「あの場では誰が聞いているともしれないからな」


 そうこぼしたあと、皇子は黙り込んでしまった。

 実際にはそう長くないだろう時間だったが、ずいぶん長く感じられた。真っ暗で出口の見えぬ洞穴を歩くような心細さが、あった。

 ゆっくりと、皇子が息を吐く。息とともに吐露されたのは、重い事実だ。

 

空燕コンイェンが生まれたころから、母は急に寝つきがちになった。対外的には病となっているが……分かるだろう? 俺と母は邪魔だった。低い位、後ろ盾のない身。それが母だ。薬を盛られたとしか思えない。俺を生んだせいで命を縮めたというのは、そういう意味だ」


 そう語る皇子の声は夜より暗く、涙は出ていないのに泣いているように見えた。思わず、彼の手を持ち上げて頬を寄せる。土の匂いが悲しく漂ってきた。

 

「それでも、宇航ユーハン様をお優しいと感じる私の心は変わりません」


「母も……母もこうしてとむらってやりたかった。だが、俺は幼過ぎた。危篤の知らせに動揺して、俺は……」


 言葉を詰まらせる皇子に、そっと身を寄せる。

 しんとした冷気が土から上がって来ていた。冷えた空気と、触れたところから伝わる熱が、二人の周りに渦を作るのが分かった。

 渦に乗せるように言葉を紡ぐ。

 

「龍に飲まれた。討伐の対象になり、宮城から逃れた。そうですよね?」


 美玉の言葉に、宇航皇子がぴくりと反応する。地面つけていた皇子の膝が揺れた。

 腕の中に潜り込むようにして顔を覗き込むと、驚いた顔をした彼が目を合わせてくる。


「覚えていたのか? あのときお前は赤ん坊みたいなものだったろう」


「思い出したのです。ついでに、赤ん坊とは失礼ですわ、ちゃんと歩いて喋っていました」


「随分とちびで貧相だったのが印象的でな。こんなちびが俺の命を救ってくれたのだと驚いたんだ」


 軽口を叩かれたのかとムッとしかける。が、向けられた眼差しはあくまで真っ直ぐだった。

 

 ――つがいのこと、いま、聞いてもいいのかしら。

 

を出すことで運命の番となるという伝承の通りだとしたら、皇子との出逢いの際に美玉はそれを出している。

 皇子が今までそれを教えなかったのは、なぜだろう。

 思い出してからずっと、考えては弱気になって打ち消していたことを今、訊ねようとしている。

 心臓がぐぐっと縮こまるのを感じた。

 

「で、あの、そのちびが私だと知っていたんですよね? なぜ、教えて下さらなかったのです? 私たちの蜻蛉とんぼはあのときに……その……つがいましたのに」


 口に出した瞬間に後悔が押し寄せてくる。

 戻れないかも、しれない。

 そう思うと自然とうつむいてしまう。自分の膝が震えているのが、裙の上からでも見て取れた。

 

 と、唐突に肩を抱かれ顎を持ち上げられた。

 なにかを思う間もなく、すぐそばに月のような瞳が迫る。

 月の色の瞳に見つめられると、すべてを見透かされるような心地がする。

 今、自分はどんな顔をしているのだろう。

 

「見ないでください」


 顔を逸らしたいが、顎を掴まれていて出来なかった。

 目線だけを逃す美玉の耳に、唇が寄せられる感触がある。熱が、近い。


「お前は俺を助けようという一心で、何も知らぬまま、ややこしい『運命の番』とやらになってしまったんだ。長じてから伝承を聞いて驚いた。お前が女官として現れたときにはもっと驚いた。それに、困った」


「困った?」


「俺の難しい立場にお前を巻き込みたくない。それに、皇帝の位など欲しいやつにれてやっていいと思っている。避けようとすら思っていた。ただ……」


「ただ?」


 耳に注ぎ込まれる声の甘い響きに、期待しそうになる。

 ただ、何だというのだろう。


「ただ、お前に惹かれるのは止められなかった。運命の番など関係なく、とにかく美玉メイユー、お前が欲しくなってしまった」


「……!」


 思わず耳を押さえて目線を上げる。

 と、鼻先が触れそうな距離に皇子の顔があった。

 

「答えを、聞いてもいいか?」


 そう訊ねてくる皇子の瞳の奥が、熱く揺らめいている。

 篝火かがりびに照らされた牛を思い出した。

 ドッ、ドッ、ドッ、と耳の奥で脈動の音がする。

 祭礼で鳴らされていた太鼓のように。


 眉間を射られて倒れる牛が、今ここに居る。


 美玉は自ら皇子の唇に自分の唇をよせ、そして、口づけた。


 夜風に当たっていた唇は、互いに冷たく、しかし次第に肉の温かさを持っていく。

 柔らかく、冷たく、温かく、乾いて、湿って、全てが溶けて太極たいきょくになる。

 輪になって飛ぶ蜻蛉のつがい。空に消えていくその姿を重ねて、体の芯からしびれるような幸福感が沸き上がってくる。

 ずっと求めていたものにたどり着いたと分かった。どうして今まで、押し込めていられたのかが分からなかった。


 ……唇を離してもなお、余韻よいんが残る。 

 言葉を失ったまま、どちらともなくもう一度口づける。

 地面に腰かけたままの二人の衣は、やがてすっかり夜露に濡れた。

 じっとりとしたその重さすら、互いを繋ぐ鎖のようで愛しかった。




 

 美玉が、寝起きしている室房へやに戻ったのは夜半過ぎのこと。

 長居したつもりは無いが、夜露に濡れたのもありすっかり体も冷えてしまった。

 そうっと部屋に入り、濡れた衣を脱いでしまうと、そのまま床に潜り込む。

 

 床に敷かれただけの寝床だが、それでも掛布に包まると安堵する。とはいえ薄い布だけでは心もとなく、貴重な着替えをその上に重ねる。

 体は芯から冷え、足腰に痛みがあった。朝から忙しかった上に、夜にも出歩いたのだから。

 衣を重ねたことで頼もしさを増した掛布にくるまり、深く呼吸をする。美玉は、たちまちのうちに眠りについた。

 

 翌早朝。

 猫のように丸まって眠っていた彼女は、同室の明明メイメイによって雑に起こされることになる。


「不良娘さん。いい加減起きないと、櫛も通してない髪で仕事に出ることになるわよ」


 そう言って乱暴に寝床から引っ張り出された。


「うう〜ん。……髪……化粧……今は無理よ……」


「馬鹿を言うんじゃないの! 尊い方々の治療を任されているという自覚を持ちなさい」


 そう言うと明明はずりずりと這う美玉の体を無理に起こす。

 奴婢ぬひの運んできた水で顔を洗い、化粧をほどこす。その間に、明明が髪に櫛を通してくれた。

「なんだかやけに念入りね」


「あなたいつも適当よ。今日は大切な用事があるのだから、きちんとなさいな」


「特別な用事?」


 首を傾げると、明明が丸い目を輝かせて顔を覗き込んでくる。


「私の主人に会わせてあげる」


「主人?」


「私の主人がそろそろあなたに直接お話ししたいと仰っているの。今日連れてきなさい、と」


 いつもながら唐突な物言いだけれど、不思議と驚きはなかった。

 明明は、いよいよ彼女の正体について教えてくれる気になったらしい。


「それっていつ? 朝に帝をおとなったあとかしら? ひるまでは中々に多忙よ。萬樹まんじゅ殿と西花さいか殿への往診があるもの」


「それについては、ちゃんと私の主人が手回し済よ。今日は皇子皇女への往診は無し。ところで……」


 眉を描いてくれていた明明の手がとまる。


「あなた、どこへとは聞かないのね。でもあって?」


「無いわよ。聞いてもどうせ分からないだろうと思ったの。まさかあなたの主人が陛下や皇子、皇女ではないでしょう。そのくらいしか私、覚えてないもの」


 軽く答えてみると、明明は眉筆を持ったまま天を仰いだ。

 

「あなた……貴妃の説明聞いていなかったの? はい、なんて答えたら大変な形の眉に描いてやるわよ」


ホア貴人は流石に知っているわよ。だってすごい顔でにらまれたもの」


「まったく。のんきすぎるわ。あなたってたまに賢そうな顔をするものだから、てっきり当たりでもつけているのかと思った。顔と中身が釣り合っていないのよね」


「失礼ね、私わりとさとくてよ。ちょっと人の顔と名前とを覚えるのが苦手なだけだわ」


 釣り合っていないのは明明メイメイだってそうだろう、と思いながら唇を尖らせる。

 すると、その唇をつんと摘ままれてしまった。


「今日あなたをお招きしている方はね、私の左遷させん元。チュ美人よ」


「!!」


 驚きの声を上げたい美玉だったが、口を摘ままれていたため、ままならなかった。

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