第15話 想い通ずる夜のこと
「本当に、お優しいのですね」
「優しくなどない。
皇子から絞りだされた声は低く転がり、二人の間にむなしく落ちた。
突然の告白に、胸の芯が凍る思いがする。
「お母上は、殺された……のですか? 体が弱かったとは以前にお聞きしましたが」
「あの場では誰が聞いているともしれないからな」
そう
実際にはそう長くないだろう時間だったが、ずいぶん長く感じられた。真っ暗で出口の見えぬ洞穴を歩くような心細さが、あった。
ゆっくりと、皇子が息を吐く。息とともに吐露されたのは、重い事実だ。
「
そう語る皇子の声は夜より暗く、涙は出ていないのに泣いているように見えた。思わず、彼の手を持ち上げて頬を寄せる。土の匂いが悲しく漂ってきた。
「それでも、
「母も……母もこうして
言葉を詰まらせる皇子に、そっと身を寄せる。
しんとした冷気が土から上がって来ていた。冷えた空気と、触れたところから伝わる熱が、二人の周りに渦を作るのが分かった。
渦に乗せるように言葉を紡ぐ。
「龍に飲まれた。討伐の対象になり、宮城から逃れた。そうですよね?」
美玉の言葉に、宇航皇子がぴくりと反応する。地面つけていた皇子の膝が揺れた。
腕の中に潜り込むようにして顔を覗き込むと、驚いた顔をした彼が目を合わせてくる。
「覚えていたのか? あのときお前は赤ん坊みたいなものだったろう」
「思い出したのです。ついでに、赤ん坊とは失礼ですわ、ちゃんと歩いて喋っていました」
「随分とちびで貧相だったのが印象的でな。こんなちびが俺の命を救ってくれたのだと驚いたんだ」
軽口を叩かれたのかとムッとしかける。が、向けられた眼差しはあくまで真っ直ぐだった。
――
皇子が今までそれを教えなかったのは、なぜだろう。
思い出してからずっと、考えては弱気になって打ち消していたことを今、訊ねようとしている。
心臓がぐぐっと縮こまるのを感じた。
「で、あの、そのちびが私だと知っていたんですよね? なぜ、教えて下さらなかったのです? 私たちの
口に出した瞬間に後悔が押し寄せてくる。
戻れないかも、しれない。
そう思うと自然とうつむいてしまう。自分の膝が震えているのが、裙の上からでも見て取れた。
と、唐突に肩を抱かれ顎を持ち上げられた。
なにかを思う間もなく、すぐそばに月のような瞳が迫る。
月の色の瞳に見つめられると、すべてを見透かされるような心地がする。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
「見ないでください」
顔を逸らしたいが、顎を掴まれていて出来なかった。
目線だけを逃す美玉の耳に、唇が寄せられる感触がある。熱が、近い。
「お前は俺を助けようという一心で、何も知らぬまま、ややこしい『運命の番』とやらになってしまったんだ。長じてから伝承を聞いて驚いた。お前が女官として現れたときにはもっと驚いた。それに、困った」
「困った?」
「俺の難しい立場にお前を巻き込みたくない。それに、皇帝の位など欲しいやつに
「ただ?」
耳に注ぎ込まれる声の甘い響きに、期待しそうになる。
ただ、何だというのだろう。
「ただ、お前に惹かれるのは止められなかった。運命の番など関係なく、とにかく
「……!」
思わず耳を押さえて目線を上げる。
と、鼻先が触れそうな距離に皇子の顔があった。
「答えを、聞いてもいいか?」
そう訊ねてくる皇子の瞳の奥が、熱く揺らめいている。
ドッ、ドッ、ドッ、と耳の奥で脈動の音がする。
祭礼で鳴らされていた太鼓のように。
眉間を射られて倒れる牛が、今ここに居る。
美玉は自ら皇子の唇に自分の唇をよせ、そして、口づけた。
夜風に当たっていた唇は、互いに冷たく、しかし次第に肉の温かさを持っていく。
柔らかく、冷たく、温かく、乾いて、湿って、全てが溶けて
輪になって飛ぶ蜻蛉の
ずっと求めていたものにたどり着いたと分かった。どうして今まで、押し込めていられたのかが分からなかった。
……唇を離してもなお、
言葉を失ったまま、どちらともなくもう一度口づける。
地面に腰かけたままの二人の衣は、やがてすっかり夜露に濡れた。
じっとりとしたその重さすら、互いを繋ぐ鎖のようで愛しかった。
美玉が、寝起きしている
長居したつもりは無いが、夜露に濡れたのもありすっかり体も冷えてしまった。
そうっと部屋に入り、濡れた衣を脱いでしまうと、そのまま床に潜り込む。
床に敷かれただけの寝床だが、それでも掛布に包まると安堵する。とはいえ薄い布だけでは心もとなく、貴重な着替えをその上に重ねる。
体は芯から冷え、足腰に痛みがあった。朝から忙しかった上に、夜にも出歩いたのだから。
衣を重ねたことで頼もしさを増した掛布にくるまり、深く呼吸をする。美玉は、たちまちのうちに眠りについた。
翌早朝。
猫のように丸まって眠っていた彼女は、同室の
「不良娘さん。いい加減起きないと、櫛も通してない髪で仕事に出ることになるわよ」
そう言って乱暴に寝床から引っ張り出された。
「うう〜ん。……髪……化粧……今は無理よ……」
「馬鹿を言うんじゃないの! 尊い方々の治療を任されているという自覚を持ちなさい」
そう言うと明明はずりずりと這う美玉の体を無理に起こす。
「なんだかやけに念入りね」
「あなたいつも適当よ。今日は大切な用事があるのだから、きちんとなさいな」
「特別な用事?」
首を傾げると、明明が丸い目を輝かせて顔を覗き込んでくる。
「私の主人に会わせてあげる」
「主人?」
「私の主人がそろそろあなたに直接お話ししたいと仰っているの。今日連れてきなさい、と」
いつもながら唐突な物言いだけれど、不思議と驚きはなかった。
明明は、いよいよ彼女の正体について教えてくれる気になったらしい。
「それっていつ? 朝に帝を
「それについては、ちゃんと私の主人が手回し済よ。今日は皇子皇女への往診は無し。ところで……」
眉を描いてくれていた明明の手がとまる。
「あなた、どこへとは聞かないのね。あてでもあって?」
「無いわよ。聞いてもどうせ分からないだろうと思ったの。まさかあなたの主人が陛下や皇子、皇女ではないでしょう。そのくらいしか私、覚えてないもの」
軽く答えてみると、明明は眉筆を持ったまま天を仰いだ。
「あなた……貴妃の説明聞いていなかったの? はい、なんて答えたら大変な形の眉に描いてやるわよ」
「
「まったく。のんきすぎるわ。あなたってたまに賢そうな顔をするものだから、てっきり当たりでもつけているのかと思った。顔と中身が釣り合っていないのよね」
「失礼ね、私わりと
釣り合っていないのは
すると、その唇をつんと摘ままれてしまった。
「今日あなたをお招きしている方はね、私の
「!!」
驚きの声を上げたい美玉だったが、口を摘ままれていたため、ままならなかった。
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