第16話 朱美人の元を訪ねしこと

 朝の施術の後のこと。

 司虫局に戻った二人は急ぎ身支度を整えてからチュ美人の元へと向かった。


 いつも通りで良いとは明明に言われたが、出来るだけ身ぎれいに整えたいところだ。

 何しろ第二位の位につく貴妃からの呼び出しである。彼女の住まう初凪はつなぎ殿に虫の匂いを持ち込んではとがめられてしまうかもしれない。

 陛下に施術を行う立場というのも、貴妃たちからは嫌がられやすいと聞く。


 ――上級妃様の御前おんまえはべるのは初めてだわ。苛烈な貴妃様だと、粗相をした女官がひどく罰せられるなども聞くもの。きちんとしなくては。


 皇帝陛下の治療にあたることはあっても、直接言葉を交わすことも、姿をはっきりと見ることもない。特に、虫篭むしかごを持って参上する決まりになってからは顕著だ。

 美玉メイユーも武官の家の娘として躾はされている。しかし家に籠って蜻蛉とだけ過ごしてきた身に、上級妃からの呼び出しは荷が重い。


「はあ……」


 初凪はつなぎ殿に近づくにつれ、気持ちは落ち着かなくなる。

 ため息が止まらなかった。


「もう! あなたのことは私がきちんとお伝えしているんだから、大丈夫よ」


「そうは言って、も、」


 入口に差し掛かろうというところで、言い合っていたときだ。

 目の前に音も無く現れた侍女の姿に、美玉は口をつぐんだ。

 その侍女は美玉と同じか少し低いくらいの身長で、体は細い。しかし伸びた背筋と、かもし出す雰囲気が、彼女をずっと大きく見せていた。

 地面から生えた竹のように、重心がゆらがない。

 

「待っていたぞ。チュ美人の命により案内する。来い」


 侍女の顔の上半分には濃い葉陰はかげがさしていた。

 顔色がやけに白い以外はどこまでも平凡な目鼻立ちをしていて、一度目を逸らしたら忘れてしまいそうな相貌そうぼうをしている。

 それがまた、底の知れなさを感じさせる。

 

「もたもたするな。同じことは二度言わぬ」


 侍女はそう言い残すと、さっさと背を向けて歩き出してしまった。

 それを追って足を踏み出した明明メイメイが、こちらを振り向いて言う。

 

「何してるの、早く着いていらっしゃい」


「え、ええ、そうね」


 我に返った美玉も急いで後を追う。

 侍女の歩は早く、普通に歩いているように見えるのに小走りでやっとついて行けるほどだった。


 そうして連れて行かれたのは、初凪殿の奥。普通の来客をもてなす部屋でないことは、調度を見てすぐにさとった。

 立派な卓と椅子が揃っている。

 置かれた棚や飾りひとつとっても、尊い相手をもてなす部屋と知れた。

 もしかして――皇帝陛下をお通しする部屋だろうか。


 とんでもない部屋に呼ばれてしまった。

 一体これから何が起こるのだろうか。


 しかしぐるぐると考えごとをしながら入口の前で深く礼をする。

 と、部屋の奥から溌剌はつらつとした声が響いてきた。


「よく来たわね、ヤン女官。无名ウーミィン、下がっていいわ」


 无名ウーミィン、つまり『無名』と呼ばれた侍女は、その場で深く礼をすると機械のように踵を返した。

 その身のこなしは俊敏で、足音ひとつ立てない。衣擦れの音だけがかろうじて鳴り、滑るように廊下を去って行った。


「し、失礼いたします。楊 美玉ヤン メイユー、参上いたしました」


「ご指示の通り、御前に連れて参りました」


 聞いたことのない凜とした声が、隣から聞こえる。

 明明メイメイはこんな声も出せるのか。と驚くしかない。


「礼を解いて入っていらっしゃい。取って食いやしないわ」


 ほほ、と柔らかな笑いとともに、部屋に焚き染められた香のかおりが漂ってくる。

 ゆっくりと立ち上がる音がして、しゃらり、しゃらり、と艶っぽい衣擦れの音と小さな足音がする。

 女である美玉もどきりとするような、官能的な音だった。逃げて、焦らして、逃げて……そんな音を追っているうちに桃源郷にさらわれてしまうような。


 緊張に固まっていると、明明に背中を押された。

 抵抗らしい抵抗もできず、美玉は部屋に足を踏み入れることになったのだった。




 

「この部屋の卓も椅子も、陛下をもてなすための物なの。私は卓につくけれど、お客様は座らせられなくて。申し訳ないのだけれど、ヤン女官はそちらの長椅子にかけてもらえるかしら」


 そう指示されて腰かけた椅子も、背もたれに凝った透かし彫りが施された高級品だ。


「あ、あの。この部屋に私共などを通してよろしいのでしょうか」


「ん? ああ、そういうことね」


 美玉の必死の問いに、チュ美人はころころと笑ってこたえた。


「陛下をもてなした翌日はね、午前いっぱい私はここに籠るのよ。だから内緒話をするのにちょうど良いというわけ」


「あっ、はい……」


 やはり陛下を通す部屋ではないか、と知れてますます気まずい。

 いっそ床に膝をついていたいものだが、名指しされた美玉は長椅子を辞することも出来ない。気休めに極浅く座った。

 なぜか傍らに立ったままの明明にこっそり恨めしげな視線をやる。と、突然、明明によって襟元に手を突っ込まれた。


「ちょっとごめんなさいね」という言葉とともに。 

 

 なにを、と反論する間も無く引き出されたのは、絹布けんぷである。

 宇航皇子の元に届けられた鳥の羽根が包まれていたあの布だ。


 絹布を手にした明明は、朱美人にうやうやしくそれを差し出した。


「ほう、これが例の……ね」


「はい。運んだ侍女は宇航皇子付きかと思われます」


「でしょうね。大方利用されただけで、何も知らないでしょうけれど。……この布もその侍女の物とはあまり考えられないわね。布の持ち主もめられているだけでしょうし」


「しかし、今のところ証拠はこの布だけでございます」


「分かっているわ。とりあえずは、侍女の尋問が必要ではないかしら? これを持ってきたのは宇航ユーハン付の侍女なのだから、まずはそちらを徹底して洗わせないといけないわね」


 目の前で繰り広げられる会話に目を白黒させていた美玉だが、朱美人の言葉にハッと周囲を見回した。

 宇航ユーハン皇子付きの侍女――それも恐らく何も知らず利用されただけの者を尋問し、罰する。そうなればきっと皇子は心を痛めるはずだ。

 殺された鳥にも「俺のせいで殺された」と悔やむ彼なのだから。


 そう考えていると、なにやら気配を感じた。昨夜、夜の道を歩いたときのような感覚。呼ばれるような感覚を。


 ――もしかしたら。


 居るのかもしらない。皇子が、この部屋に。

 そしてこの会話に心を痛めているのかもしれない。

 

「そ、それは、宇航ユーハン皇子は、ご納得、されて、いるのでしょうか」


 思わず声を上げた。


「ふむ? どういうことかしら?」


 朱美人の言葉に、ハッと体を固くする。

 言ってしまった。後宮での第二位の権力者に、口答えをしようとしている。

 次第に小さく体が震えだすのを、止められなかった。 


 そんな彼女の様子を、朱美人は大げさに目を細めて見やっていた。

 体の震えは収まらないが、一方で部屋に皇子が居るという確信は深まっていく。皮膚の下で蜻蛉がざわめき、番を求めている。龍に食われるまえに、番の蜻蛉を引き出したいと騒いでいる。


「ぬ、布、のほかにも、証拠は無いのでしょうか? あなたは、何も知らないであろう侍女を責めるおつもりなどないですよね? 昨夜そう仰ってましたものね、宇航ユーハン皇子!」


 名を口にして部屋の奥を見渡せば、皇子の気配が霧のように漂ってくる。

 最後には美玉は立ち上がり、確信をもって部屋の奥の衝立ついたての方へと目を向けた。


「見事ですわね。運命のつがい同士というのは呼び合うのですって? 宇航から聞いても半信半疑だったわ」


 朱美人の言葉に続き衝立の裏から現れたのは、昨夜愛を語らいあったばかりの相手……宇航皇子だった。

 

「朱美人様は本当に疑り深くておいでだ」


「慎重なのよ、ごめんなさいね」


「え? ええ? どういうことですか? 何も分かりません……!」


 混乱して二人を交互に見るしかない。

 皇子はそんな彼女にいたずらっぽい笑みを向けると、隣に立ち、腰を抱いてきた。


「今朝、朱美人様から知らせがあった。祭礼の件で華貴人が動き出しているから、至急会議をと」


「え、でも……ええと待ってくださいね。明明は、朱美人様に仕えているのよね」

 

 明明に視線をやりながら問うと、彼女からはいたずらっぽい視線と頷きが返ってくる。


「で、宇航皇子と朱美人の御関係は?」


「近所のお節介なおば様といったところだ」

 

 皇子が答えると同時に、スコン、と音がした。

 見ると、皇子が額を押さえている。

 床には畳まれた扇が落ちていた。一投のもとに黙らされたらしい。

 

「お姉様よ。私、李 秀鈴リー シュウリン……宇航ユーハンのお母様からもお姉様と慕われていたのだもの」


 すばらしい投げ手とみられる朱美人が、人懐こい笑顔で言う。


「……じゃあやっぱり俺から見たらおば様では無いですか」


「あら、今日は扇子が一本しか手元になくてよ。残念ね」


 そう言うと、朱美人はまろやかな曲線を描く体を揺すって、ほほほ、と笑った。

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