ルール

 夜。

 寝ている両親を起こさないよう気をつけつつ、僕はそろりそろりと階段を下りた。


 衣服は既に、薄手のジャンパーとジーンズへと着替えている。

 音を立てないよう慎重にドアを閉め、自転車に乗る。

 カゴの中で、玄関のシューズクロークから拝借した、非常用の小型懐中電灯が揺れた。


 自転車の後ろには由宇が腰かけている。

 確かにその存在は感じるものの、やはり重みは全くない。

 何とも奇妙な感覚だ。


 待ち合わせ場所である近所の公園には、既に蒼梧の姿があった。

 こちらも、半袖パーカーにカーゴパンツというラフないで立ちだ。

 背負ったリュックのジッパーからは、金属バットのグリップ部分が突き出している。


「そのバットは?」


 と僕が問うと、蒼梧は、


「必要になるかもだろ」


 と、何でもないような口調で答えた。

 バットが必要な修羅場に慣れている人間の返事だった。






 深夜の市街地には、昼間とは異なり、人っ子一人見当たらなかった。

 この辺りは、流石は地方都市というべきか。


 あるいは——魔女が何らかの手段で人払いをしているのかもしれない。

 思わずそんな想像をしてしまう程に、問題の廃ビルからは禍々しい雰囲気が漏れ出ていた。


 試しに侵入を試みたが、由宇が言っていた通り不思議な力に阻まれてしまい、ひびの入ったガラス扉に触れることはできなかった。


 暫くの間、僕らはビルに面した道路沿いの縁石に腰掛け、魔女の指定した時刻を待った。

 その間、僕らは取りとめのない話をして時間を潰した。


 由宇の声は蒼梧には届かないので、僕が通訳の様に橋渡しをした。

 蒼梧の生い立ちや、僕らが仲良くなったきっかけの話を、由宇は興味深そうに聞いていた。


「私、中村君ってもっと怖い人だと思ってた」


 由宇の言葉を伝えると、蒼梧は怪訝そうに、


「そうか?」


 と言った。


「そうだよ。いろいろ物騒な噂もあったし」


 そんな由宇の言葉に、


「噂?」


 と僕も首を傾げる。


「ほら、他校の不良八人に喧嘩を売って、勝ったとか」

「ああ——あれは、デマだよ」


 思わず笑った僕を、蒼梧が怪訝そうに見つめて言った。


「何?どの噂?」


 答えようと、口を開いたその時だった。


「ひっひっひっ……来たね、三人とも」






 不吉な笑い声に、思わず立ち上がる。

 建物の前にはいつの間に、由宇から聞いた通りの風貌の老婆が、黒猫を肩に乗せ立っていた。


「時間まであと少しあるが——せっかくだから始めるとしようか」

「俺達に、一体何をさせようってんだ?」


 魔女相手にも一歩も引かずに、蒼梧が問いかける。


「まあそう焦るんじゃないよ。お前さん、その小娘が見えてないんだろ?」


 こいつは、ちょっとしたサービスさ——そう言って、魔女はパチリと骨ばった指を鳴らした。

 途端、蒼梧は隣に立っていた由宇の方に素早く顔を向けると、僅かに目を見開いて呟いた。


「……椎名?」


 蒼梧を見つめ返し、由宇が信じられないといった表情で尋ねる。


「見えるの、私が?」

「ああ、声も聴こえる」


 驚く僕らに、魔女が告げる。


「生者の肉体は目に見えるし、話もできる。反対に、死者の魂は目に見えないし、話もできない。そんな宇宙の摂理を、アタシの魔法で反転させたのさ。その小娘に魔法をかけてね」


 さて、ここからが本題だよ——そう言って、魔女は由宇を指さした。


「お前達にはこれから、その小娘の体を探してもらう」

「体を?」


 思わず、オウム返しに聞き返す。


「そうとも——ナハト」


 魔女の呼びかけに応じて、黒猫——ナハトが、口を大きく開けた。

 ナハトが吐き出したのは、長方形の木箱だった。

 小学生の使う、筆箱ほどの大きさだ。


 話に聞いていた通り、木箱にはナハトの口内から伸びるつるが絡みついていた。

 まるでペット兼物置だ。体内が異次元にでも繋がっているのだろうか?


 魔女は蝶番で止められた蓋を開けると、中から一枚の茶色いお札を取り出し、顔の前でヒラヒラと振った。


「こいつを体に貼り付けて呪文を口にすれば、体は再び小娘のもんさ。ほおら——」


 魔女の手を離れた呪符が、風もないのに、くるくると宙を舞う。

 やがて目の前で静止した呪符を、僕は恐る恐る手に取った。

 呪符には、血の様に真っ赤な色で魔法陣が描かれていた。


「体があるのは、この建物のどこか。猶予は深夜の一時までだ。急ぐんだねえ」


 言い終えると同時に、強い風が吹き——顔をあげた時には既に、魔女と黒猫の姿はなかった。

 慌てて周囲を見回しながら、僕は叫んだ。


「お、おい——呪文って、何を言えばいいんだよ!?」


——ひっひっひっ、安心しなあ。


 高笑いと共に、魔女の声だけが辺りに響く。


——呪符を使おうと思えば、自然と呪文は頭に浮かぶ。ただし、一回でも呪文を唱えちまえば、その呪符はただの紙切れだ。くれぐれも気を付けるんだねえ——……


 それだけ言うと、声はそれっきり聞こえなくなった。


 僕は携帯電話の画面で、現在の時刻を確認した。

 二十三時五十四分。

 タイムリミットまで、約一時間。


 扉に触れられる様になったのを確認した蒼梧が、僕らを振り返り溜息をついた。


「どうやら、行くしかないみたいだな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕らの境界奇譚 阿炎快空 @aja915

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ