影
由宇は途方に暮れつつ自宅へ帰った。
家の扉はすり抜けることができた。
ベッドで眠る両親には触れることができず、いくら泣き叫ぼうが、起きる気配はなかった。
やがて空が白みはじめ、朝になっても事態は好転しなかった。
目を覚ました両親には相変わらず声は届かず、青い顔で肩を寄せ合う二人を眺めることしかできない。
いたたまれなくなった由宇は、自宅を後にして街へ出た。
自分の姿が見える人間がどこかに居るのではないか。
そんな淡い期待があったが、これから職場や学校へと向かうのであろう道行く人々は、薄く透き通った由宇に見向きもしなかった。
どうしようかと立ち尽くしていたその時だ。
「動いた……ほら見て……」「えぇ……本当に……?」「違うよ……風だよ……」
通りに面したビルの間から、女性たちのくすくす笑いあう声が聴こえてきた。
何かと思い顔を覗かせてみると、薄暗い路地に、ぼんやりとした三つの影が佇んでいる。
——この世の者ではない。
直感的に、そう悟った。
路地には空き缶や新聞紙といったゴミが散乱していた。
影達はくしゃくしゃのビニール袋を囲んで、何やらおかしそうに会話をしている。
思わず逃げ出しそうになった由宇だったが、すんでのところで踏みとどまった。
生きている人間相手は無理でも、彼らとならコミュニケーションが取れるのでは?
そんな微かな希望が、恐怖に打ち勝った。
「あ、あのう——」
由宇の声に、影達がピタリと笑うのをやめた。
三人には目も鼻も口もなかったが、その動きで、こちらを見たのがわかった。
よく見れば、三人とも非常によく似たシルエットをしていた。
腰のあたりまであるロングヘアで、ワンピースのような服を着ているようだ。
「あらぁ」「あなた」「新入りね」
影達が口々にこちらへと声をかける。
奇妙なことに、その声は三人ともそっくりで、由宇には全く区別がつかなかった。
「新入り?」
聞き返しながら、おずおずと路地に足を踏み入れる。
そうよぉ、と笑いながら、三人もこちらへと近づいてきた。
皆、足元はぼやあっと
「私達と一緒で」「あなたも死んで」「魂だけになったのでしょう?」
由宇の返事を待たずに、三人は続けた。
「今、私達の力でね」「そこのビニール袋を」「宙に浮かべようとしていたの」
「そんなこと、できるんですか?」
由宇の問いに対し、勿論よぉと、三人が声を合わせる。
「でも、すっごく集中しなくちゃいけないの」「あと、〝絶対にできる〟って、心の底から信じること」「けっこうコツがいるのよ?」
由宇は迷った。
やり方を教えてもらうべきだろうか?
ひょっとしたらこの後に控える、魔女との〝ゲーム〟とやらで役に立つかもしれない。
しかし、果たして彼女達が言っていることが真実なのかどうか、由宇には判断ができなかった。
何より、由宇には優先して訊きたいことが——訊くべきことがあった。
「あの、一つお聞きしたいんですけど」
「あら、何?」「かしこまっちゃって」「何でも聞いて」
「えっと、元の体に戻る方法って知りませんか?」
「「「——戻る?」」」
周囲の温度が、突然下がった。
正確に言うなら、由宇はもはや熱さも寒さも実感できない存在になっていたのだが——それでもなお、そう感じた。
「え、ええ、そうなんです——実は私、死んでしまった訳ではなくて——」
由宇はしどろもどろになりつつも、一生懸命にこれまでの経緯を説明した。
「——そんな訳で、体を取り戻すには、もう一回魔女のところに行かなきゃならないんです。でも、他に何か方法があるのであれば——あの、どうかしましたか?」
「何それ……?」「あんた、生き返れるの……?」「あんただけが……?」
それまでの親しげな口調から一変し、今や三人の声は、冷たく、底冷えのするようなものに変わっていた。
「あ、あの」
「許せない……」「許せない……」「許せない……」
三人の輪郭が次第に揺らぎ、徐々に一つに混ざりあっていく。
「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない」「許せない——……」
まずい。
このままここに居るのは、まずい。
由宇は踵を返すと、通りめがけて走り出した。
「「「待てえええええええええ!!」」」
背後から、叫び声が追いかけてくる。
足首に何かが絡みつく感触。
その場に倒れ込んだ由宇は、慌てて自分の足を確認した。
巻きついていたのは、漆黒の触手だった。
それは、先程まで三人の女だったもの——巨大な、不定形の影から無数に伸びる触手の内の一本だった。
「「「どぉこぉいぃくぅのぉぉぉぉぉお?」」」
録音した音源をスロー再生したかのような、不気味な声が狭い路地に響く。
もう駄目だ。
果たして魂だけの存在である自分に、死というものがあるのかはわからない。
しかし少なくとも、自分に待っているのはそれに限りなく近い状態の〝何か〟だ。
由宇は、本能的にそれを悟っていた。
しかし——救いの手は、意外なところから差し伸べられた。
けたたましい羽ばたきの音と、鳴き声。
突如として路地に舞い降りた十数羽の鴉達が、影を一斉に啄み始めたのだ。
苦悶の声をあげ、触手が足から離れる。
何が何だかわからないまま、由宇は必死にその場から逃げた。
一体どれほど走っただろう。
人通りの多い百貨店の前で、由宇は立ち止まった。
息は荒かったが、呼吸は不自然なほどすぐに落ち着いた。
派手に転んだにもかかわらず、手にも、足にも、擦りむいた痕一つない。
「はは……何これ……」
暫くの間、由宇はその場に
血と違って、涙は流れるんだな——そんなことを思った。
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