悪夢
台風の少し後からだと思う——そう前置きして、由宇は自らの記憶を振り返った。
ある晩を境に、由宇は連日、決まった悪夢に苦しめられるようになった。
四方を石の壁に囲まれた室内で、ひたすら誰かを拷問する夢だ。
拷問相手は毎回異なるが、共通しているのは皆が若く、そして——由宇の判断基準では——美しい女性である、ということだった。
多様な色の、髪、瞳、肌。
様々な人種の女性が居た。
彼女達は全員が裸に剥かれ、恐怖に怯えて震えていた。
部屋には、様々な器具が用意してあった。
例えば、座面に鉄の
例えば、革のブーツを履かせ、その中に煮えたぎった湯や油を注いだり。
例えば、鉄仮面を頭に被せ、ネジを巻くことで顔をきつく締めつけたり。
例えば、横たわった女の腹の上に、鼠がいっぱいに入った鍋を逆さにして乗せて、その鍋を炎で熱し、中の鼠を暴れさせたり——
行為を止めようとしても、体は言うことをきかなかった。
女達の血が流れ、肉が焦げ、頭蓋が砕け、腸が食い荒らされるのを、由宇は笑って眺めていた。
決して笑いたくはないのに——それでも意思に反して、夢の中の由宇は笑い続けた。
自分には何か、異常な性癖でもあるのだろうか?
誰にも相談できず、一人で鬱々と思い悩んでいた由宇だったが——ちょうど、昨日のことだ。
学校からの帰宅途中。
住宅街を歩きながら、今日もまたあの夢を見るんだろうかと溜息をついたその時だった。
「おい、お前」
ひどくしゃがれた声に呼び止められ、由宇は足を止めた。
振り向くと、そこには黒猫を肩に乗せた、
老女は黒い
その大きく見開かれた瞳には眼球が無く、空洞の中に漆黒の闇が広がっている。
ヒッ、と小さく悲鳴をあげる由宇に、老婆がにじり寄った。
「そいつは、アタシのだよ——」
後ずさろうとする由宇の肩をがっしりと掴み、老婆は叫んだ。
「——アタシの〝夢〟を返しなあっ!」
夢——
ああ、そうか。
これは、夢だ。
私はまだ、ベッドで悪夢にうなされているのだ。
恐怖と混乱の中、目の前が真っ暗になり——
どこか遠くの方で、猫がニャアオ、と鳴くのが聴こえた気がした。
気が付くと、由宇はとある建物の一室に立っていた。
コンクリートが剥きだしのがらんとした空間——どこかの廃ビルの中だろうか。
どれだけ時間が経ったのだろう。
窓の外はすっかり夜になっており、月明りが室内を頼りなく照らしている。
由宇は自らの足元に倒れている〝誰か〟の姿に気が付き、思わず悲鳴をあげて飛び退った。
埃の薄く積もった床に仰向けの姿勢で横たわっているのは、由宇と瓜二つな少女だった。
大きく見開いた目は瞬き一つせず、じいっと天井を見つめ続けている。
由宇は少女に、恐る恐る近づいた。
肩のあたりに、そっと手を伸ばす。
しかし、その手は何にも触れることはなく、少女の体をすっと通り抜けてしまう。
その時ようやく、由宇は自身の体がうっすらと透けていることに気が付いた。
(まさか——私は——)
「死んじゃあいないよ」
しゃがれ声と共に、前方に広がる闇の中から、黒猫を抱いた老婆がぬうっと現れた。
ひっひっひっと笑いながら、尖った靴の先端で、少女の体を軽く蹴ってみせる。
「一時的に魂を体の外に出しただけだ。幽体離脱、ってやつさ」
「あ、あなたは、一体……?」
アタシかい、と老婆が笑う。
「周りからは、〝
「魔女?」
「そうとも。あんたの住むこことは別の世界——〝境の世界〟に住む世にも恐ろしい魔女。それがアタシさ」
魔女がそこまで言った時、黒猫が計ったかのようにニャアオと鳴いた。
その口が、通常では考えられない程大きく開き——毛玉を吐くように、何かをゲエッと吐き出した。
それは、理科の実験で使うような、フラスコの瓶だった。
本来なら、とても体内に仕舞えるようなサイズではない。
瓶にはコルクで栓がされており、内側に薄紫色の不気味な気体を閉じ込めている。
瓶には、何かが巻き付いていた。
それは、緑の葉が茂った、植物の細い
黒猫の口内から伸びた一本の太い蔓が、触手の様に瓶に絡みついている。
蔓はフラスコを地面に落とすことなく、魔女の手元へと運んだ。
無事に瓶を渡したナハトは、伸ばした蔓をするすると呑み込んでいく。
「いい子だねえ、ナハト」
魔女が文字通りに、猫撫で声で黒猫に言った。
どうやら、ナハトというのが黒猫の名前らしかった。
魔女は瓶の中の気体を指差すと、
「これが、あんたがアタシから盗んだ夢だ」
と言った。
「それが、夢?」
そうさと頷き、魔女は眼球のない目を細めた。
「アタシはお気に入りの記憶を、こうやって閉じ込めておくんだ。眠る時、何度でも新鮮に楽しめるように。けれどもアタシの手下が、うっかり瓶を割っちまってねえ。逃げたコイツを追ってこっちの世界に来てみたら、あんたみたいな小娘の頭ん中に隠れてやがった。あんたも、他人の夢で随分と好き勝手楽しんでくれたみたいじゃあないか?ええ?」
「そんな——私、盗んでなんかいません!その夢が、勝手に頭に入ってきたんです!それにそんな夢、私は全然楽しくなんか——」
「おだまり!」
由宇の言葉をぴしゃりと遮り、魔女は続けた。
「そんなことはわかってんだよ、小娘が。わかった上で、アタシの気が済まないって言ってんのさ」
「そ、そんな……」
「だがまあ、あんたの言うことにも一理ある」
そこでだ、と言って、魔女は顎を片手でさすった。
「ちょっとしたゲームをしようじゃないか」
「ゲーム?」
「そうさ。明日の夜——真夜中の十二時になったらまたここに来な。こっちにもいろいろと準備があるんだ。それまでは、見納めになるかもしれないこの世界をよおく見ておくんだねえ」
あんたの居ない世界をさあ——そう言い終えた途端、魔女を中心として、四方八方に突風が押し寄せた。
なすすべもなく、由宇は壁際まで吹き飛んだ。
そのまま窓
衝撃はあったが、不思議と痛みはなかった。
怪我らしい怪我もない。
そこは市街地の大通りに面する、廃ビルの前だった。
見上げると、六階建てのビルの三階——その窓際に立った魔女が、由宇を見下ろし笑っている。
どうやら、あそこから落ちたようだ。
魔女はそのまま背を向け、部屋の奥へと姿を消してしまった。
由宇は、慌ててもう一度ビルに入ろうとした。
しかし、周辺には見えない壁のようなものが張り巡らされており、それ以上先へ進むことはできなかった。
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