臍
もはや、できることは何もなかった。
蒼梧を助けるには、僕はあまりに非力だった。
しかし。
結論から言えば、彼が助かるのに、僕が何かをする必要など。全くなかった。
「——ぐべっ!?」
奇妙な叫び声と共に少年が後方へと吹き飛び、鉛筆だらけの床を滑って僕のすぐ近くまでやってきた。
——蒼梧の放った右ストレートが、カウンター気味に少年の顔面に突き刺さったのだ。
そこからの蒼梧の動きは素早かった。
「何を——してんだって——訊いてんだよ」
そう言いながら、淡々と少年の顔面を殴り続けた。
呆気に取られる僕の眼前で、少年の顔がまるで粘土のように変形していく。
少年はしばらくの間、必死に抵抗しながら、
「あああ——うぉあ——あぁぁ」
と呻いていたが、やがてそれもなくなっていき、
「——っし、こんなもんか」
そう言って蒼梧が手を止めた時、その体は既に動くのをやめていた。
どうしていいかわからぬまま歪んだ顔面を見つめていると、突然、少年の体が崩壊を始めた。
いや、体だけではない。
身に着けた衣服すらも細かい粒子となり、サラサラと宙に溶けて消えていく。
少年が完全に消滅した時には、床を埋め尽くしていたはずの鉛筆も綺麗さっぱりに消え去っていた。
蒼梧は尻餅をついたまま固まっている僕の顔を覗き込むと、ぶっきらぼうに尋ねた。
「怪我は?」
「う、うん。君の方こそ、大丈夫?」
「ん?——ああ、俺?」
虚勢を張っている様子もなく、本当に何でもないことのように蒼梧は答えた。
「俺は、慣れてるからさ」
かつてこの町を、大きな水害が襲った。
水が引いた際、まだ五、六歳ほどの年齢の少年が、漂流物の積み上げられたガラクタの山の上で発見された。
少年は一矢纏わぬ状態で、すやすやと寝息をたてていたそうだ。
起きた時にはまともな会話すらできない、まるで赤ん坊のような状態だったという。
少年は、彼を保護した夫婦に引き取られ、「蒼梧」と名付けられた。
蒼梧は頭がよく、あっという間に言葉を覚えた。
また身体能力も高く、学校でのかけっこでも常に一番だった。
そんな蒼梧にも、一つだけ両親を困らせる悩みの種があった。
他の人には視えない〝おかしなもの〟が視えるというのだ。
「夜になるとたまに、怖いのがいっぱい来るんだ。それで、僕のことを脅かすんだ」
最初は本気にしなかった両親も、訴えが定期的に続くにつれ徐々に不安になっていき——
やがて、子供部屋で寝ていた蒼梧の腕に、誰かが強く掴んだような跡がついたのを機に、霊能者へ相談することを決めたのだった。
蒼梧は何人もの霊能者の元を訪れた。
しかし、お祓いはあくまで対症療法に過ぎず、しばらくするとまた新たな怪異が蒼梧を苦しめた。
「失礼ですが——あなた方は、血の繋がりがありませんね?」
霊能者達はお祓いの後、揃って同じようなことを口にした。
「出自がわからないのであれば、それでもいい。顔も知らぬ両親を敬えとも言いません。ただ——せめて時折、ご先祖様を想って手を合わせてみてください」
本来なら生きた人間を〝良くないもの〟から守ってくれるはずの先祖による加護が、蒼梧には全くないらしかった。
こうした状態が続くと、〝良くないもの〟が寄ってくるだけでなく、怪我や病気をしやすくなるといった弊害も生じるらしい。
彼らの言わんとしている事は蒼梧にも理解できたが、彼が先祖を敬うには、一つ大きな問題があった。
蒼梧には、
母親の腹から生まれた人間である以上、臍がないなどということはあり得ない。
蒼梧がただの人間ではないことは、勿論両親も早い段階で気づいていた。
しかし、幸い——という言い方は適切ではないかもしれないが。
二人は子供好きにも関わらず子宝に恵まれず、蒼梧のことを「神様からの贈り物」と解釈していた。
そんなわけで、蒼梧は化け物扱いされることもなく、二人の子供としてすくすく育てられたのだった。
とは言え、敬うべき先祖が存在しないというのは問題だった。
このままでは蒼梧は一生、忍び寄る怪異に怯えて暮らさなければならない。
だが、そんな両親の心配も
問題を解決したのは、蒼梧自身である。
蒼梧の身体能力は、年を重ねるごとにますます向上していった。
普通の人間であることを装うため、体育の時間や体力測定の際も手を抜かねばならない程だった。
小学校の高学年に上がる頃には、蒼梧は寄ってくる化け物達を、自分の力で追い払うことができるようになっていた。
中学生になると蒼梧を恐れてか、寄ってくる化け物自体が殆どいなくなった。
「そもそもさ——化け物って、殴ったりできるの?」
「向こうが触れるのに、こっちが触れないんじゃ道理にあわないからな。経験上、こっちが触れない様な奴は、大抵向こうもこっちには触れないから問題ない。無視してりゃあその内消える」
なるほど、そういうものか。
ちなみに、〝怪我や病気をしやすくなる〟という問題だが。
蒼梧は体が尋常でなく丈夫なため、滅多に病気にかからない。
それに運動神経が並外れているので、大抵のアクシデントにも対応できるし、万が一怪我をしても、すぐに回復してしまうとのことだった。
「けれども、変わってるよな、お前」
〝鉛筆少年〟を撃退した帰り道、蒼梧がふとそう漏らした。
「僕が?」
「ああ。普通、あの状況なら『助けて』って叫ぶだろ?でも、お前の場合は『逃げて』、だもんな」
変わってるよ、お前——もう一度そう言って、蒼梧は微かに笑った。
こうして、僕らは友達になった。
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