鉛筆

 中村蒼梧の話をしよう。

 蒼梧とは、昨年も同じクラスだった。






 その日の放課後。

 帰り際、駐輪場で忘れ物に気づいた僕は、慌てて校舎の中へと引き返した。


 途中、廊下を歩く足が止まった。

 これ以上進みたくない。


 面倒くささが理由ではない。

 クラスを代表し、怒って職員室に帰ってしまった教師を一人で呼びに行く時のような気の進まなさ。

 この先、絶対にろくなことが待っていないはずだという、確信めいた予感。


 しかし、いつまでも立ち止まってはいられない。教室だって、もうすぐそこだ。

 深呼吸し、扉を開ける。


 教卓の真ん前である僕の席に、丸刈りの男子生徒が座っていた。

 見知らぬ背中だ。


 てっきり教室を間違えたのかと思い、一旦廊下に顔を出して、クラス札を確認する。


「1年3組」——間違いない。


 僕は男子生徒に近づき、後ろからおずおずと声をかけた。


「あのう、そこ、僕の席——」


 そこまで言って、僕は押し黙った。

 彼の周囲の床には、何本もの鉛筆が転がっていた。

 どれもこれも、先端が下手くそに削られ、いびつに尖っている。


 男子生徒は小刀のようなもので、鉛筆をひたすら削り続けているようだった。

 僕は彼の肩口に、そっと机の上を覗き込んだ。

 これから手をつけるのであろう削る前の鉛筆が、これまた所狭しと散らばっている。


 僕が何も言えずにいると、彼はふいに手を止め、勢いよく立ち上がった。


「あは——あははははははは、はははは——はははははははハハハハハハハハハハハハハハ——!」


 不自然な程の大声で笑いながら、こちらを振り返る。

 露わになったその顔面は、恐ろしい異形のそれだった。


 白目と黒目とが反転した瞳。

 耳の辺りまで大きく裂けた口の中には、鮫のような鋭い歯がびっしりと並んでいる。


 僕は情けない悲鳴をあげながら、教室のドアを目指して一目散に逃げだした。

 しかしあと一歩というところで、何かに足を滑らせ転倒してしまった。

 鉛筆だ——いつの間にか教室には、床一面におびただしい数の尖った鉛筆が転がっていた。


 何とか立ち上がったものの、すぐさま襟を掴まれ、後方へと体を引かれた。

 同世代の少年のものとは思えない、物凄い力だった。

 勢いそのまま床へ投げ出された僕は、敷き詰められた鉛筆の上をごろごろと転がった。


 打ちつけた箇所が痛む中、うつ伏せの状態から必死に上体を起こす。


「よかったあ、いいところに来てくれて——」


 歌うように囁きながらこちらに歩み寄ってくる彼は、右手の指と指との間に三本の鉛筆を挟んで鉤爪のようにしていた。


「——ちょうど、が欲しかったんだあ」






 例の交通事故にあって以降、不気味な怪異に遭遇することは度々あった。


 たとえばそれは夕暮れ時、無人のはずの公園に響き渡る、子供達の楽しそうに遊ぶ声であったり。


 たとえばそれは休日の昼下がり、人通りの多い街角に佇む、細い手足の生えた不気味な肉塊であったり。


 たとえばそれは祭りの夜、空に咲く大輪の花に照らされてなお、一人だけ真っ暗なまま人込みに紛れ込んでいる人影だったりした。


 そして正直、それらに慣れ始めている自分が居た。

 だが——ここまで明確に加害性を持った悪意に触れるのは、これが初めてだった。


 危機感の、致命的な欠如。

 無様に後ずさりながら、僕は自分の油断を呪った。






 背中と後頭部が壁にぶつかり、逃げ場が無くなる。

 もう駄目だ、と諦めかけたその時だった。


「おい」


 声が聴こえた。

 開け放たれた扉の向こうに、誰かが立っているのが見える。


「何してんだ、お前?」


 それが、当時はほとんど会話をしたこともなかった同級生——蒼梧だった。

 少年が、ゆっくりと背後を振り返る。


「——逃げてっ!」


 僕が叫ぶと同時に、少年が走り出す。


「あは!——あはははハハハハハッ!」


 少年はけたたましい笑い声と共に、蒼梧へと飛び掛かった。

 

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