決断
幸村さんは二人組に、
「ここを塞いだら、その子達を家に送り届けましょう。その後で、最後の門に向かいます」
と声をかけ、一人、鳥居の方へと歩を進めた。
作業員達が、鳥居の周辺からそそくさと退避し、僕らの近くへとやってくる。
幸村さんは鳥居の前に立つと、両手を合わせ、ぶつぶつと呪文のようなものを唱え始めた。
蒼梧は相変わらず、じっと鳥居を見つめている。
「なあ、君」
声をかけてきたのは、角刈りの男だった。
申し訳なさそうな低く抑えた声で、彼は続けた。
「今は辛いだろうが——君の苦しみは、すぐに終わるはずだ」
「そんなわけ——」
——ないだろ、と怒鳴ろうとした僕を、
「まあ聞いてくれ」
と制して、彼は続けた。
「門を全て閉じた後、汐里さんは土地神様の力を借りて、この世界の歪みを正すんだ。すると、連れ去られた君の友達——由宇さんは、もともとこの世にいなかったことになる」
「それは——みんなの記憶から消える、ってことですか?」
いいや、と男が首が振る。
「記憶だけじゃない。世界は書き換えられ、彼女がこれまで生きた痕跡も、全て消滅する。家族や友人も、彼女を喪った悲しみを忘れ、いつも通りの日常へと戻る。記憶を保てるのは、儀式に関わった一部の人間だけだ」
「それじゃあ……僕は?」
「正直、判定が微妙なところだが——土地神様にお願いすれば、記憶を消してもらうことは可能だ」
忘れる?
僕が、由宇を?
——気がつくと、僕はぽつりと呟いていた。
「……記憶を」
「うん?」
「記憶を消さないようお願いすることも、できるんですよね?」
「まあ、できるだろうが——正直、あまりお薦めはしないな」
溜息をつく彼の表情は狐面に隠れて見えなかったが、その声は深い憐みに満ちていた。
「すまないね、こんな事しか言ってあげられなくて」
そう言うと、彼は僕から視線を逸らし、鳥居の方へと顔を向けた。
頭の中に、再び魔女の囁きが
——小娘が死ぬのは、あんたのせいだ。
僕は、拳をぎゅっと握りしめた。
角刈りの男が心配する通り、確かにこの記憶を抱えて生きていくのは、とんでもない生き地獄に思えた。
そうこうする間にも、幸村さんの詠唱は次第に大きくなっていき——やがて赤い鳥居が、ぼんやりと白く光り始めた。
発光する鳥居が端々から
その瞬間、僕の心は決まった。
僕は地面を蹴ると、鳥居に向けて走り出した。
角刈りの男が、
「お、おい!」
と焦った声で叫んだ。
鳥居は、前方の向かって右側——家と家との間の、細い路地の前に建っている。
そして鳥居から数歩離れたところで、幸村さんは儀式を続けていた。
幸村さんが異変に気が付き、こちらへと顔を向けた。
僕を見るなり、眉をしかめて詠唱を止める。
鳥居を潜るには、幸村さんをどうにかしなければならない。
脇をすり抜けるか――最悪、突き飛ばしてでも——
そんな物騒なことを考えていた僕だったが、実行する前に、僕の首根っこを誰かが掴んだ。
「こら、やめるんだ!」
角刈りの男だった。
必死に振り切ろうとするが、筋肉質な腕が、僕をぐっと引き寄せる。
「暴れるんじゃあ——ぐあっ!?」
叫び声と共に、男が僕から手を離す。
つんのめった僕が振り向く前に、蒼梧の大声が耳に届いた。
「先に行けっ!」
どうやら、惚けた状態からは回復したらしい。
ありがとう、蒼梧!
心の中で感謝しつつ、僕は再び走り出した。
「お、おい!取り押さえろ!」
茶髪の男が、慌てて作業員達に指示を出す声が響く。
一方の幸村さんは、焦る様子もなく、ゆっくりとこちらに向き直った。
かと思えば、何やら両手で複雑に
途端——幸村さんまであと数歩というところで、僕の体は目に見えない何かに衝突した。
全身にバチリと電流のようなものが走り、背後へと弾かれる。
「うわっ——」
尻餅をつきつつも、僕は痛みを堪え、必死に前方を凝視した。
——見えた。
結界、とでもいうのだろうか?
道を塞ぐようにして、幸村さんの前に、エネルギーの塊が壁をつくっていた。
「くそっ——」
僕は立ち上がり、再び結界へと体当たりした。
しかし、結果は先ほどと同じだった。
「諦めなさい」
仰向けに倒れて苦悶の声をあげる僕に、静かな声で幸村さんが告げる。
「あなたの気持ちはわかります。しかし、その辛い記憶も——」
「——忘れるからなんだっていうんだ!」
僕は力の限りに叫んで、上体を起こした。
視界が滲んでいるのは、痛みのせいだけではない。
魔女、幸村さん、『囲』——そして、無力な自分。
全てが許せなかった。
「存在自体が無くなるだのなんだの——そんなの、僕らの——こっち側の、勝手な言い草じゃないか!記憶が消えようが、痕跡が消えようが、彼女はあっち側に——堺の世界に、ちゃんと存在してる!魔女に拷問を受けて、あと数時間で無惨に殺されるんだ!そうだろ!?」
「それは——」
幸村さんが口ごもり、その表情が辛そうに歪む。
同時に、結界の力が弱まったのが僕にはわかった。
——幸村さんも、葛藤しているのだ。
ちょうどその時だった。
僕の背後から獣の
空気がビリビリと震え、全身が総毛立つ。
思わず振り返ると、そこには地面に倒れて呻いている『囲』の面々と、空に向かって吠えている蒼梧の姿があった。
どうやら全員、蒼梧に返り討ちにあってしまったらしい。
蒼梧が雄叫びをやめ、こちらに顔を向ける。
血走った眼球に、血管がびっしりと浮きあがった顔面。
いつもの蒼梧とは、まるで別人だった。
身を屈めた蒼梧が、幸村さん目掛けて失踪する。
——速い。
蒼梧の運動神経の良さはよく知っているつもりだったが、それはこれまでとは桁違いの、人間離れした動きだった。
一陣の風と化した蒼梧は、僕の傍らをあっという間に通過した。
バチイッ——結界が火花を散らす音が響く。
一瞬遅れて振り返ると、蒼梧の拳が、弱まった結界へと突き刺さっていた。
結界全体に、少しづつ
「馬鹿な——」
信じられないといった表情で、幸村さんが呟く。
次の瞬間、結界が粉々になって飛び散り——衝撃で、幸村さんは数メートル後方へと吹き飛ばされた。
背中から地面に落ちた幸村さんが、苦しそうに呻き声をあげる。
あの様子では、すぐには立ち上がれないだろう。
「修、行くぞ!」
僕を振り返ってそう声をかける蒼梧の顔は、既にいつもの彼へと戻っていた。
僕は返事をする代わりに立ち上がり、門番の居なくなった鳥居へと駆け寄った。
鳥居の向こうは、あの日と同じ、濃い霧が漂っていた。
崩壊が進み、かろうじて門としての体裁を保っている鳥居を、蒼梧、そして僕の順で潜り抜ける。
門が閉じる寸前、幸村さんが何かを叫んだが、よく聞き取れなかった。
別に構わない。
どうせ、
ごめんなさい、幸村さん。
きっと、正しいのはあなた達だ。
頭のいい大人だったら、こんな無茶な真似はしないのだろう。
けれども、残念ながら。
僕は馬鹿な中学生で——しかも最悪なことに、恋をしていた。
【第一部 完】
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