思い出
その晩、僕は夕食を手早く済ませ、二階の自分の部屋へと急いだ。
ドアを開ける直前、コンコン、と軽くノックをする。
「はい」
部屋の中から聞こえる、短い返事。
中に入ると、由宇が勉強机の脇の本棚に目をやっているところだった。
指定の時間になるまで、由宇は自分の姿が見える僕と行動を共にすることになったのだ。
好きな女子と、自分の部屋で二人きり——恐ろしい魔女との対決が控えていなければ、まさに夢のような時間だったろう。
「好きなんだね」
「え!?」
動揺する僕に視線を移し、微笑みながら由宇が続ける。
「本——いろいろ読んでて」
「あ、ああ——まあね。ジャンルに拘らず、いろいろ読むかな、確かに」
「この家に来るのも、ホント久しぶり」
由宇はそう呟くと、質量のない体で、ストンとベッドに腰をおろした。
「えっと、椎名さんは——」
「名前でいいよ。昔みたいに」
「——由宇、は、本は読むの?」
うーんと唸って、由宇が天井を仰ぐ。
「最近はあんまり読まなくなっちゃったかなあ……漫画なら読むけど」
「ああ、そうなんだ」
「修君は今でも読んでるんだね。幼稚園の頃から、ずっと」
「うん、そうだね」
相槌を打ちながら、僕は遠い昔——まだ由宇と仲が良かった頃のことを思い出していた。
僕らが幼稚園の年長組の時の話だ。
当時は、先生が皆に絵本を読んで聞かせる「おはなしの時間」というものが存在した。
その日も、僕らの担任だった女性教諭は、皆に絵本を読んでくれていた。
しかしクラスの大半は、ふざけ合ったりして、まともに先生の読み聞かせを聞かなかった。
怒ってしまった先生は、物語の半ばで読むのをやめ、「おはなしの時間」を廃止してしまったのだ。
皆は大して気にしていなかったものの、ストーリーに没頭していた僕は大変なショックを受けた。
だからその翌日。
僕は先生が一人でいる時に、おずおずと近寄って、こうお願いしたのだ。
「先生。さっきの本、自分で読んでみてもいいですか?」
先生は少し驚いた顔をした後で、嬉しそうに微笑み、絵本を渡してくれた。
そして、絵本を読んでいる僕に、
「ねえ、一緒に読んでいい?」
そう声をかけてきたのが、当時クラスメイトだった由宇であった。
僕らは肩を寄せ合い、少しずつ本を読み進めた。
片方が音読をし、片方がそれを聞く。疲れたら読む側と聞く側を交換する。——そんなことを繰り返し、最後まで読み切った。
それからも先生は時折、僕ら二人の為に、自宅からおすすめの絵本を持ってきてくれた。
次第に先生の持ってくる本から挿絵は少なくなっていき、本の厚みも増していった。
なかなか大変だったが、漢字にはルビが振ってあったし、難しい表現は先生に意味を教えてもらった。
ある日、とうとう園の自由時間では読み切ることができない分量の児童書に僕らは遭遇した。
帰り際、先生は僕らにこう提案してくれた。
「良かったら貸してあげようか?一冊しかないから、順番になっちゃうけど」
「それじゃあ、修君が先でいいよ。終わったら貸して」
由宇はそう言ってくれたが、僕は首を横に振った。
「いいよ。僕は由宇ちゃんと一緒に読みたいから」
由宇の顔がパアッと輝いた。
「あ、でも、もしも由宇ちゃんが早く読みたいようだったら、先に貸してあげるよ」
そんな僕の提案に対し、今度は由宇が首を振った。
「ううん、私も一緒に読みたい!」
それから暫くの間、教室の隅で、僕ら二人の読書会は続いた。
「本を読むようになったのは、あれがきっかけかもね」
本棚を見つめながら、僕が一人で懐かしがっていると、由宇が突然、
「——ねこねこランドの大冒険」
と呟いた。
「え?」
「ほら、先生が怒って、途中で読むのやめちゃった絵本」
「ああ——そんなタイトルだっけ?」
「内容、覚えてる?」
うーん、と唸りながら、僕は首を捻った。
あれは確か、擬人化された猫達が暮らす、架空の王国が舞台の冒険物語だったような気がする。
主人公は、真っ赤なマントをなびかせ、腰には剣を携えた白猫だ。
しかし、肝心のストーリーはというと——
「……いや、流石にぼんやりとしか覚えてないなあ」
僕がそう答えると、由宇は、
「そっか」
と、小さく呟き、ベッドから立ち上がった。
「えっと、何て名前だけ、主人公?なんか、独特なネーミングだったよね?にゃは太郎、じゃなくて——にゃはなんとか、みたいな——」
「私も忘れちゃった」
由宇は軽い調子でそう答えると、笑顔を僕に向け言った。
「ねえ——全部終わったらさ、お薦めの本教えてよ」
「う、うん、わかった」
頷きながら、僕は決意を新たにした。
そうだ。僕らは絶対、そんな日常へと無事に戻ってくるのだ。
僕と、蒼梧と、由宇——三人全員で。
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