右目

 鍵を閉めると同時に、それまで存在していたドアが、ふっと消滅した。

 無機質なコンクリートの壁を前に、僕らはへなへなと地面に崩れ落ちた。


「今度こそ、死ぬかと思った……」


 息を整えつつ、新たな部屋を見渡す。

 つくりは先ほどの部屋と一緒だが、今度は何一つ物を置いていない。

 だだっ広いだけの、がらんとした空間だ。


 部屋の奥にはやはり出口があったが、扉は設置されておらず、上へと昇る階段が見えた。

 危険な気配も特にない。

 広さが多少気にはなるが——難関の後の「休憩スペース」といったところだろうか。


「にしても、いつの間にあんな力を使えるようになったの?」


 僕が尋ねると、由宇は、


「いや、ホント、偶然っていうか——とにかく、必死だったから」


 と、照れた様に笑った。


「二人とも、話は後だ」


 蒼梧がスマホを取り出し、時間を確認する。


「あと二十分だ。行こう」


 蒼梧の言う通りだ。

 僕は必要のなくなった鍵をポイと捨てると、よしっ、と気合いを入れて立ち上がった。


 そのまま、奥の階段へと向けて歩き出した僕らだったが——部屋のちょうど中央あたりで、僕は足を止めた。

 先を歩いていた蒼梧と由宇が、何事かと僕を振り返る。


「どうしたの?」


 尋ねる由宇に、僕は歯切れ悪く答えた。


「いや……何ていうか、このまま、この部屋を通り過ぎちゃ駄目な気がする、っていうか」

「あの出口は罠ってこと?」

「ううん、別に、あの先に危険があるわけじゃないんだけど……ただ、その……」


 駄目だ、上手く言えない。

 僕はそれ以上の説明を諦め、後方を振り返った。

 部屋の隅——僕らから見て右手の角のあたりをじっと見つめる。


「あの辺が気になるのか?」


 蒼梧の言葉に、僕は躊躇ためらいがちに頷いた。

 確証はない。

 こうしている間にも、残り時間は減っていく。

 しかし——


「ごめん。ちょっとだけ待って」


 僕は左目を左の掌で覆うと、もう片方の右目で、部屋の隅をじっと見つめた。






 先に述べた通り、僕は小学六年の春休み、自動車事故で臨死体験をした。

 入院中は、夜中に不気味な笑い声や足音を聴いたり、金縛りにあったりと不可思議な経験もしていたが、退院して暫くはそうしたこともなかった。


 ほっとした僕だったが——休み明けの、ある日のことだ。

 その日、僕は学校で行われた健康診断で、視力検査を受けた。


 昔から、目は良かった。

 親が読み取れないような遠くの看板の文字なども、はっきり認識することができた。

 しかし、その日は違った。


 例年の様に、僕は黒いスプーンのようなもので片目を隠し、指定された円のどの部分に切れ目があるかを指で示していった。


 左目は何の問題もなかった。

 問題は、右目だ。


 検査表の前に、黒い点のようなものが、幾つも漂っていた。

 少し前に、ボクシング漫画で知った「飛蚊症ひぶんしょう」という奴だろうか?


「わからないかな?」

「あ、ちょっと待ってください——」


 医者の言葉に焦りながらも、点の集合をよくよく見つめる。

 すると、それらは徐々に増殖していき——やがて、人の形を形成した。


 驚きのあまり棒立ちになる僕に向かって、その人影は一歩一歩、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 医者が何かを言っている気もするが、体が動かない。


 僕のすぐ眼前まで、真っ黒な顔が近づく。

 そして。

 

——ネエ、ミエテルノオ?


 それは男か女か、年よりか子供かも判別不能な、奇妙な声でそう言った。

 僕は悲鳴をあげ、その場に尻餅をついた。


 落ち着くまで保健室のベッドで休んだ後、結局、その日は早退することになった。

 おかげで残りの検査は後日、地元の病院で受けることとなったのだが——それはともかく。


 気配や視線を感じても、何の姿も視えない時。

 右目だけで注視すると、普段は見逃してしまうような、存在が儚かったり、姿を隠しているような怪異の姿を見つけることができた。


 ちなみに。

 右目だけで鏡を覗き込むと、僕の右目はぼんやりとした黒いもやに覆われているように見える。

 一応、蒼梧にも確認してもらったが、やはりその靄は他人には視認できないようだった。


 基本的に、この方法を使わねば視えない様な者達に害はないし、進んで見たいものでもない。

 だから、この体質に頼ることは殆どなかった。

 しかし——






 暫く見つめても、部屋の隅には何も見えてこなかった。

 やはり気のせいだったか?

 いや——


 僕は左目を隠したまま、隅に向かって歩き出した。

 瞬きをなるべくしないようにしながら、姿を潜めているものと、必死に〝波長〟を合わせようとする。


 やがて、角まであと数メートルという位置まで近づいた時——ぼんやりとした〝それ〟の輪郭を、右目が捉えた。


「やっぱり……!」


 足を止め、徐々に像を結び始めた〝それ〟を、まじまじと見つめる。


「何か見えたのか?」


 隣に並んだ蒼梧が、僕に尋ねた。

 僕は頷き、そっと左目を覆っていた手を下ろした。

 経験上、一度見えてしまえば、しばらくは見失う心配はない。


「何となく気になってたんだ。ビルの前での、魔女の言葉が」


——生者の肉体は目に見えるし、話もできる。反対に、死者の魂は目に見えないし、話もできない。そんな宇宙の摂理を、アタシの魔法で反転させたのさ。その小娘に魔法をかけてね。


「摂理の反転——魔女はそう言った。だから、もしかしたらって思ったんだ。、って」


 僕の右目には、部屋の隅に無表情で立ち尽くす、半透明な由宇の姿が映っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る