絶望

「畜生——放せ!この糞猫っ!」


 空中で、蒼梧が足をばたつかせる。

 蒼梧の力でも引きちぎることができないとは、ナハトの口から伸びるつるは、かなり丈夫なようだった。


 闘えるのは僕一人だ。

 バットを構える手が震える。

 できることなら、今すぐ逃げ出してしまいたい。

 しかし——ここで逃げる訳にはいかない。

 

 僕は必死に自分を奮い立たせた。

 しっかりしろ、守谷修。

 いつも頭の中で思い描いていたはずだ。

 好きな女の子を——由宇を颯爽さっそうと、危機から救う自分の姿を。


 バットをぎゅっと握りなおし、僕は足を踏み出した。

 いや——踏み出そうとした。


 しかし、その瞬間。

 蔓がしなり、蒼梧の体は、背中から勢いよく地面に叩きつけられた。


「ぐぁっ……!」


 短い苦悶の声があがり、罵倒がやむ。

 

「ひっ——」


 僕の口からも、思わず情けない声が漏れた。

 声だけではない。

 みなぎらせたはずの気力も、すっかり体の外へと漏れ出てしまった。

 目の前で、しかも親友に対して振るわれる容赦のない暴力には、それだけの力があった。


 その後も二度、三度と打ちつけられ——蒼梧は動かなくなった。

 しゅるしゅると音を立て、ナハトが蔓を口内へ仕舞う。

 僕にはそれを、ただただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。


「おやあ、どうしたんだい?好きな女を助けたいんだろお?」


 そんな意地悪な声を合図に、赤と青——二体の怪物が、こちらに向けて歩き出す。

 その表情が、「次はお前の番だ」と言っていた。


 無理だ。

 あの蒼梧ですら、猫一匹にこのザマなのだ。

 それにこいつらは、今や何のハンディも背負っていないのだ。

 僕一人で敵うわけがない。

 

 後退しようとした足がもつれ、僕は無様に尻餅をついた。

 手を離れたバットが地面を転がる。

 

 ああ、どうしてこんなところに来てしまったのだろう。

 頭の片隅では、きっとヒーロー気分だったのだ。

 由宇との間に運命めいたものを感じ、一人で舞い上がってしまっていた。


 勘違いも甚だしい。

 僕は馬鹿だ。

 大馬鹿だ。


 怪物達が近づいてくる。

 

 嫌だ。

 死にたくない。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない——






「——もうやめてえっ!」


 由宇の絶叫が、屋上に響き渡った。

 怪物達がぴたりと足を止め、由宇の方を振り返る。

 魔女に踏みつけられながらも、由宇は必死に声を張り上げた。


「もう、いいから——ゲームは、私達の負けでいいから——!」

「おや、そうかい?——小僧、あんたもそれでいいかい?」

「あ……あ……」


 魔女は、震えてまともに返事もできない僕を嘲笑いながら、


「沈黙は了承とみなすよ」


 そう言って、由宇の背中から足をどけた。

 魔女の肩へ、ナハトが飛び乗る。

 

「けれども、残念だったねえ」


 僕へと歩み寄りながら、魔女が続ける。


「あたしはね、もしもあんたが手下共に殴りかかったら——その勇気に免じて、三人とも無条件で家に帰してやろうと思ってたんだ」

「う、う——」

「嘘じゃあないさ」


 魔女は僕のすぐそはまで近寄ると、しゃがみこんで、僕と目線の高さを合わせた。


「知っての通り、魔女は嘘をつけない——なんて言っても、この世界の人間には寝耳に水か。ま、別に信じなくてもいいけどね。でも、本当に気づかなかったのかい?あたしの手下共に、全く殺気が無かったことに」

「そ、それは——」


 魔女の言う通りだ。

 屋上に上がって以降、この二体の怪物からは、ちっとも危険な気配がしなかった。

 しかし。


「はあん——びびっちまって、自分の直感を信じ切れなかったみたいだねえ」


 真っ暗な瞳が、僕の心を覗き込む。


「小僧、よおく覚えておきな——」


 魔女は顔を寄せると、僕の耳元で囁いた。


「——


 そうして、ひっひっひっ、と笑いながら立ち上がり、僕に背を向け歩き出す。


 向かう先では、由宇が両膝をついた状態でこちらを見ていた。

 今にも泣き出しそうな表情で、小刻みに震えながら。

 その背後では怪物達が、主と同様に、にやにやと笑っていた。


 魔女は由宇の近くまで行くと、こちらを振り返ることなく、パチンと指を鳴らした。


 魔女、ナハト、怪物達、それに由宇。

 彼らの姿がぐにゃりと歪み——そして、消えた。


 世界一間抜けで情けない、死に損ないの僕を残して。

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