鴉
それは今から二年前——小学六年の春休みのことだった。
その日の午後、僕は図書館に行くため、市街地を自転車で走っていた。
前のカゴに放り込んだ鞄には、これから返却する予定の本が数冊入っていた。だいぶ前にイギリスでベストセラーとなった、ダークファンタジーシリーズだ。
商店街の交差点で、僕は自転車を止めた。
横断歩道の向こうでは、電線に止まった無数の
今日はやけに鴉が多いな。
頭の片隅で、そんなことを思った。
信号が青に変わり、僕はペダルを強く踏みしめた。
友を救うために半吸血鬼となってしまった主人公は、果たしてこの先どうなってしまうのか—— 頭は既に、小説の続きでいっぱいになっていた。
そのせいもあったのだろう。
僕は信号を無視して突っ込んできたトラックに、全く気がつかなかった。
耳をつんざくブレーキ音。
体がバラバラになったかのような凄まじい衝撃。自転車ごと跳ね飛ばされ硬い地面を転がった僕は、仰向けの体勢で道路に横たわった。
薄れていく意識の中、上空を飛び交う鴉達の姿をぼんやりと眺める。
「ギャハハハハ!」
「ギャハハハハ!」
「ギャハハハハ!」
まるで人間のような、楽しげな
ああ、成程。
こいつらは、これが見たくて集まっていたのか——と。
人は死の間際、脳裏にそれまでの人生が走馬灯のように浮かぶのだという。
その時の僕が、まさにそうだった。
産声をあげた僕に、優しい笑顔を向ける父と母。
幼稚園の頃から、足が速いのが自慢だった。
小学校の運動会では、何度もリレーの選手に選ばれた。
中学に入ると、途端に勉強についていけなくなった。
両親に怒鳴られることが増え、しばらくすると、今度は何も言われなくなった。
二人の期待は、出来のいい弟へと集中していった。
高校では酒や煙草の味を覚えた。
悪い仲間が増え、家に帰らない日が続いた。
喧嘩に明け暮れ、他校からも恐れられる存在となった。
自分は不死身だと思っていた。
しかし、それは誤りだった。
その日は、朝から腹痛が続いた。
病院に行くと、そのまま入院が決まった。
それが、長い入院生活の始まりだった。
家族は、次第に顔を見せなくなっていった。
そして今夜、俺は死ぬ。
突然の急変。
ナースコールを押すこともできない。
ああ、俺の人生は一体何だったんだ?
畜生。
畜生。畜生。畜生。畜生。
嫌だ——死にたく——ない——
……
……
——いいや。
違う。
違うぞ。
俺は——僕は、ひとりっ子だ。
弟なんていない。
そもそも、僕はまだ小学生だ。
当然、酒も飲まなければ煙草も吸わない。
だから、これは違う。
間違っている。
これは——これは、誰か、別の——他人の走馬灯だ。
気がつくと、僕はベッドに横になり、見慣れない天井を見つめていた。
暗い。どうやら夜中のようだ。
そうだ。たしか僕は、図書館に行く途中で車に轢かれたのだった。
では、ここは病院か?
そう思いながら顔を横へ傾けると——枕元に、人が居た。
少年だ。
とは言っても、僕よりずっと年上だが。
高校生くらいだろうか。
床に膝をつき、枕の脇の手すりを掴んで、僕と同じ目線で、じいっとこちらを睨みつけていた。
瞳が血走っているのが、常夜灯の微かな明かりだけでも充分にわかる。
人は、こんなにも誰かを憎むことができるものなのか——そんな事を思わせる、鬼気迫る表情だった。
恐怖で動けずにいる僕に向かって、彼は絞り出すような声で、
「畜生……あと少しだったのに……」
そう呟き——そして、死んだ。
肉体から魂が離れ、単なる〝物〟となったのが、感覚的にわかった。
手すりから手が離れ、床にどさりと崩れ落ちる。
隣りのベッドのカーテンは開け放たれており、誰も寝てはいなかった。おそらくは、倒れている彼のものだろう。
病室は二人部屋で、他に人はいなかった。
どうすればよいかわからず、少年の亡骸を見つめる僕の耳に、不快な笑い声が飛び込んできた。
「ギャハハハハ!危ないところだったなあ、坊主!」
驚いて僅かに上体を起こすと、ベッドの足側——フットボードの上に、一羽の鴉が止まっているのが見えた。
「気づくのがあと少し遅かったら、代わりにお前が死んじまってたぜ?」
鴉が口をきいたことに驚き、何も言えずにいると、
「んん?——ああ、そいつか?」
何を勘違いしたのか、鴉は少年の亡骸に顔を向け、訊かれてもいないことをベラベラと喋りだした。
「そいつ、今夜になって突然容態が急変してな。気まぐれに教えてやったのさ。『身代わりを立てればいいんだ』ってな。しかし小僧、お前は運がいいぜ」
「運が、いい…?」
「おうよ。夢の中で夢だと気づくのは難しいからな。それに、お前がトラックに轢かれた時だってそうさ」
俺もあの時、仲間達と事故を見物してたんだぜ、と鴉が嗤う。
「俺はお前が死ぬ方に賭けてたのによお——ま、とは言え本当に運が良けりゃあ、そもそも短期間に二回も死にかけたりはしねえか!ギャハハハハ!」
鴉は再び大嗤いすると、翼を広げ、窓の方へと飛び立った。
鴉は閉まっているはずの窓をすり抜け、夜の闇へと消えていった。
「——守谷さん、目が覚めたんですか?」
突然声をかけられ、僕は驚いて振り返った。巡回の看護師さんだった。
看護師は倒れている少年に気がつくと、すぐに医師を呼んだ。
「■■さん、■■さん」
医師が繰り返し少年の名前を呼ぶ。
先ほどまでは自分のものとして認識していたその名前も、今となっては他人のものの様に感じる。
いや——事実、他人のものなのだ。
記憶の細部も、潮が引くように薄らいでいく。
そうだ、きっと夢だったのだ。
覚えのない走馬灯も、喋る鴉も、全ては僕の妄想だ。そうに決まっている。
やがて遺族や葬儀屋のスタッフがやってきて、遺体を引き取っていった。
僕は寝たふりをして、布団を頭までかぶってやり過ごした。
走馬灯で見た家族と、実際の家族が同じ顔をしているのか、確かめる勇気はなかった。
そうして、一睡もできぬまま迎えた朝。
僕は布団の上に、何か黒い物が落ちているのを見つけた。
おそるおそる手を伸ばし、確認する。
——それは、鴉の羽だった。
この日以降だ。
僕が、この世ならざる者達の姿を見たり、声を聴くようになったのは。
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