三章

第17話 恋人の練習

淑恵シュフェン様が住まう離宮に美青年が出入りしているらしい』


 そのうわさがまことしやかにささやかれだしたのは、志偉ヂーウェイの髪を整えてからひと月後のことだった。

 どこであっても、噂とは広がるものだ。

 辺境である八仙花バーチエンファも例外ではない。

 内容が内容なだけに年頃の女性たちが真偽を確かめに来ないわけもなく、離宮の上空には連日、着飾った龍であふれかえった。


「見て。サラサラとした御髪は、月の光を撚り集めたみたいね」


「金の目は上質な琥珀よりも神々しく、艶々と煌めいているようだわ」


「すっとした鼻梁、品の良い形をした唇、鋭い顎。どれを取っても素敵」


「いえいえ、何をおっしゃるの。一番はフワフワのお耳に決まっているじゃない」


 志偉を褒め称える囁きが、天から降り注ぐ。

 人である淑恵には聞こえなかったが子晴ズーチンには聞こえているようで、ニマニマともの言いたげに通り過ぎては、淑恵の興味を引くように仕向けてくる。


「……今日はなんて言っているの?」


「おや、気になるんですか?」


「気になるに決まっているでしょう。だって、私の婚約者のことなのよ?」


 髪を切って、服を整えただけ。

 それだけなのに、志偉は驚くほど見違えた。


 上空で騒ぎ立てる龍たちの言葉通りだ。

 金茶色の髪は清潔そうに短く切り揃えられ、それによって印象的な金の目がよく見えるようになった。

 尖った顎は少々神経質そうにも見えるけど、時折ふと見せる甘ったるい微笑みが相殺している。


 自信なさげに丸めていた背は、危害を加える者がいなくなったせいか少しずつシャンとしてきた。

 大きな体に近寄りがたさを覚えるけれど、耳や尻尾がいい意味で台無しにしてくれるおかげで、淑恵はすっかり志偉に──特に彼の耳と尻尾もふもふに夢中である。


(提案してきた時の志偉様、とってもかわいかったなぁ)


 思い出すだけでニヤけそうになる。

 あれは、引っ越してから一週間ほど経った頃だっただろうか。


 鍛錬後にお茶を飲んでいたら、志偉が歩み寄ってきた。

 彼はひざまずくと、教えを請うように真摯しんしな目で見つめてくる。


「淑恵。普通の婚約者同士って、何をするものなのか知ってる?」


「え?」


「僕たちの婚約が政略的なものだということは知っている。けれど、僕は淑恵と仲良くしたい」


「志偉様……」


 淑恵は胸がジーンと熱くなるのを感じた。

 まさか、志偉も同じ気持ちだったと思わなかったからだ。


「私も。私も、仲良くしたいって思っていたの」


「本当⁉ 嬉しいな」


「私も嬉しいです」


 勢いのまま告げれば、しょぼくれた子犬のような顔をしていた志偉の表情がパッと明るくなる。

 鋭い目がやわらかく細められて、つられて淑恵もふにゃりと笑った。


「でも、あの、普通の婚約者同士って恋人の期間があってそこに至るわけですよね? 私たちにはまだ早いと思うのですが」


「うん、そうだね。じゃあ、普通の恋人が最初にやりそうなことってなんだろう?」


「手を握る、とか?」


「そうか! じゃあさっそく、してみてもいいかな?」


 初対面の時のよどんだ空気が嘘のようだ。

 今の志偉は吹っ切れたように明るい。


宸睿チェンルイ様と離れて、本来の志偉様を取り戻しつつあるのかもしれないわね)


 志偉の甘えるようなしゃべり方は、淑恵の母性をグラグラと揺さぶってくる。

 心を許されている――と、つい警戒が解けてしまうのだ。


「どうぞ……?」


「触るね?」


「うん」


 大きな手がぎこちなく近づいてくる。

 骨は太めで、指が長い。筋肉もしっかりついていて、力強そうだ。


(虎の姿の時は肉球もあるのかしら。いつか、見てみたいな)


 触れた指先は、淑恵よりもあたたかい。

 ゆっくりと少しずつ、力加減を探るように手を握られる。


(緊張しているのかしら。少し湿っているみたい)


 気持ち悪いとは思わない。

 真剣なまなざしに、手を握るくらいでこんなにも緊張する彼を愛らしく思った。

 緊張するほど意識されているように思えて、ドキドキしてくる。


「私からも握り返していい?」


「もちろん!」


 淑恵の問いかけに志偉はギョッとした顔をして。

 そして慌てて、答えた。


「龍族の女性から聞いたのだけれど、手を握るにもいろいろ種類があるみたいなの」


 ただつないでいただけの手を握り直す。

 指の間に指を差し入れてキュッと握ると、隙間なく密着した。


「これは大丈夫?」


 握った手から顔を上げて志偉を見上げると、彼は信じられないものを見たように目を見開いていた。

 綺麗な蜂蜜色の目が、パチパチと瞬く。

 ややあって、確かめるように手を握り返してきた。


「……これは、すごいな」


 何か感じるものがあるのか、志偉はしみじみと言った。


「こんなに気持ちいいことがこの世にはあっただなんて……」


 手を握るだけで、この感激ぶりである。

 子晴が聞いたら呆れて天を仰ぎそうだと思いながら、淑恵は同意するように微笑んだ。

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