四章
第24話 水仙の言葉
実家に帰ります宣言から、一週間が経った。
最初はすごく腹が立っていた
今やすっかり、モフモフ不足である。
「もう意地を張るのはやめようかな……」
「あんな
「そうなんですよねぇ……」
あの日、数年ぶりに戻った淑恵を、宮城の侍女たちは嬉々として迎えてくれた。
淑恵の頰にできた傷を見て、「お嬢様のお肌に傷が!」と数人が悲鳴を上げ、ベテランの侍女長は即座に薬師を手配。
彼女たちの手厚い看護と言う名の必要過多な干渉のおかげで、傷はあっという間に完治した。
今はもう、跡形もない。
龍族の医療技術は、
顔も見たくないと言い切った淑恵の願いを叶えるため、永安は登城を禁止された。
そのせいでたまってしまった仕事は、見かねた淑恵が代行している。
「もとから彼の机は常に書簡だらけだけれどね」
「そのあたりは成長していないんですね」
「でも、以前よりはいい男になったと思わないか? 少なくとも筋肉馬鹿からは卒業したと思うのだが」
「それは、まぁ……」
とはいえ、積み上げられていた書簡はどれもこれも簡単なものばかり。
仕事ができないというより、整理が下手なのだろう。
終わっているものまで一緒くたにされている。
「宇翔様の後継なんて、本当はデマなんじゃないの……?」
「いやいや、そうでもないのだよ。淑恵は苦手みたいだけれど、永安は一族でも人気があるし、けっこう面倒見も良いんだ」
「永安様が後を継がれた時は、補佐が必須というわけですね」
「そうだね。それがいいと思う」
意味深な笑みを浮かべる宇翔から淑恵は目をそらした。
淑恵が補佐になってもいいんだよ?
そう、言われ前に。
(事務仕事は嫌いじゃないけれど、永安を支えるのはちょっと……)
淑恵がムムムと眉根を寄せていると、侍女長がお茶を淹れながら「そうなんですの」と口をへの字にした。
「いつもは私どもがお尻を叩いてやらせていたのですけれど……。お嬢様のおかげで殿方のお尻を叩かずに済みました。ありがとうございます」
「ありがとうございますって……。えっ、物理的に叩いて仕事を促していたの? 比喩じゃなくて⁉」
「ええ、実際に叩いていました」
大真面目な顔でうなずく侍女長に、淑恵は思わず吹き出してしまった。
侍女長は
彼女のモフモフも素晴らしいが、キリッとした目つきをしているせいか、
兎の一族は基本的に童顔だ。
彼女も見た目こそ若いが、実はけっこうな年齢なのだという。
子晴が言うには、彼女は子晴の母親よりも年上らしい。
お茶の用意を済ませた侍女長は、「失礼します」と一礼して退室していった。
ここのところ、宮城全体が慌ただしい雰囲気に包まれている。
というのも、宇翔の思い付きで大掛かりな断捨離を始めたところだったらしい。
そんな時に淑恵が来てしまったものだから、忙しい彼らをさらに忙しくさせてしまっている。
申し訳なくて帰りたい気持ちもあるが、頑固な気持ちが邪魔をして素直に帰れない。
そのせいで淑恵は、毎日を
(素直に帰ったら、また甘やかしてもらえるのかしら)
志偉に抱っこされて
いつでもどこでも触らせてもらえるモフモフの代わりを求めて、屋敷内のあらゆる布物を触わりまくるという禁断症状まで出始めている。
「……はぁ」
「覚悟を決めて、帰るかい?」
卓の上に用意された
宇翔の手を見つめながら、淑恵は自己嫌悪するようにため息を吐く。
「帰りたくないわけでは、ないのです」
「じゃあ、帰る?」
「いえ……帰ってもどういう顔をしたら良いのかな、とか……考えることはいろいろあるじゃないですか」
禁断症状まで出ているのに、この期に及んでまだあがき足りないらしい。
口をついて出るのは言い訳ばかりで、淑恵は嫌そうに顔をしかめた。
「ねぇ、淑恵。いいことを教えてあげようか?」
まるで孫を見つめるお爺ちゃんみたいな温かくて柔らかな微笑みを浮かべて、淑恵を見つめる宇翔。
そこに、
臆病な淑恵の背中をそっと後押しするように、彼は優しく言葉を紡ぐ。
「いいこと?」
「君の部屋に毎日飾られている花、知っている?」
「ええ、侍女たちが毎日生けてくれています」
宮城に残してある、淑恵の部屋。
数年ぶりに訪れたのに、そこはちっとも変わっていなかった。
公主の私室にふさわしい
離宮の庭に咲いているような
ソワソワと落ち着かない気持ちになるので、気遣うふりをして花を飾ることを遠慮したけれど、侍女たちは「まぁまぁ」と曖昧な笑みを浮かべて花を生けていく。
「どんな花?」
「たしか……黄色の水仙でしたね」
「花言葉を知っているかい?」
「いえ、そこまでは……」
「花言葉は、私のもとに帰ってきて。他には、愛してほしい、愛に応えてください、だったかな。今の時期、水仙なんてなかなか手に入らないだろうに……一体、誰からの贈り物だろうね?」
そう言って、宇翔はにやけた口元を隠すように茶碗へ口をつけた。
黄色の水仙。
花言葉。
こんな心遣いをする者は、一人しか知らない。
「……宇翔様」
「なんだい? 淑恵」
「志偉様と初めて顔を合わせた日、彼は熱心に花について教えてくれました。あの花の名前は、花言葉は、咲く時期は……。耳に心地よい声で、丁寧に教えてくれたのです」
一生懸命にもてなそうとしていた、あの日の彼を思い出す。
能面のようだった顔が少しずつほころんでいくさまは、まるで花のように美しかった。
「……志偉様」
「毎日毎日、門の前に置いてあるんだって、侍女長が言っていたよ。獣化したとしても、ここへ来るのは大変だろうに」
外界から侵入しづらく、安全に暮らしていられる。
空を飛べる龍ならば、この地で暮らすことになんの苦労もない。
けれど、空を飛べない志偉がここへ来るには、相当な苦労を要する。
しかも、それを毎日。
一輪の水仙を大事に咥えて崖を登り下りする虎を想像して、淑恵は胸が熱く、痛くなった。
「私……」
「こんな世の中だからね……。縁は大事にしなさい。いつ摘み取られても、おかしくないのだから」
「……はい」
「じゃあ、お茶を飲み終わったら帰る?」
「……宇翔様。花を摘んでからでも、良いでしょうか?」
淑恵の願いを、宇翔は優しく微笑んで「いいよ」とうなずいた。
「それくらいなら待ってあげよう」
「ありがとうございます」
お茶を飲み終えた淑恵は、庭で花を手折った。
花の名は、
花言葉は、私の思いを受け止めて。
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