第25話 逆鱗の警鐘
龍化した宇翔の背に乗り、
上空から見下ろす離宮の庭は、すっかり雪に覆われている。
「冬だね」
雪化粧した庭を見下ろしながら、
ほんの少しの愛しさが混じる苦味のある
この時期の宇翔は毎年そうだ。
冬に咲くアジサイが枯れる時、いつも寂しそうにしている。
白いアジサイは、宇翔にとって特別思い入れがある花なのだろう。
淑恵は今も「白いアジサイに思い入れがあるのですか?」と聞けないでいる。
聞けない代わりに、淑恵はことさら明るい声でおどけるように言った。
「ええ。今年は花見ができませんでした」
「来年すれば良い。次は、
「ふふ。そうですね。宇翔様と志偉様と、
「……そろそろ降下するよ。気をつけて」
「はい」
いつものようにゆっくりと庭の一角に降り立った宇翔は、淑恵を下りるのを待って人化した。
その顔には、ほんの少し疲れが見て取れる。
(珍しい。宇翔様が疲れを見せるなんて)
気のせいかな、というくらいのささいな変化。
ずっと見てきたからこそ、気付けた変化だ。
いつも柔和な笑みを浮かべている宇翔が目の前でそんな顔をしていることに、淑恵は少しの違和感を覚える。
「あの……宇翔様?」
「なんだい、淑恵」
「お疲れなのでは?」
「ふむ。そう、見えるかい?」
「いつもより、その……少しだけ疲れているように、見えます」
淑恵の言葉を聞いて、宇翔はペタペタと自分の顔を触った。
首をかしげながら、よく分からなそうにしている。
「うーん、自分じゃよく分からないな」
へラリと笑う宇翔に、淑恵は焦燥感を覚えた。
(なんだか、嫌な予感がするわ)
不安げに顔を歪めて見つめる淑恵に、宇翔はしばらくヘラヘラと笑っていたけれど、長く続かなかった。
急に真顔になったかと思えばクシャッと表情を崩して、今にも泣きそうな、今まで一度だって淑恵が見たことがなかった顔をして彼女を見る。
「宇翔様? あの……」
「あぁ、すまない。君を見ていたら急に感慨深くなってしまって」
宇翔は泣き笑いのような顔をして、それから目尻ににじむ涙を拭うように顔を下に向けた。
(違う)
宇翔を見て、淑恵はなぜかそう思った。
根拠なんて、なにもない。
でも、彼が本当に言いたかったことはそんなことではないと分かる。
(宇翔様は、こんなことで泣くような御方ではない)
宇翔は優しいけれど、いつだって冷静だ。
まるで夜空にぽっかりと浮かぶ月のように優しく、時に地に落ちた月の光のように冷たく非情にもなれる。
「すまないな。歳を重ねると涙腺が弱くなって困る」
そう言って、宇翔は袖口で涙を拭いながら笑う。
次に顔を上げた時、宇翔はいつものように柔和な微笑みを浮かべていて。
淑恵は、得体の知れない不安がますます大きくなっていくのを感じた。
「じゃあ、我はここで帰るよ。志偉ときちんと仲直りするように。いいね?」
「え?……あ、はい」
離宮の玄関で別れようとする宇翔に、淑恵は戸惑う。
いつもの彼なら、淑恵が志偉と仲直りするまで近くにいるはずだ。
それなのに、なぜか今日に限って早々と帰ろうとしている。
謎の不安が、淑恵の心の中に暗い影を落としていった。
じわじわとむしばんでいく影は、彼女を焦らせる。
「宇翔様、今日は寄って行かないのですか?」
淑恵は思わず、宇翔の手を取った。
宇翔は淑恵の手をやんわりと握り、もう片方の手でポンポンと撫でる。
白くて、冷たくて、大きな手が、淑恵の手を包み込んでいた。
(宇翔様の手って、こんなに筋張っていたかしら? こんなに皺が刻まれていた? )
記憶にあるそれよりも、随分と年を重ねているように見える。
まるで、なにかを吸い取られてしまったかのように。
「我は娯楽に飢えているけれど、わきまえる時だってあるさ」
「次は、いつ来てくれますか?」
「おやおや、今日の淑恵は甘えん坊だねぇ。志偉の影響かな?」
「そういうわけじゃ……」
「今まで一度だって、次はいつ来るのか聞いてこなかっただろう?」
苦笑いを浮かべて、宇翔は淑恵の手を離した。
宇翔の冷たい手が、淑恵の手をすり抜けていく。
たったそれだけのことなのに、淑恵はどうしようもなく不安に駆られた。
まるで、これで終わりのような。そんな、気がする。
(ここで帰しては、いけない)
淑恵の勘のようなものが、警鐘を鳴らす。
ここで宇翔を帰したら終わりだ、と。
「たぶん、不安……なのです。婚約者ができたのも初めてですし、男の方とけんかをすることも初めてで……宇翔様、お願いです。もう少しだけ。もう少しだけでいいので、一緒にいてくれませんか?」
すがるように見つめ続けたら、降参というように宇翔が小さく息を吐いた。
「分かった。でも、少しだけだよ。我だって、仕事があるからね」
「ありがとうございます!」
龍族は身内に甘い。たとえ義理であろうと、娘と定めたら娘なのだ。
(私は一体なにが不安なのかしら)
逃げられないように宇翔の腕を取る淑恵。
最近はめっきりすることがなくなったそれに、宇翔は「仕方のない子だね」と困った顔で笑った。
それでも彼は、淑恵を振り払ったりしない。
「せめて、お茶を一杯出させてください。手作りの
「淑恵のお菓子か。それは、食べていかないといけないな」
宇翔から漂うどこか危うい雰囲気を感じ取りながら、淑恵は彼を見上げた。
日の光を浴びて、彼の喉にある
綺麗なはずのそれが警告しているような気がして、淑恵はますます不安に駆られた。
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