第26話 不慮の事態

 ギィと音を立てて扉が開かれる。

 宇翔ユーシャンの腕に手を置いたまま、淑恵シュフェンは玄関扉をくぐった。


 玄関ホールに入ると、中央で子晴ズーチンが行ったり来たりしていた。

 軽く握った拳を口元に当てて、考え事をしているらしい。


 よほど集中しているのか、淑恵たちの気配にも気がついていないようだ。

 気配に敏感な彼女にしては、かなり珍しい。


「ごめんなさい、子晴。今、帰ったわ」


「子晴? ホールでうろうろしてどうしたんだい?」


「お嬢様!」


 声を掛けると、子晴はうつむいていた顔をハッとさせて上げた。

 血のように赤い目がさらに充血していて、思わず淑恵は目を見開く。


 緊張の糸が切れてしまったように、目を潤ませる子晴。

 驚き動きを止める淑恵に、子晴は駆け寄ってきて肩をつかんだ。


「なに⁉ 私、なにかやらかした?」


「違うのです」


「離宮に置いてけぼりにしたのがそんなに嫌だった? 私がいない間、離宮のことを任せられるのは子晴だけだったから……。でも、ごめんなさい。私、あなたに甘えすぎだったかもしれない」


 子晴が泣きそうになるなんて、よほどのことである。

 淑恵はおろおろしながら子晴をなだめた。


「ちがっ。違うのです、お嬢様」


「珍しく取り乱しているね、子晴」


「あっ、宇翔様もご一緒だったのですね」


 子晴は、そこでようやく宇翔の存在に気がついたようだった。

 数秒遅れて淑恵の肩を無意識につかんでいたことにも気がついて、信じられないような顔をして手を下ろす。


「一体、なにがあったんだい?」


「今朝方お出かけになられた志偉ヂーウェイ様が、お戻りになっていないのです。こんなことは、初めてで……」


 子晴の声は震えていた。

 普段ひょうひょうとしている彼女が動揺をあらわにしているなんて、間近で見ても信じられない。


(考えたくないことだけれど、それくらい非常事態だということね)


 聞きたいことは、たくさんある。

 志偉様はどこへ行ったの? いつからいないの?

 部屋に花が生けてあったということは、少なくとも今朝は宮城に来たということよね?


 出かかった質問を、淑恵は呑み込んだ。

 すぐ隣からただならぬ緊張を感じて、とてもじゃないけれど声をかけられるような状況ではない。

 凍るように冷たい空気が漂ってきそうな雰囲気に、淑恵の唇が強張った。


「子晴、詳しく報告を」


 宇翔の冷静な声に、少し我を取り戻したようだ。

 子晴は気を取り戻すように一呼吸し、宇翔に向き直る。


「お嬢様が宮城へ行かれてから、志偉様は毎朝どこかへお出かけになられていました。数時間ほどでお戻りになっていたので、おそらく行き先は宮城――お嬢様のところだろうと察し、放っておいたのです。ですが……今日は半日経っても戻ってきていません」


「志偉は従者を連れてきていただろう。姿が見えないけれど、志偉を探しに出ているのか?」


「いいえ。実は、品希ピンシーも姿が見えないのです」


「いつから?」


「昨日の朝はいたのですが……」


 子晴と宇翔の話を聞きながら、淑恵は息を吐いた。

 志偉が戻ってこないと聞いた時は心臓が止まりそうになったけれど、いなくなってからまだ半日しか経っていないのなら、それほど心配することはないだろう。


(気は優しいけれど、永安ヨンアンとも互角に戦える実力者よ? 並大抵の者では太刀打ちできないわ。品希も、そう。彼はいつだって好きなように過ごしていたもの。寝心地の良い場所を見つけて、少し長めにお昼寝しているだけよ)


 本当にそうだろうか。

 心の中の警鐘は、未だ鳴り止んでいない。


 落ち着こうと淑恵が目を閉じた、その時だった。


宸睿チェンルイめ。品希へ渡した情報だけでは、満足しなかったか」


 宇翔の声の険しさに、淑恵は思わずびくりと震えた。

 彼から発せられたとは思えない、憎々しげな声。

 宇翔もそんな声を出せたのかという驚きと、宸睿の名に嫌な予感がした。


(一体、どういうこと?)


 不安と疑問と心配と、さまざまな気持ちが淑恵の中で渦巻く。

 淑恵を置き去りにしたまま、宇翔と子晴は会話を続けていた。

 それぞれの顔は、ひどく険しい。


「子晴。今すぐ偵察へ向かえるか?」


「ええ、もちろんです。お嬢様の護衛はいかがいたしますか?」


「しばらくは我が担おう。宸睿は現在、周辺地域を制圧してファ国時代の皇城を占拠したと報告を受けている。今頃は、朽ちた城の王座にふんぞりがえっている頃だろう。気をつけて向かうように」


「御意」


 子晴は拱手こうしゅし、足音も立てずに走り去った。

 残された淑恵はなにがなんだか分からず、ただただ見送ることしかできない。


 品希へ渡した情報だとか、皇城を占拠したとか、まるで戦争の話のようではないか。

 八仙花バーチエンファの中しか知らない淑恵にとっては、切り離された世界の話だ。


(宇翔様。今の会話は、どういうことなのですか?)


 子晴の姿が見えなくなると、淑恵は答えを求めるように宇翔を見上げた。

 不安のあまり表情が引きつっている淑恵の頭を、宇翔は慰めるように優しく撫でる。


「すまないね、淑恵。君にはなんのことか、分からないだろう」


「……」


「少し長い話だから、座ろうか」


 宇翔はそう言うと、玄関ホールに置いてあった長椅子に淑恵を座らせ、自らはその隣へ腰を下ろした。

 淑恵はどんな話を聞かされるのか不安でいっぱいになりながら、まっすぐ前を見据える宇翔の横顔を見つめる。


 彼の目に映るのは、一枚の地図。

 華という国だった頃に、龍族の者が描いたもの。


 少しの間を置いて、宇翔は静かに語り出した。


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