第6話 公主の思惑

 志偉ヂーウェイとの顔合わせは、考えることがいっぱいだった。

 志偉のこと。そして、志偉を取り巻く環境。

 一刻も早く、志偉をここから離すべきだと思う。


淑恵シュフェン


 宇翔ユーシャンの声に、淑恵はハッとなった。

 抱え込むように胸に抱いていた志偉の尻尾から顔を上げる。


 いつの間にか夕刻になっていた。

 ちんの中は、朱塗りの柱のように真っ赤に染まっている。


「もう、夕方になっていたのですね」


「とても楽しい時間だったようだね、淑恵」


「ええ、とっても」


 淑恵と志偉は一つ席を空けて座っていたはずだが、いつの間にか隣り合って掛けていた。

 最初にあった距離はもうない。

 ぴったりとくっついて遠慮なく尻尾を抱く淑恵に、宇翔がわずかに目を見開いていた。


(当然よね。宇翔様に慣れるまでひと月かかったのに、志偉様には即日なんだもの)


 好意を向けてくる龍族の男性には全く見向きもしなかった淑恵が、初対面の志偉とぴったりくっついてくつろいでいるのだ。

 宇翔が驚かないわけがない。


「それは良かった」


 淑恵の笑顔に、宇翔は穏やかに笑った。


(それにしても、志偉様の隣は居心地が良いわね)


 自分のことながら、淑恵はびっくりするくらい警戒心が機能していなかった。

 私はこんなにも懐っこい人だったっけ?と真顔で考え込んでしまうくらいには、居心地が良すぎる。


「そろそろ帰るよ」


 宇翔の呼びかけに、志偉の耳がションボリと伏せた。

 行っちゃうの?と言いたげに淑恵を見つめる。


(母性本能がぎゅんぎゅん刺激される……!)


(分かりますよ、お嬢様!)


 淑恵の動揺が手に取るように分かるのだろう。

 真顔でうなずく子晴ズーチンと目が合った。


(でもお嬢様、志偉様を置いて行かれるおつもりですか?)


(まさか! 私はそんなにひどい女じゃないわ)


(ですよね!)


 目配せで子晴と会話したあと、淑恵は前を見据えた。

 宇翔のうしろから、宸睿チェンルイが肩を揺らすように歩いてくる。


「志偉。公主様をちゃんとおもてなしできたのか?」


「た、たぶん……」


「たぶんだと?」


 志偉の答えに眉を潜めた宸睿だが、淑恵を見てニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべる。

 威厳のかけらもないその顔で、一体どんな想像をしているのか。

 良からぬことであることだけは確かだ。


「宸睿様のおかげで楽しい時を過ごすことができましたわ。二人きりにしてくださり、ありがとうございます」


 言いながら、淑恵は落胆の気配を感じていた。

 結局あなたもそうなのか――と志偉が諦めているのを感じる。


 確信を深めたい。

 その一心で隣を見ると、志偉の目から光が失われていた。


 感情という感情を奥底に沈めたその目は、まるで底の見えない深海のようだ。

 蜂蜜のように輝いていた目は、安物のガラス玉のようになっていた。


(勘違いでも何でもない。志偉様は宸睿様に虐待されている。そうでなければ、こんな反応をするのはおかしいもの)


 静かに憤る淑恵の前で、さらに気分が悪くなるようなことを宸睿は言ってのける。


「尻尾を触らせて、おまえに虎族の誇りはないのか? それとも、オスらしいアプローチができないから、かわいらしさで勝負ってか? ヒャハハ」


 宸睿の言い草に、淑恵は鼻に皺を寄せそうになって団扇うちわで覆い隠す。

 いつの間に近くへ来ていたのか、宇翔の隣に立つ子晴が鼻を指差して何かを訴えてくる。


(宸睿様の鼻っ柱をへし折ってやれって? 駄目よ、そんなことをしたって何の役にも立たないわ)


(お嬢様の意気地なし!)


(子晴ったら。私に考えがあるから見てなさい)


 宇翔は、分かりやすく不愉快な顔をしていた。

 イライラと腕を組みながら、宸睿を一瞥する。


「宸睿、そんな言い方はないのではないか? 腹違いとはいえ弟だぞ」


「いーんだよ、こんなヤツ」


「宇翔様、僕は大丈夫です。気になさらないでください」


「ほら、こいつもこう言ってる。事実だもんなぁ?」


「ええ、そうですね。僕は兄さんのように強くないですから」


 自嘲するように薄笑いを浮かべる志偉に、淑恵は毛という毛が逆立ちそうだった。

 沈めたはずの怒りが、あっという間に頭の先を突き抜けていく。


(たった一人でこの世界に放り出された時だって、こんなに腹は立たなかったわ)


 今すぐ平手打ちしてやりたいくらいだが、それで事態は好転しない。

 淑恵は怒髪天をく勢いを抑え込みながら、天真爛漫な少女ふうの甘い笑みを浮かべた。


(世間知らずな箱入り娘がワガママを言っていると思わせるの)


 いかにも頭がお花畑になっているような、恋に恋する夢見がちな乙女のように。

 淑恵は鼻にかかった声で甘えるように言った。


「ねぇ、お父様。私、すっかり志偉様が気に入りましたの」


「ああ、そのようだね」


「連れ帰って、尻尾を枕にして寝てみたいわ。ねぇ、いいでしょう? お願い」


「どうだろう。宸睿に聞いてみないことにはなんとも……」


 気持ち悪いくらい甘い声で、媚びるように強請る。

 淑恵は今まで、こんな話し方をしたことは一度もない。

 自ら何かがほしいと強請ったこともなかった。


 淑恵の演技を、宇翔と子晴は呆気にとられた顔で見ていた。

 ややあって、肩を震わせながら手で口を覆う。


「宸睿様。志偉様を連れて帰ってもいいでしょう?」


 猫の子を拾って、気に入ったから飼ってみたいと言うワガママな子どものように聞こえていたらいい。

 下世話な妄想をするくらいには、宸睿は淑恵を女として見ている。

 ならば、それを逆手にとってやればいいのだ。


「宸睿様、おねがぁい」


「しょ、しょうがねぇなぁ」


 鼻の下をデレデレと下げて、宸睿は照れたように頭を掻いた。


「宸睿様、ありがとう。宸睿様は強いだけではなくて、とても優しいのですね!」


 心にもないことを言い過ぎて、おかしくなってしまいそうだ。

 けれど、志偉のことは放っておけない。

 最後の仕上げとばかりに、淑恵はにこりと言った。


「宸睿様の妹になれるなんて、私はなんて幸せ者なのでしょう!」

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