第5話 虐待の証拠

 にわか雨だったのか、庭の石畳を歩く頃には雲間から陽の光が差し込んでいた。


 離宮のちんは、珍しい扇形をしている。

 緑色の屋根に鮮やかな朱塗りの柱がよく映えていた。


(美しい建物ね。遠目にも、きちんと手入れされていると分かるわ)


 庭の景観も見事で、ついあちらこちらに視線が向かう。


「濡れていて転びやすいので、気をつけて」


「お気遣い、ありがとうございます」


 しっとりと濡れる石畳の上を淑恵シュフェンはゆっくりと歩いた。

 先導する志偉ヂーウェイは手こそ貸してはくれないものの、何度も振り返っては淑恵の様子を見ている。


「大丈夫ですか? 歩きづらくないですか?」


「はい、大丈夫です」


 淑恵がにこりと微笑みかけると、志偉はふいっと顔を背けた。

 よく見ると、頬がうっすらと赤らんでいる。

 気を落としかけていた淑恵は、微苦笑を浮かべて志偉へ話しかけた。


「ご迷惑でなければ、お庭にある草木について教えていただいてもよろしいでしょうか? 八仙花バーチエンファにないものばかりで、気になって先へ進めないのです」


「え、ええ、もちろん! どの花からお話ししましょうか?」


「ではあの、桃色の花から」


「あちらは月季花げっきかです。他国では長春花とも呼ばれているそうですよ」


 花について語る志偉は、宸睿チェンルイを前にした時と打って変わって生き生きとしている。

 続けて話をしていると、能面のようだった顔に控えめながらもさまざまな表情が浮かぶようになった。


(あ、尻尾が……)


 腰の辺りから伸びる尻尾が、機嫌よさげに浮いている。

 頭の獣耳は伏せていて、まるで撫でられるのを待っている猫のようだ。


(撫でたらどんな反応をするんだろう。触ってみたいな)


 さすがに初対面の男性の頭を撫でるのは駄目だろう。

 淑恵は撫でてみたいとウズウズする手を袖の中に引っ込めて、悶々もんもんとした。


「あら、もうついてしまいましたね」


「話をしていたらあっという間でした」


「志偉様のお話はとても楽しくて、まだまだ聞いていたいくらいです」


「そんなことを言ってくれるのは、あなたくらいですよ」


「えっ?」


「あなたはそちらへおかけください。その位置が一番、月季花がよく見えるのです」


「ありがとうございます」


 淑恵は促されるまま、備え付けの長椅子ベンチへ腰を下ろした。

 志偉は躊躇ためらったあと、一人分の間隔を空けて隣へ座る。


 未婚の男女が座るには適正な距離。

 しかし、婚約者にしては遠い距離だ。


(手を伸ばしてやっと触れられるような距離ね。残念だわ)


 そう思うことは、はしたないだろうか。

 初めてのことで、淑恵はよく分からない。


「……あの」


 探り合うような空気の中、どちらからともなく声をかけた。

 お約束のように「そちらからどうぞ」と譲り合う。

 分かりやすすぎる流れに二人して笑ったあと、仕切り直すように志偉が咳払いをした。


「聞いてもいいかな?」


「はい、どうぞ」


「公主様は、人……なんですよね?」


 冷酷そうな見た目に反して、志偉の口調は穏やかだ。

 長い前髪が表情を隠している今、目の前にいるのは温和な青年に見える。

 だからだろうか。淑恵は驚いたものの、落ち着いて答えることができた。


「よく分かりましたね。ええ、そう。化粧で誤魔化しているけれど、私は人です」


 ファに生きる者はすべて、獣の耳や尻尾、鱗を持っている。

 龍公主である淑恵は、化粧で鱗模様をつくっていた。


「見破ったのは、あなたが初めてです」


「そう、なんですか?」


「ええ。いつ見破られるだろうってハラハラしていたから、すぐに見破ってくれて助かりました。お礼というわけではないけれど……お嫌でなければ、私のことは淑恵と呼んでくれませんか?」


「淑恵?」


 淑恵が微笑むと、志偉は嬉しそうに頬を緩めた。


「淑恵」


「はい、志偉様」


(なんて素敵な笑顔なの)


 淑恵がじっと見つめていると、視線を合わせるように前髪を掻き上げる志偉。

 虎族にしては幾分か淡い蜂蜜色の目があらわになり、淑恵の胸はドキドキと高鳴った。

 志偉の形の良い唇は弧を描き、青ざめて見えるほどだった白い頰は健康的な色に染まっている。


「不思議だな。尻尾も鱗もないなんて」


「私からしたら、あなたの耳や尻尾の方が珍しく見えるわ」


 淑恵が、耳や尻尾もふもふを羨ましそうに見つめていることに気がついたのだろう。

 志偉は遠慮がちに自身の尻尾を見つめたあと、おずおずと提案した。


「……触ってみる?」


「いいの?」


「うん。どうぞ」


 寄せられたのは、尻尾だった。

 自分にはないものをどう触っていいものなのか、戸惑う。

 淑恵が躊躇ちゅうちょしていると、志偉の尻尾が手の甲をくすぐるように動いた。


「耳や尻尾は急所なのでしょう?」


「うん。だけど、淑恵ならいいよ。優しく触ってね?」


「分かったわ。優しくする」


 探るようにそっと握ると、志偉の体がピクッと跳ねるのが分かった。

 淑恵は慌てて手を離す。


「ごめんなさい。気をつけたつもりだったけれど、痛かった?」


「違うよ、大丈夫。尻尾を触られるのが久々過ぎて、ちょっと驚いただけだ」


 手に押し付けるように戻ってきた尻尾を、もう一度そっと握る。

 おどけるようなしぐさに、淑恵は声を上げて笑った。


「わっ、ぴょこぴょこしてる!」


「こんなこともできるよ」


「ひゃっ、器用なのね」


 淑恵につられるように笑った志偉がふと黙り込む。

 どうしたの?と淑恵が覗き込むと、彼は神妙な面持ちで尋ねた。


「淑恵は、気持ち悪いと思わないのか?」


「気持ち悪い? どこが?」


「いや、思わないならいいんだ」


「?」


 ひとしきり尻尾の感触を楽しんだあと、淑恵は満足そうな顔で尻尾から手を離した。

 別れを惜しむように目の前でピョコピョコする尻尾の先端を指で突つく。

 彼の背に戻っていく尻尾が、かわいらしくて仕方がなかった。


「代わりと言ってはなんだけど、耳を触らせてもらっても良いかな?」


「私の耳を?」


「えっと……。尻尾がないか腰の辺りを触るより、失礼がないかなと思った、のだけれど」


「耳を触るくらい、なんてことないわ。気になるなら、腰を触ってもいいわよ。服の上からでも良ければ」


「そ、そんな。耳だけで十分だよ」


 言い訳じみた言葉を並べる志偉に、淑恵はクスクス笑った。

 咲き初めの花のように笑う淑恵に、志偉も笑いかける。


 志偉はそろりと手を伸ばすと、淑恵の髪を耳にかけた。

 身を委ねるように淑恵がまぶたを閉じれば、笑ってしまいたくなるくらい慎重に耳に触れてくる。


 耳に触れてきた志偉の手は温かい。

 形を確かめるようにふちや凹凸を撫でられて、彼の袖が首筋に当たるたびにこそばゆかった。


(袖。そうだ、それで思い出した)


 淑恵は閉じていた目をぱちりと開いた。

 すぐ近くに、志偉の手首がある。

 くすぐったそうに首を動かすふりをしながら、淑恵は志偉の手首へ視線を走らせた。


(見間違いじゃない。あざがある)


 手首の痣は、一つではなかった。

 治りかけの痣の上に痣が重なっている。


 一つなら、不注意かもしれない。

 だけど、そう何度も同じところに痣をつくるわけがない。


(宸睿様を前にした志偉様は、怒りもしなければ反抗もしていなかった。淡々と受け入れる姿はまるで……)


 争いだらけの世界に呼び込まれた自分と、志偉の境遇が重なって見える。

 蘇る痛みに、淑恵は胸を押さえた。

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