終章

第38話 決意の求婚

 それからの日々は、大忙しだった。

 新しい国、新しい身分、新しい暮らし。

 慣れるまでは大変だったけれど、初めてこの世界に来た頃を思えば苦労というほどでもない。


(なにより、志偉ヂーウェイ様が隣にいてくれるのだもの。私ばかり弱音を吐いていられないわ)


 宇翔ユーシャンが決めた引っ越し先は、ファ大陸の周辺で最も広大な国土を持つカン帝国。

 同族同士の婚姻しか認めない華と違い、こちらでは多種多様な獣人たちが暮らしている。


 現在の皇帝はワシ獅子シシの《まだらもの》で、獣化するとグリフィンみたいな姿になるらしい。

 カン帝国では、グリフィンは聖獣の一種。

 国民の多くは皇帝に好意的だ。


 華では《まだらもの》と呼ばれさげすまれていた志偉も、ここでは普通だ。

 それどころか、彼の顔だちはこちらの女性たちにも需要があるようで、淑恵シュフェンは毎日気が気ではない。


「大変です、お嬢様! これを……これを見てください!」


 久しぶりの休日を、まったり過ごしていた時だった。

 扉を蹴破る勢いで部屋に飛び込んできたのは、近くの道場で護身術を教え始めた子晴ズーチン


「子晴、この時間は稽古じゃないの? お仕事を放り出したら駄目じゃない」


「怒った顔もかわいらしいです、お嬢様!」


「わざわざ道場を抜け出して、なにがあったの?」


「今すぐ、こちらをお読みください!」


 そう言うと、子晴は一枚の紙を押し付けてきた。


「え、これは……?」


「お一人でゆっくり堪能してくださいね」


「子晴……って、もういない」


 嵐のように去って行った子晴に、淑恵はやれやれと肩をすくめた。

 それからようやく、押し付けられた紙へ目を落とす。


「平和条約、締結……」


 そこには、昨日あったカン帝国と西華国の話し合いの結果が記載されていた。

 使節団の中に志偉の名前を見つけて、淑恵は万感の思いを込めて文字をなぞる。


「よかった。ちゃんとお仕事、できたんだね」


 淑恵たちが華を去ったあと、宸睿チェンルイ率いる虎族はさらに勢力を拡大し、今や華国を西と東で二分する一派となっている。

 カン帝国としても、彼らを無視することは得策ではないと考えたのだろう。

 このたび使節団を送り、平和条約を結ぶ運びとなったのだ。


 志偉は自ら、使節団に志願した。

 そして彼は見事、やってのけたらしい。


「また泣き落としたわけじゃないでしょうね?」


「まさか」



 ポツリとこぼした疑問に答えが返ってきて、淑恵は飛び上がらんばかりに驚いた。

 振り返ると、扉にもたれるようにして志偉がたたずんでいる。


「志偉様! いつ戻ってきたのですか?」


「たった、今。早く伝えたくて先に戻ってきたのだけれど……遅かったみたいだね」


 残念そうに頰を掻く志偉のそばへ駆け寄る淑恵。

 勢いがついたまま抱きつくと、彼のにおいに混じって外の冷たい風のにおいがした。

 寒い中、一番に報告したくて駆けてきてくれたのだと思うと、淑恵の胸はいっぱいになる。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 淑恵の存在を確認するように、志偉の手が丁寧に撫でていく。

 子猫に触れるような注意深い指先から、志偉の気持ちが流れ込んでくるようだ。


(好かれていると、思う。けれど、婚約破棄の撤回を求めて乗り込んで行ったあの日から、志偉様の口からそういった類の言葉が出たことは一度たりともない……)


 志偉のことを狙っている女の子たちを思い出すたびに、淑恵はどうしようもなく嫌な気持ちになる。

 そろそろ、潮時なのかもしれない。

 ここには志偉をいじめる者はいないし、なにより彼は、宸睿と対等に言葉を交わせるくらい成長したのだから。


 志偉をねぎらうため、淑恵はお茶と茶菓子を振る舞った。

 ひと息ついた志偉は、淑恵の歓待に頬を緩ませる。


「兄上と話をしたんだ」


「ええ、立派だわ。号外新聞でも読んだけれど、素晴らしい手腕だったそうね」


「兄上の性格はよく分かっているからね」


 淑恵が別れを決意しようとしているとも知らず、志偉は使節団での出来事を誇らしげに語った。


(会ったばかりの頃は顔と性格がちぐはぐだな、なんて思っていたけれど。今回の件で、だいぶ自信がついたみたい)


 これならもう、志偉は自分で幸せを見つけられるだろう。

 淑恵ができるのはここまでだ。

 あとは、彼の良き友人として近くも遠くもない場所から見守れたら言うことはない。


「淑恵のおかげだ。感謝なんて言葉では言い表せないくらい、すごく感謝している」


「あなたが頑張ったからよ。私はただ、そばにいただけ」


「淑恵。やっと、全部片付いたんだ」


 含みのある言い方に、淑恵はいおや?と思った。

 志偉の手が、淑恵の頬に添えられる。

 なぁに?と首をかしげて見上げると、志偉の熱い視線と絡んだ。


 緊張しているのか、志偉の唇は引き結ばれている。

 頰はうっすらと赤く染まっていて……。


「ようやく、言える」


 志偉がなにを伝えようとしているのか、分かったかもしれない。

 淑恵は息をすることさえ忘れて、志偉の目を見つめた。


 肩の荷を下ろしたように、志偉が息を吐く。

 覚悟を決めるように、まばたきを一つ。

 そして再び視線を絡ませてくると、彼は言った。


「淑恵、愛している」


 待っていた。

 ずっとずっと、その言葉を──待っていた。


 胸の中にしまいこんでいた気持ちが、風船が弾けるみたいに一気に解放される。

 淑恵はたかぶる気持ちのまま、志偉の胸へ飛び込んだ。


「私も! 私も、志偉様が大好き!」


 苦しいくらい強く、抱きしめられる。

 背中へ回した淑恵の手に、志偉の尻尾がパタパタと当たった。


 うれしくて、たまらない。

 雄弁に語る彼の尻尾に、頰が緩む。


「淑恵、結婚しよう」


「ええ、もちろん。幸せな家庭を築きましょう」


 志偉と巡り会えた幸福に感謝しながら、淑恵は近づいてくる気配にそっと目を閉じた。

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秘境の龍公主は密命を帯びた王弟と婚約します 森湖春 @koharu_mori

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