一章
第2話 婚約の打診
「もう少し二の腕がやわらかい方が我の好みだ」
微苦笑を浮かべる
(この前聞いた時はやわらか過ぎるって言っていたのに。もう……)
頑張って筋肉をつけたのに、この評価。
報われない。
「これで何回目かしら」
「二の腕は百回以上聞かれている気がするな」
「頑張っているのに……」
淑恵が宇翔に拾われてから五年の月日が経った。
恩返しがしたいと考えるようになったのは、拾われてから半年が経った頃。
宇翔を支える最たる存在が嫁だと気づいてから、淑恵は日々精進してきた。
とはいえ、宇翔はなかなか厳しい。
今日こそはと思ったけれど、また駄目だった。
「悔しい……」
がっくりする淑恵の頭を、大きくて少し冷たい手がくしゃりと撫でる。
「我の好みなんてどうでもいいじゃないか」
「どうでも良くないから、必死なんです。また
「侍女の子晴とはすっかり仲良くなったようだね」
「はい! あの子のおかげで今の私があると言っても過言ではありません」
「そうかそうか、それは良かった」
安心したのか、息を吐きながら肩を落とす宇翔。
淑恵は歳のせいかと思ったが、違和感を覚えた。
「ところで、宇翔様。本日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか?」
「うむ……」
淑恵の問いに宇翔は言い淀みながら茶杯を手に取った。
宇翔は忙しい。
龍族の長として、一国の王として、やらねばならないことが山のようにあるからだ。
国の運営や他国との付き合いなど、宇翔の仕事は多岐に亘る。
特に最近はきな臭いうわさが立っており、油断ならない状況。
一週間とあけずに淑恵の元へ来るのは、明らかにおかしかった。
(なにか良くないことが起きたのかな)
かつては一つの国であった
今は小国に分立し、
力ある者が現れるたびに統一戦争が仕掛けられてきたが、今はちょうどその時期らしい。
同盟を組んでいる瑞香国の虎族は代替わりをしてから友好的な関係とは言い難く、このあたりで一度腹を割って話し合うべきではないか――という声が、龍族の中から上がってきているという。
(国同士の話し合いに宴はつきもの。そのお手伝いについてかしら?)
瑞香の王はたいそうな女好きだとうわさで聞いたことがある。
山奥で大切に育ててきた淑恵を飢えた虎の前に出すことは、宇翔とて一世一代の決断をするに等しいことなのかもしれない。
「実は、お願いがあって来たのだよ」
お茶を一口飲んだ宇翔は、言いづらそうにしながらそう言った。
お願い。
その単語に、淑恵は喜び勇んだ。
だって、お願いだ、お願い。
何度も言いたくなるくらい、嬉しい。
(宇翔様が私にお願い。あの、宇翔様が!)
宇翔が淑恵に頼みごとをしてくるのは初めてだ。
彼は淑恵に与えるばかりで、見返りを求めない。
恩返しをする機会がきた!と淑恵は飛び上がりたいくらい舞い上がった。
「お願いとはなんでしょう?」
身を乗り出しそうになるのをすんでのところで耐えながら、淑恵は問いかけた。
(いけない、いけない。ついはしゃぎそうになっちゃった)
こんな時こそ、落ち着いて対処しなくてはいけない。
ここで淑女ぶりを見せつけて見直してもらえば、宇翔の嫁への道がひらけるかもしれないのだから。
澄まし顔でお茶を飲む淑恵を、宇翔はきょとんとした顔でしばし眺めた。
それから堪え兼ねたように、控えめに吹き出す。
「……っふ」
「笑うなんてひどいです。私の演技なんて、宇翔様からしてみたら子どものおままごとみたいなものでしょうけど……」
淑恵の考えなどお見通しなのだろう。
看破した宇翔は、淑恵の背伸びがおかしくて仕方がないらしい。
上品に笑いながらも、その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
取り繕うのも馬鹿馬鹿しくなって、淑恵は頰を膨らませて宇翔から顔を背けた。
「笑いすぎですよ、宇翔様!」
「すまない。随分とかわいらしかったものだから……」
笑いながら聞き捨てならない褒め言葉を口にする宇翔に、淑恵の苛立ちも長くは続かない。
笑い声がやんだところを見計らってちらりと視線を向けると、宇翔は眩しいものを見るような目で淑恵を見ていた。
「淑恵。今日来たのは他でもない。大人の女性に成長した君に、頼みがあるのだ」
「はい。なんなりと仰ってください」
「瑞香国の王弟、
「……」
淑恵はすぐに答えることができなかった。
(宇翔様の嫁になると頑張ってきたのよ。そう簡単に決められないわ)
健康的な子が好きだと聞けば風邪一つ引かないように気をつけたし、筋肉はないよりある方がいいと聞けば訓練した。
長い髪が好きだと言うから髪を伸ばしたし、二の腕はやわらかい方が触りたくなると聞いたからマッサージを頑張った。
それなのに――。
(宇翔様は、私と志偉様の婚約を求めていらっしゃる……)
宇翔の嫁を目指したのは、その地位ならば恩返しができると思ったからだ。
そこに、恋心はない。
(宇翔様の態度は一貫して、娘に対するものだった。でも、今までの努力が無駄になるのは悲しいわ)
この世界についてなにも知らない淑恵に、宇翔はさまざまなものを与えてくれた。
衣食住はもちろん、生き伸びるために必要な知識。
争いだらけの世界で、生き抜くためだ。
(とはいえ、それが宇翔様の願いならば拒否したくない)
気持ちを切り替えようと、淑恵は目を閉じた。
宇翔との思い出が次々に浮かんでは消えていく。
どの思い出も大切だが、やはり恋心は見つからない。
心の中で宇翔の嫁になりたかった自分に別れを告げ、淑恵は目を開けた。
「分かりました、
「ありがとう、淑恵」
「礼など……」
「婚約者と言っても、名ばかりのものだ。淑恵に結婚したい相手がいるのならば、断るのもやぶさかではない」
まっすぐ射貫くような視線に、淑恵は複雑な表情を浮かべた。
それがどんなに難しいことなのか、分かっていたからだ。
この婚姻によって結ばれる瑞香国との同盟。
それによってもたらされる利益は計り知れない。
「大丈夫です。そんな方は、いませんから」
「そうか。では近々、顔合わせの場を設けよう」
「はい、お父様」
新しい衣を新調しようと父らしいことを言い出す宇翔に、淑恵は娘らしく「あまり豪華なものはいりませんからね」と釘を刺すのだった。
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