秘境の龍公主は密命を帯びた王弟と婚約します

森湖春

序章

第1話 招来の人

「おや、珍しい。人ではないか」


 頭の上に影が落ちて、淑恵シュフェンは顔を上げた。

 目に入ったのは、真珠のような輝きを宿す乳白色の鱗。

 威厳に満ちた金色の目が、彼女を見下ろしている。


 長い胴体に、ワニのような口。

 フサフサとしたひげが風に揺れていた。


「んぎ……っ」


「んぎ?」


「んぎゃぁぁぁぁ!」


 きょとんと首をかしげる龍を置いて、淑恵は脱兎のごとく河原を走り出した。

 そばには幅の広い川が流れ、両端には崖が切り立っている。

 雄大な景色だが、楽しんでいる余裕はない。

 走りながらちらりと背後を見ると、龍は大きな体で悠々と宙を泳いで追いかけてきていた。


「来ないでぇぇぇぇ!」


「そう言われてもな。このような場所に一人で置いていけるわけがあるまい」


「一人がいいの! 一人にして!」


 淑恵は叫び声を上げながら逃走した。

 だが、すぐに限界を迎える。


 喉がヒューヒュー鳴って、苦しい。

 膝に手を置いてゼェハァする淑恵の少し後ろで、龍は様子をうかがうように首をもたげて見ていた。


「少々落ち着いてくれるかな、お嬢さん。我が名は宇翔ユーシャン。龍族を束ねている。見たところお嬢さんは人のようだけれど、間違いないのかな?」


 ゆったりとした口調で白い龍は声をかけてきた。

 気遣いがにじむ優しい声に、張り詰めていた糸がプツンと切れる。

 淑恵の目からはらはらと涙が零れた。


「うっ……ひぐっ……」


「お、おい」


 厳つい顔が、ぎょっとしていた。

 けれど、涙は止まらない。


「む。そうだ。お嬢さん、これならどうだ?」


 子どものように泣く淑恵の前で、龍は突然消失した。


「へ?」


 空中から突然いなくなった龍に、思わず涙が止まる。

 何かが着地するような音がして視線を下げると、一人の男性が立っていた。


「……っは。え?」


 白い肌に白い髪。

 純白の民族衣装を身にまとった男性は、どこもかしこも真っ白なのに、目だけが金の色をしている。

 スラリとした体にまとわりつくように、裾の長い服が風に吹かれてヒラヒラと舞った。


「……素敵なおじさま」


 それまでのことをすっかり忘れ、淑恵はうっとりとつぶやいた。


 人の良さそうな垂れ気味の目に、すっと通った鼻梁。

 唇は厚すぎず薄すぎず、顎もすっきりしていて余計なものは何もない。


 あらゆるパーツが絶妙なバランスで、身長のわりに小さな顔に収まっている。

 皺が刻まれていてもここまで整っているのだから、若い頃は芸術作品のようだったに違いない。


 見入る淑恵に、男は言った。


「ここがどこだか、分かるか?」


「いいえ。どこなのですか?」


 夢見心地で淑恵は答えた。


 しかし、実のところ彼女には記憶がなかった。

 かろうじて覚えているのは、名前だけ。


 淑恵の問いに、男はふわりと笑う。

 明け方に咲く蓮の花のような静かで清廉な笑みに、淑恵の胸はドキドキと高鳴った。


「ここは、龍が治める地。ファという大陸にある八仙花バーチエンファ国だ。断崖絶壁の山々と川ばかりの、秘境の国」


「ふぁ……? ばーちえん……?」


 聞きなれない大陸名に、国名。

 狼狽うろたえる淑恵を、男は気の毒そうに見た。


「おまえは人だろう?」


「はぁ…………」


 当たり前すぎる質問に、淑恵は吐息のような声で答える。


「まるで人を初めて見たように言うんですね?」


「長く生きてきたが、人を見るのは初めてだ」


「……は? ここには人がいないのですか?」


「いない。ここは、獣人たちが争う世界。人は大昔に絶滅した」


「絶滅って……。じゃあ、私は……」


「この世界に人が存在する理由は一つだけ。何者かが秘術を使い、別の世界から招いたのだ」


「なに言って……」


「招けるのは、別世界とのつながりが希薄な者だけ。そして、世界を渡るには……招待を受け入れる気持ちがなければならない」


 男の言葉に、淑恵は目を見開いた。

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