第12話 侍女の葛藤

 入浴を終えたあと、淑恵シュフェン子晴ズーチンに促されて衣装室へ向かった。

 世話焼きな宇翔ユーシャンは淑恵を甘やかすことに余念がなく、来る度に衣装が増えていて困る。

 どれを着ればいいのか分からず途方に暮れる淑恵に、子晴は慣れた様子で衣装室を見回した。


「お嬢様は難しく考えすぎなんですよ」


「そうかしら」


「たまにはいつもと違った格好でもして、気分転換してみたらどうですか?」


「でも、志偉ヂーウェイ様の好みじゃないかもしれないし……」


「お嬢様の新たな一面を見て、惚れるかもしれませんよ」


 室内を移動しながら、子晴はいくつかの衣装を見繕った。

 淑恵はその中から一つを選んで、身につける。


 生成りの生地に紺色の糸で花模様の刺繍を施した服は、落ち着いた大人の女性が選びそうな意匠だ。

 淑恵は好きだが、似合うかどうかは別である。

 鏡の前に立つまでドキドキしたが、思ったほどおかしくなくて淑恵は胸を撫で下ろした。


「宇翔様もおっしゃっていたではありませんか。婚約者とは言っても名ばかりのもので、お嬢様が本当に結婚したい相手がいるなら断るのもやぶさかではないと。だから、もっと気楽にしていたら良いのです。同盟なんて、気にする必要はありません」


「でも……」


「思うのですが、お嬢様は破滅願望でもお持ちなのでしょうか? どうも、素直に幸せになることに抵抗があるように思えるのですが」


「それは……」


 記憶がないのに、それでも淑恵は分かっていた。

 幸せになることに抵抗がある理由は、親しかった人に裏切られた過去があるからだと。


 思い出そうとすると、頭が割れるように痛くなる。

 宇翔曰く、自己防衛のために体が拒否しているのだろう――とのことだった。


(過去を忘れたからこそ、私は前を向いて歩けるの)


 忘れるほどつらい過去を抱えたまま、前に進むことはとても難しい。

 だから、忘れて良かったのだ。

 思い出せないからと投げやりになったわけではなく、淑恵は心から思う。


「お嬢様もお気づきでしょうが、宸睿チェンルイ様は同盟など気にしていません。先代が勝手にしたことで、自分には関係ないと思っています」


「それは、前々から感じていたわ。お会いしてみて、ますますそう思ったもの」


「先代の遺言は一つも守られていない。お嬢様も見たでしょう? 志偉様が、瑞香ルウェシャンでどんな扱いを受けていたのか。先代は志偉様を宸睿様の側近にと望んでおられていたのに、離宮に幽閉されていたのですよ」


「離宮の迷路のような構造は、幽閉に便利だったから……?」


「どうでしょう? 以前は志偉様のお母様が使っていたので、たまたまかもしれません」


 淑恵の長い髪を櫛でとかしながら、子晴は言った。

 鏡越しに視線が合った彼女は、不満そうにムスッとしている。


 その時、ちらっと子晴の手首が見えた。

 連鎖的に志偉の手首にあった痣を思い出して、淑恵は眉を寄せる。


(志偉様ほどの実力者なら、避けることができたはず……)


 淑恵を抱いたまま、子晴と品希の攻撃を避けていた志偉が弱いとは思えない。

 反撃することもできただろうに、甘んじて暴力を受け入れていたのは──。


「なぜ?」


「何がです?」


「ねぇ、子晴。志偉様の腕に暴力を受けたあとがあったの。気がついた?」


「ええ、対戦した時にちらりと」


「志偉様ほどの実力があれば、避けることもできたと思わない?」


「まぁ、そうでしょうね」


「だから、なぜなのかなって」


 弱みでも握られているのだろうか。

 兄弟ならば、恥ずかしい過去の一つや二つ知っているだろう。


(だけど、そんなことで身を差し出す?)


 考え込みながら、淑恵が腕を撫でた時だった。

 髪を整えていた子晴の手が止まる。


「おそらく……諦めてしまったのだと、思います」


「諦める?」


「志偉様の目は死んだ魚のようでした。死ぬ覚悟はないようですが、生きる意志も見えないというか……」


 子晴の言葉をきっかけに、初めて会った時の志偉の様子が頭に思い浮かんだ。

 窓の外を眺めていた彼は、静かに呼吸するだけの人形のようだった。


(言われてみれば、確かにそう。あの時、志偉様は全てを諦めていた)


 悲しげに目を伏せた子晴が、思い直したように顔を上げる。


「今日の志偉様は、生き生きとしていました」


「ええ。とてもかっこよかった」


「志偉様とお会いしたのは、今日で二度目です。一緒に暮らすようになったら、さまざまな一面を見ることになるでしょう」


「いいところだけじゃなくて、悪いところも見ることになりそうね」


「そうです。ですが、それでも好きならお嬢様の気持ちは本物だということ。今はまだ、このままでいいのではないでしょうか」


 そう言うと、子晴はすっきりした顔で髪を結い始めた。


(志偉様のこと、受け入れるって決めたのね)


 手際よく動く手を鏡越しに見ながら、淑恵は微苦笑を浮かべた。


「はい、できました。これで志偉様はお嬢様に釘付けです!」


「どうかしら。でも、動きやすくていいと思うわ」


 確認するために、鏡の前へ立つ淑恵。

 胸を張る子晴に披露するように、くるりと回って見せた。

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