第19話 不安の足音

 季節は変わり、秋。

 この時期の八仙花バーチエンファは、とても美しい。


 峰々の間を流れる霧や雲。

 赤や黄色、橙色だいだいいろに染まった木々。


 淑恵シュフェンがとりわけ好きな季節だ。

 庭に椅子を出して、飽きもせず眺めていられる。


(これ以上の贅沢ぜいたくはありません)


 毎年一人きりで楽しんできたが、今年は付き合ってくれる人がいる。

 婚約者の志偉ヂーウェイだ。


(志偉様がこちらへ来られたのは夏至の頃。今は霜降だから……もう三月みつきが経つのね)


 ただ見ているだけでは暇でしょうと、気を利かせた子晴ズーチンが茶会の準備をしてくれる。

 卓子テーブルの上に、らんのような香りがする緑茶とハリネズミの形をした饅頭まんじゅうが用意された。


「では、失礼します」


「えっ、子晴⁉」


「あとは二人でごゆっくりとおくつろぎください」


 用意が終わると、子晴は去っていった。

 素早い身のこなしに、淑恵は引き留めることもできない。


(二人きりになってしまったわ)


 頼みの綱である子晴がいなくなり、庭に残されたのは淑恵と志偉だけ。

 残る助けは品希ピンシーだけなのだが、彼の居場所はいつもまばらだ。


(品希は神出鬼没で、いつもどこにいるのか分からないのよね。この前なんて、湖に浮かべた小舟でお昼寝をしていたわ)


 その時のことを思い返すように、湖面へ視線を向ける淑恵。

 映り込む紅葉に、感じ入るような息を吐いた。


「……湖の上で見る紅葉も素敵でしょうね」


「淑恵は舟遊びがしたいの?」


「そうですね。でも今の時期は少し寒いから、きちんと準備してからでないと難しそうです」


「それなら、僕が温めてあげるよ。体温が高いから、湯たんぽにぴったりだと思う」


 志偉はそう言うと、確認させるように淑恵を抱きしめた。

 不意打ちの抱擁に、淑恵の胸がドキドキと高鳴る。

 彼のにおいに包まれて、のぼせそうだ。


「うう……」


うならない、唸らない。恥ずかしがってる淑恵って本当に可愛かわいい」


「唸っているのが可愛いなんて、変わった趣味をしているのね」


「そうかな?」


 獣姿での威嚇を見せて吹っ切れたのか、あるいは龍族たちの助言によるものなのか定かではないが、この三月で志偉はずいぶんと甘やかすことに慣れた。


(悔しいけれど、志偉様の腕の中はすごく落ち着くのよね)


 ドキドキするけれど、それ以上にこのぬくもりは得がたくて。


(いつまでもこのままでいたくて、困る……)


 胸中では困ると言いながら、淑恵は幸せそうだ。

 淡い笑みを浮かべて頬を染める姿は、つがいを得て幸せを噛み締める獣人と同じ。


「どんな淑恵も可愛いよ」


「そんな甘い台詞、どこで覚えてきたんですか?」


 まさか、また龍族の女性とこっそり会っていたのでしょうか。

 嫉妬丸出しの言葉を飲み込む代わりに出た言葉は、これまた嫉妬丸出しで。

 淑恵は羞恥に頬を赤らめ、胸元に絡んでいた志偉の尻尾に顔をうずめた。


「淑恵こそ。こんなに可愛いしぐさ、どこで覚えてきたの?」


 志偉の長い尻尾が、コショコショと淑恵をくすぐる。


(志偉様の尻尾に撫でられたりくすぐられたりすると、ほわーんとした気分になるのよね)


 とてもいい気分で、何もかも良くなってしまう。


「志偉様の尻尾には神通力でもあるのかしら」


「八仙花は仙人がいてもおかしくない土地だけれど、さすがにないかな」


 思わずふはっと笑い出す志偉に、淑恵も笑った――のだが。

 記憶の片隅にふと思い出したくないものが浮かんできて、笑みを引っ込める。


(どうして、今?)


 思い出したのは、龍族の一人。

 淑恵に夜這いをかけ、宇翔の教育的指導を受けた男――永安ヨンアン


 永安は、黒曜石のような鱗を持つ黒龍である。

 白龍である宇翔と並ぶと、悔しいほど美しい。


 人の姿の時も、宇翔に負けず劣らず。

 龍族にしては珍しい筋肉質な体躯と浅黒い肌に、女性たちはうっとりとため息を吐いているらしい。


『いつかおまえを嫁にするからな』


『いやいや、無理!』


(夜這いに失敗したあと、負け犬の遠吠えみたいな捨て台詞を残して連行されていったけど……。あれ以来、会っていないのよね。私と志偉様のこと、知っているのかしら?)


 八仙花の次期国王と目される男だ。

 もちろん、知っているだろう。

 だが、龍族のほとんどは志偉に好感を抱いている。

 そうなると、永安の耳に入れないように画策する者も出てきそうだ。


宇翔ユーシャン様もうっかり言い忘れていそうなのよね」


「誰に言い忘れているの?」


「永安、様よ」


「永安様って、誰?」


 威嚇するような低い声に、考え事をしていた淑恵はハッとなったけれど遅かった。

 志偉の金目がギラギラし始めて、咎めるような視線を投げてくる。

 質問に答えないとどうなるか知らないぞと言われているようで、淑恵はぶるっと肩を震わせた。


「永安様は、宇翔様の側近をしているの」


「淑恵は永安様が嫌いなの?」


「そうね、少し苦手かも。彼、筋肉質で暑苦しいから」


 淑恵の答えに、志偉は止まった。

 かと思えば、唇を震わせて視線を泳がせる。


 抱きしめていた腕が離れると、どうしたものかと逡巡しゅんじゅんしている空気を感じた。

 振り返ると、志偉は確かめるように自身の体を見ている。


(言葉の選び方を間違えたかも。だって、志偉様もいい体をしているもの)


 志偉の体も筋肉質だったと、淑恵は今更ながらに思い出した。

 しかし、同じ筋肉質でも二人の体形はまるで異なる。

 永安は鍛えた分だけ盛り上がる肉々しい体をしているが、志偉は細く締まっている。


「志偉様は暑苦しくないですよ?」


 淑恵から褒め言葉を聞く機会が少ないせいか、志偉の耳が嬉しそうに直立する。

 彼女の言葉を一つも聞き逃さないようにしている様子は、必死すぎて愛しい。


(可愛い!)


 志偉は嬉しくて仕方ないといった様子で、尻尾を巻き付けてきた。

 モフモフの尻尾の先が、くすぐるように淑恵の頰を撫でる。


(この感触、やみつきです……!)


 知らず睦み合う二人に、盗み見ていた龍族たちはにんまりと笑んだのだった。


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