第10話 侍女の歓迎

「な、な、なぁぁ⁉ お嬢様を下ろせ、抱っこなんて一年早いわ――っ」


 離宮に戻ると、子晴ズーチンが奇声を上げながら襲いかかって来た。

 想像力豊かな彼女は、濡れた淑恵シュフェンの姿を見てあらぬ妄想を抱いてしまったに違いない。


 淑恵を抱えたまま子晴の跳び蹴りを軽やかに回避した志偉ヂーウェイは、音を立てることなく着地する。

 しなやかな筋肉をまとう獣らしい動きに、思わず淑恵は「わあっ」と歓声を上げた。


「すごいわ、志偉様」


「え、これくらい虎族では普通だよ?」


 謙遜しつつも喜びを隠せない様子の志偉に、胸がきゅんと締め付けられる。


(かわいい!)


 淑恵は無意識に、志偉の頭を撫でた。

 志偉の髪はさらさらしていて、指の間をすり抜けていく。


 攻撃から逃げ回る最中、はずみで指先が地肌に触れた。

 くすぐったそうに目を細める志偉の色気に、淑恵は慌てて手を引っ込める。


「そこっ! まだ婚約の間柄でありながら、イチャイチャしすぎですよっ」


「そんなことないわよ」


「そんなことあるから言ってるんです!」


 女夜叉にょやしゃのような形相で注意してくる子晴。

 淑恵はどうしたらいいのだろうと遠くを見つめた。


(反応が過剰ではないかしら。……居たたまれないわ)


 幸い、志偉はこの状況を楽しんでいるようだ。

 先に来ているはずの品希ピンシーはどこへ――と周りを見回した淑恵の視界の端に、何かが映る。


「そうだ、そうだー」


 二階の手すりに立っていた品希が、飛び降りてきた。

 志偉に攻撃を仕掛けてくる品希の顔は、とても楽しそうで意地悪そうだ。


(あれは兎月拳とげつけんね。獣人の中でも特に優れた脚力を持つ、兎族発祥の武術)


 淑恵は、子晴から兎月拳をたたき込まれた。

 理想の肉体を手に入れるため、健康のため、そして護身のために身につけた。


「鍛える以外に使ったことはなかったけれど、目で動きを追えるのは経験があるからよね」


「淑恵も武術を?」


「ええ。兎月拳を少々」


「そうか。ではいつか、手合わせをしてもらおうかな」


 三人の動きは素早く、普通ならば戦っていることしか分からない。

 淑恵との会話を挟みながら飄々ひょうひょうと逃げ回っている志偉は、とんでもなく強いのだろう。


(やはり、虎族は伊達ではないのです)


 小柄な子晴と品希は、壁を駆け上がって飛んだり跳ねたりしながら縦横無尽に動き回る。

 それを必要最低限の動きで避けていく志偉。


(だんだん、曲芸を見ているような気分になってきたわ)


 いつまで続くのだろうか、この遊びは。

 暇過ぎて、鼻がむずむずしてくる。


「……くしゅっ」


 緊張漂う空間に、淑恵のクシャミが響き渡る。

 間抜けすぎる音に、三者はぴたりと動きを止めた。

 腕の中にいる淑恵を、志偉が心配そうに覗き込む。


「大丈夫? 寒いのかな、あたためようか?」


「あたためる⁉」


 あたためるって、どうやって。

 頬が赤らむのと同時に、淑恵の脳内では妄想劇場が開幕する。


 吹雪の中、山小屋に避難してきた淑恵と志偉。


 ――このままでは凍死してしまうから。


 ――で、でも、裸なんて……。


 寒さの前に、我慢など無用だ。

 強引な志偉に、淑恵はすっぽりと抱き込まれて……。


(なんて。私、欲求不満なのでしょうか)


 そもそも、淑恵は異性に対する免疫がほぼない。

 たまに来るのは度胸試しの青年ばかりで、婚約者から持ちかけられた甘い提案に舞い上がってしまうのは、当然の反応と言える。


「申し訳ございません、お嬢様! 今はとにかくあたたまりましょう。品希、あとは頼みましたよ」


「任せておけ」


 膨らむ妄想に動揺する淑恵を、子晴が引き取る。


「あっ、志偉様」


「僕のことは気にしないで。ゆっくりあたたまってきて」


「ありがとうございます。では、のちほど」


 退室する直前に振り返った淑恵に、志偉は笑顔で手を振った。

 彼の汗ばんだ髪は手櫛で掻き上げられていて、蜂蜜色の目がよく見える。

 初めて見る野性的な姿に、淑恵の胸がきゅきゅんと高鳴った。


(かっこいい……)


 志偉の形の良い唇が、何かをつぶやく。

 淑恵には、またあとでと言っているように見えた。


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