二章

第8話 王弟の誤解

 志偉ヂーウェイとの顔合わせから三日後。

 淑恵シュフェンは朝からソワソワしっぱなしだった。


 なにせ今日は、志偉がやってくる日なのである。

 ここ――八仙花バーチエンファに。


 龍族が治める八仙花には、花崗岩かこうがんの山々が立ち並んでいる。


 風雨によって岩石の浸食が繰り返されることによってできあがった、断崖絶壁の景観。

 海から流れ込む湿った空気が山の峰々に漂うことで発生する、大量の霧や雲。

 峰と雲が織りなす風景は、まさに秘境と呼ぶにふさわしい。


 険しい山々を越えた先にあるのが、淑恵が暮らす離宮だ。

 切り立った崖に囲まれた天然の要塞。

 近くに小さな湖もあり、王族の保養地として文句なしの場所である。


「お嬢様。そんなにソワソワしていたら、志偉様が来る頃には疲れてしまいますよ?」


「分かっているけど、落ち着かないのよ」


「部屋の掃除をするのに邪魔なので散歩でもしてきてください」


「ちょっと、子晴ズーチン!」


 唇を尖らせて扉をにらんでも、子晴は開けてくれない。

 便利な長い耳は淑恵の怒った声を拾っているはずなのに、様子を見に来る気配はなかった。


「仕方ない。言われた通り、散歩に行きますか」


 秘境の離宮のすぐそばには、湖畔がある。

 水面を揺らす風は涼やかで、淑恵は心地よさそうに目を細めた。

 かしただけの長い黒髪が、風に吹かれてゆるゆるとたなびく。


「少し寒いけれど、今はちょうどいいわ」


 寝不足気味でぼんやりしている頭が、すっきりしていくようだ。

 木靴を脱いで、浅瀬にそっと足を入れる。冷たさが心地よい。

 パシャパシャと軽やかな音を立てながら足先で水面を蹴ると、湖畔に棲む魚がさっと逃げて行った。


「いつ頃、到着するのかしら」


 宇翔に言われるまでもなく、志偉には離宮の中で二番目に良い部屋を用意した。

 ちなみに、一番目は所有者である宇翔、三番目は淑恵の部屋となっている。


 ただしそれは、表向きの話。

 実のところ、淑恵は使用人用の部屋を使っている。


 公主にはふさわしくない部屋だが、仕方がない。

 こうなるに至った、深いわけがあるのだ。


(窓を破られた時はびっくりしたなぁ)


 忘れもしない、数年前のこと。

 淑恵の噂を聞きつけた龍族の青年が、彼女を一目見たいと突っ込んできたのである。


(子晴が来てくれなかったら、どうなっていたことか……)


 その後子晴によって捕らえられた龍族の青年は、数年の謹慎ののち、宇翔に厳しく躾けられた。

 素質があったのか宇翔と相性が良かったのか理由は定かではないが、今や次期族長の座を期待されているのだとか。


(複雑な気分になるけれど、後継が育つのはいいことよね。私の部屋が度胸試しに使われるようになってしまったのは遺憾だけど……)


 そういった理由から、この離宮には虚構の部屋と実態の部屋がある。

 志偉の部屋は、虚構の部屋と廊下を挟んだ向かい側。

 婚約者なら、ごく当たり前の配慮だ。


「志偉様が暮らしていた離宮に比べると、ここはどこもかしこも華美よね。暮らし始めたばかりの頃は、調度品を壊さないようにヒヤヒヤしながら廊下を歩いたっけ。懐かしいな」


 緊張のあまり貧血を起こして倒れたことは、今となっては笑い話である。


「志偉様は大丈夫かしら」


 淑恵は、志偉と初めて顔を合わせた時の部屋を思い出してみた。

 趣のある――飾らずに言えば、あと数年で廃屋になりそうな雰囲気だった。


「あの感じがお好みなら、使用人部屋を用意すべきなんじゃ……」


 淑恵の部屋の近くに、志偉がいる。

 そう考えたら、無性にドキドキした。


「ひゃぁぁぁ」


 淑恵は両頬を手のひらで押さえて、しゃがみ込んだ。

 長い裾が水面に舞ったが、そんなことはどうでもいい。

 それよりも、恥ずかしい妄想が止められないことの方が問題だった。


(月夜に照らされた、金糸のような髪。長めの前髪からのぞく欲望に満ちた金の目が、獲物わたしを見つめてギラギラと光る)


 志偉の視線にさらされて、淑恵は何ができるというのだろう。

 寝台で身動きもできず、ただ彼の行動を見入るばかり。

 少しずつ近く二人の距離。


「無理無理無理! これ以上の想像は無理です!」


 煩悩よ去れ!とばかりに水面をたたけば、当然ながら水しぶきが上がる。

 その時だった。


「淑恵!」


 濡れた淑恵の後ろに、ぬっと大きな影が落ちる。


宇翔ユーシャン様?」


 振り返って仰ぎ見ようとした淑恵の体が抱き上げられる。

 慌てて首に手を回すと、すぐそばに志偉の頭があった。


「あら、志偉様でしたか」


「走りますから、しっかり捕まっていてください」


「え、走る?」


 淑恵の疑問に答えないまま、志偉は淑恵を抱きかかえて走りだした。


「えっと。急いでいるなら止めないけれど、私は下ろしてもらえると助かるかなーって」


 荷物よろしく肩に担がれる抱き方は、乙女の憧れの抱っこ第二位だろう。

 ちなみに、第一位はお姫様抱っこ。子晴情報なので参考にはなるかは不明である。


(うう、視界が揺れて気持ち悪い……)


 不調を訴えるために肩をたたくと、志偉はようやく足を止めた。

 揺れなくなった視界に、淑恵はホッと息を吐く。


「すみ、ませ……。でも、入水かと思って!」


「ジュスイ?」


 初めて聞くのか、首をかしげる淑恵。

 志偉は言うか言うまいか逡巡しゅんじゅんしたのち、気まずそうに告げた。


「婚約が嫌になって、入水自殺を図ろうとしているのかと思ったのです」


「ああ、なるほど。それで慌てて抱き上げたんですね。……って、入水⁉ いやいや、ないよ、それはない! ちょっと水浴びしていただけだから!」


「え……水浴び? 人間も、するの?」


 不意を突かれたようにきょとんとする志偉。

 淑恵はぶんぶんと深く頷いた。


「人間もと言うことは、虎族もするの?」


「もちろん」


「それは、虎の姿で? それとも、今の姿?」


「虎の姿が多いかな」


 水浴びする虎はさぞかわいらしいだろう。

 湖畔の浅瀬でひっくり返って水浴びする巨大な猫を想像して、淑恵はニヤけそうになった。


「人間は服を着たまま水浴びをするのだね。不思議」


 淑恵としては、しみじみと言わないでほしかった。

 さすがに真っ裸で水浴びをすることはないが、今みたいにきっちり着た上で水浴びすることはない。


「きょ、今日は、たまたまよ。湖の魚の魚を見ていたら、気持ちよさそうに泳いでいて、つい……」


「そうなんだ。かわいい」


「か、かわ……⁉」


 志偉にとって「かわいい」に大した意味はないのだろう。

 その証拠に、彼は照れるでもなく穏やかな目で淑恵を見つめている。


「ああ、ごめん気づかなくて。これじゃあ居心地が悪いよね」


 志偉はそう言うと、淑恵の体を抱え直した。

 今度は、横抱きである。


(これは、お姫様抱っこ……!)


 感動に打ち震える淑恵だが、自分が意外と重いことを思い出してひそかに焦るのだった。


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