第16話 従者の反抗
雲間から覗いた月が、二つの影を床に落としている。
「あの時、何をしていたのですか? 志偉様」
「あの時って?」
「髪を切ったあとです」
あの時は、確信を得るまではと黙っていたが……。
(廊下を走り去っていく足音は、間違いなく志偉様のものだった)
わざわざ獣の姿を取ったのはなぜなのか。
《まだらもの》である彼は、獣の姿になることはめったにない。
よほどのことでない限り。
「もう一度聞きます。あの時、何をしていたのですか?」
「何って……?」
窓辺に寄せた椅子に座り、志偉はぼんやりと月を眺めている。
風流なように見えるが、志偉の神経は品希へ向けられていた。
まるで、叱られるのを分かっていてわざと目を逸らしているみたいに。
(とぼけるの、下手すぎ。だから、
「昼間、宇翔様の部屋の近くにいましたよね。大嫌いな獣の姿になってまで離宮内を探っていたのには、何か理由があるのですか?」
「理由なんてない」
「ボクに隠し事をするな。分かるんだよ」
品希は、子晴と同じ
子晴と同じく、耳が良い。
ネズミのように丸くて短い耳をしているのを逆手にとって、普段は
兎族は、龍族に仕える一族。
品希の役目は虎族に仕え、志偉の成長を観察し、宇翔に報告することだった。
淑恵と初めて会った日、志偉がどんな顔をしてどんなことを言っていたのかも報告してある。
「彼女のそばにいると、息をするのが楽なんだ」
顔合わせのあとに会った時、志偉の顔は甘く緩みきっていた。
志偉の表情を見て、品希はようやくこの日が来たと歓喜したものだ。
彼が幸せになる時が来たのだと、思わず神に「遅いですよ」と文句を言いたくなったほどである。
品希は長い間、志偉を見てきた。
宸睿が族長になってから、ずっと息苦しそうに生きてきた志偉。
そんな彼が、初めて楽だと言った。
品希はそれが嬉しくて嬉しくて。
志偉の恋を全力で応援しようと思った。
(だからボクは、一族の反対を押し切ってまでここへ来たのに)
品希には言えない何かを、志偉は隠している。
「鼠族の聴力が優れていることは、志偉様も知っているでしょう? 嘘をついてもいいけど、心臓の音で気づきますからね」
「そ、れは……」
「全部話して。話次第では協力するから。そのために、ボクはここにいる」
「品希……」
品希の力強い視線に、志偉がたじろぐ。
その目は、惑いに揺れていた。
何度も何度も言葉を飲み込んで、ようやくの思いで品希に告げる。
「実は、宸睿から龍族の弱みを探って報告しろと命令されている」
「なんだって?」
「僕と淑恵の結婚は、同盟を強化するためのものじゃない。宸睿にとっては、
淑恵との婚約は志偉を厄介払いするためのものだと思っていた。
けれど、宸睿はとことんまで志偉を利用するつもりらしい。
掴みかけた幸せを自ら手放させるような真似をさせる宸睿に、品希は腹の底から怒りの感情が突き上げてくるのを感じた。
「なんて命令を下すんだ」
「品希」
「……事情は分かった」
「分かってくれて、ありがとう」
「でも、龍族の弱みを探るのはボクに任せて。ボクなら、誰にも怪しまれずに行動できる。その代わり、志偉様は淑恵様とできるだけ一緒にいて、注意を逸らしてほしい」
「品希だけを危険に
「適材適所ってあるでしょう? ボクじゃあ、淑恵様の注意を引けない。けれど、探し物は得意。志偉様は淑恵様と一緒にいてもおかしくない。けれど、探し物は下手」
淑恵に気配を気取られそうになったこと。
そして品希にはバレバレだったことを鑑みると、言い訳はできない。
志偉は反論できず、押し黙った。
「宸睿様は、半端な情報じゃ納得しませんよ。それに……もしも見つかって志偉様が傷つくようなことになれば、優しい淑恵様は自分のことのように傷つくでしょうね」
「淑恵が傷つくのは、嫌だ」
「そうでしょう?」
淑恵に
案の定、彼はしょんぼりと耳も尻尾も垂れて困ったように品希を見つめた。
品希は言い出したら聞かないことを、短くない付き合いでよく知っているからだろう。
「……分かった、品希に任せる。でも万が一見つかるようなことがあれば、僕が責任を負う。いいね?」
「もちろん。任せてくれてありがとう、志偉様」
部屋を辞した品希は、宵闇に紛れて走り出した。
向かうのはもちろん、宇翔のところ。
彼ならばきっと、志偉を助けてくれる。
そう、確信していた。
「決して、悪いようにはしませんから」
志偉の信頼を失うことになっても、彼を守りたい。
命令に従うばかりだった品希の、初めての反抗だった。
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