第32話 宇翔の命令

 物陰に身をひそめた兎族たちが、声を出さずにしぐさと視線だけで会話している。

 安全な後方からじっと見つめながら、淑恵シュフェンは険しい表情を浮かべた。


(荒事に慣れているように見えるわ)


 平和なのは淑恵の周りだけだったのだろう。

 大切にされて嬉しい反面、同じ苦労を味わってこなかった申し訳なさに胸が痛む。

 嬉しいともつらいとも見て取れる複雑な表情を浮かべた淑恵に、宇翔ユーシャンは苦笑いした。


「淑恵、今回の任務は志偉ヂーウェイの奪還、それだけだ。それ以上はなにもしてはいけないよ」


「分かっています」


品希ピンシーや捕虜を見つけても、助けない。宸睿チェンルイと遭遇しても、逃げることを優先するんだ」


 宇翔から淑恵へくだされた命令は、ただ一つ。

 志偉の奪還のみである。

 それ以外をすることは許さないと、宇翔は口酸っぱく言った。


「淑恵は器用だけれど、戦闘経験はほぼないね。我たちはそれなりに経験を積んで慣れているから、他のことはすべて任せなさい」


 ひそかに(宸睿に一発くらい見舞いたい)と思っていた淑恵は、見透かされて面白くない。

 しかし宇翔の言い分はもっともで、心ならずもうなずいた。


 やがて、間近で息をひそめていた子晴ズーチンが鋭い声で宇翔に呼びかける。

 宇翔はすぐさま表情を引き締め、「行け」と合図を送った。


 物陰に潜んでいた兎族たちが、凄まじい速さで走り抜けていく。

 あっという間に見えなくなったかと思えば、奥から「ぐべっ」「ぐあっ」と男たちの声が漏れ聞こえてきた。


(痛そう。きっと今頃、兎月拳とげつけんが顎にさく裂しているのでしょうね)


 威力は凄まじいのに、着地の足音は一つもしない。

 今回に限って派手派手しく物音を立てているのは、彼らが陽動隊だからだ。

 かわいい顔をしているが、兎族は容赦がない。


「陽動が始まりましたので、ろうへ参りましょう。お嬢様、行きますよ」


 促す子晴について行こうとして──淑恵はふと思うことがあって、宇翔を振り返った。


(そういえば私、自分のするべきこと以外なにも聞かされていないわ)


 それが宇翔の気遣いだと分かっていても、せめて彼だけはどうするのか聞いておきたかった。


「宇翔様は、どうするのですか?」


「我かい? 我も歳だからねぇ。足手まといにならないように、遠くから狙撃でもしていようかと思っている」


 のほほんと答える宇翔の手には、ボウガンが握られている。

 足元には大量の矢が無造作に置かれていて、やって来た永安ヨンアンがヒョイヒョイと矢の束を追加していた。


「歳とか言いながら、やる気満々じゃないですか」


「ふふ、そりゃあそうさ。我の逆鱗に触れたのだからね」


「俺としては、旧皇城をぶっ潰して宸睿ごと埋めてやりたいくらいですよ」


 ぶつぶつと文句を言いながら、手際よく矢の束を並べていく永安。

 彼の手にも、弩が握られている。


「まぁまぁ。戦わずにすむならそうした方が良い。少なくとも我が王であるうちは、龍族はそういう姿勢でいく。戦いで得られるものなんて、ロクなものじゃないからね」


 どの口が言っているのだろう。

 足元にある大量の矢をちらりと見て、淑恵は思った。


 宇翔は、気が遠くなるような年月を生きてきた。

 そんな彼がロクなものじゃないと断言するのなら、そうなのだろう。


(宇翔様は戦いでなにを得て、なにを失ったのか……)


 ふと、冬に咲くアジサイが脳裏を過った。

 宇翔の特別な花。

 なんとなく、二つは関係がある気がした。


「宇翔様。そういう言い方だと、今すぐ死んじまいそうなんでやめてください」


「すまないね、永安。そういうつもりはなかったのだけれど。だが、オイタが過ぎる虎の子は、少々お仕置きが必要だ」


「おっしゃる通りです」


 宇翔の言葉に、永安が唇の端をニッと上げる。

 よほど腹に据えかねていたのだろう。反撃の機会を得て、宇翔はご機嫌だ。


「私の代わりに、しっかりお仕置きしてください」


「ああ。もちろんだとも」


「淑恵、顔が怖いぞ」


 永安は淑恵の顔を見て、わざとらしく震えた。

 分かりにくいが、彼なりに淑恵の緊張を解そうとしているらしい。


(脳筋のくせに。こういうささやかな気遣いができるあたり、宇翔様の後継とうわさされるだけはあるわ)


 口に出したら調子に乗りそうだから言わないけれど、認めざるを得ない。

 永安は宇翔の後継にふさわしい器を持っている。


 素直に認めるのは悔しくて、淑恵は八つ当たりのように永安の長い三つ編みを引っ張った。

 痛いと言いつつ嬉しそうな顔をしている永安に顔を近づけて、精一杯怖い顔をして見せる。


「永安」


「なんだ?」


「お父様に傷がついたら、承知しないから」


「んなことは、よく分かってるよ。いざとなったら抱えて逃げてやる。だから、おまえも志偉を引っ捕まえて無傷で帰って来い」


「当然でしょ。私を誰だと思っているの?」


「龍公主、淑恵様だろう?」


「ええ、そうよ」


 持ちうる限りの虚勢を張って、淑恵は短銃を構える。

 永安が「公主様、かっこいい!」と持ち上げてくるのを横目に、宇翔へ向き直った。


「お父様。では、行って参ります」


「ああ、気をつけて行っておいで」


 軽い抱擁ほうようの最中、宇翔が淑恵にささやいた。

 いざという時の秘密の作戦。

 信じられない内容に、淑恵は彼なりの冗談かと思った。


「淑恵、志偉を頼む。俺たちの戦いはまだ決着がついてないからな」


「決着なんて必要ないわ。だって、選ぶのはあなたたちではなく、私だもの」


 そうして淑恵は、子晴とともに牢へ向かった。

 その後ろに続くのは、品希と捕虜たちを救出する部隊だ。


 宇翔が張り巡らせた策のおかげで、一行はすみやかに牢への侵入を果たしたのだった。


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